〜 放置死の陰で 〜

本格的な暑いシーズンを前にしてまた幼児を車内に5時間も放置して熱中症と脱水症で死亡させた両親が逮捕されるという事件が愛知で起こった。
お決まりの『パチンコに熱中していて』である。
 
幼い子供を車内に5時間も放置すれば暑さの時季でなくても何等かの異常を来すと思うのが “まとも” な感覚である。
以前にもこの欄で同じようなことを書いているのだがどうして毎年毎年繰り返されるのだろうか。
 
近年は『子育て中の親にも、ゆとりや精神的安定、ストレスの解消が不可欠』と広く喧伝されている。
趣旨に対しては私も全く異存は無い。 
ゆとり、精神的安定、ストレス解消のためになるのならパチンコも結構である。
しかし、幼児を車内に残してパチンコに熱中するのはどう考えても親の態度ではない。
ましてや毎年繰り返されている “痛ましい事故” なのだから逮捕された愛知の両親にしても新聞やテレビで耳目にしている筈である。
 
我が子を車に残す時にほんの一片でも “過去の痛ましい事故” を思い起こさなかったのだろうか。
思うにこの両親としても5時間も車内に放置する気持ちはなかっただろう。
ただただパチンコに熱くなってしまったが故に車内に置いた子供のことが脳裏から消えてしまったのだろう。
 
そこで考えてみた。
『精神的安定、ストレス解消のためになるならパチンコも結構』と前述したが本当に “結構” なのだろうかと。
毎年繰り返される幼児の車内放置死の多くが “パチンコ店の駐車場” で発生している。
放置死とパチンコの相関関係はあるのか無いのか。 
私の結論は『ある』だ。
 
一番大きな原因と思えるのは『パチンコには閉店まで時間制限が無い』ということである。
例えば映画や演劇は上映時間や上演時間が終われば当然ながら終了である。
自分の自覚ではなく相手側から終了を知らされる訳である。
 
読書でも1冊読み切るか区切の良い所で読み終えれば一段落である。
これも1冊、一区切りという終了が付けやすい状態である。
 
しかし、パチンコやスロットは投ずる資金の問題はあるが区切が無い。
玉やコインが出ていれば(勝っていれば)もっと出そうと思い、出ていなければ(負けていれば)何とかして出そうと思う。
勝っていても負けていても “ズルズル” になりやすいのがパチンコやスロットなのである。 
そうであるならばきちんと自己規制が出来ない人がこの手の “終了のない遊技” には手を出しては駄目なのではあるまいか。
ましてや幼児を車中に置き去りにするような無自覚な人間にはタブーだと思うのだが ・ ・ ・ 。
 
私は何もパチンコやスロットが悪いと言っているのではない。 それらはコンピュータに制御された単なるパチンコ台でありスロット台でしかない。
悪いのは何等の自覚も持たずに子供を放置してそれらに熱中してしまう親であり大人たちである。
熱中しても本人の財布が寂しくなるだけならまだしもだが今回の放置死のような人命に関わるようなことになると苦笑では済まない。
 
とても嫌なことではあるがこれからの夏、今回のような放置死事件はまだ起きるのではないかと考えられる。
なぜならこの手の事故(事件)は毎年のように騒がれ、毎年のように警鐘が鳴らされているにも拘わらず毎年発生しているからだ。 
そして現に今年も起こってしまった。
 
何故こんなにも人間は学習能力や想像力が衰えてしまったのだろうか。 
詰まるところは人としての思いやりの欠如なのではあるまいか。
 
思いやりとは『想像力や体験、経験、知識を活かして、及ばぬ部分を補い、相手の身になって考えること』だと私は思っている。
『炎天下の車内は暑い』は体験や経験である。 『暑い車内に子供を長時間放置していたらどうなるか』は想像力であり報道などで得た知識である。
それらを駆使すればそう簡単に幼い子供を車内に放置することなど出来る訳がないのである。
 
今回の愛知の事故(事件)にしても決して我が子に対して愛情が無かったというのではあるまい。
無かったのは根本的にはやはり想像力と自制心の二つだと思える。
 
近年は子供の放置死に限らず、『ムシャクシャしたから』と写真店の店主を殺害したり、轢いた子供を山中に放置したりと想像力や自制心、理性の欠如によって引き起こされる事件が頻発している。
 
『金さえ有れば』の拝金主義が横行しているのもこれら事件、事故の流れと無関係ではないような気がする。
『自分さえ良ければ』の連鎖が想像力を鈍らせ、理性に蓋をし、思いやりの気持ちを希薄にして行く。
 
私たちは今、少し歩みを緩やかにして足元を見つめ何かを考え、何かを取り戻す時になっているのではないだろうか。



 

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