楞厳寺の沿革
 
 
楞厳寺の沿革

楞厳寺は永正8年(1511)6月14日に亡くなられた、春日山林泉寺2世龍室元光禅師(小田原の最乗寺51世)を開山に2世伝芝宗的禅師(天文2年9月5日亡)3世天室光育禅師(永禄6年六月23日亡)と相続されてきた禅寺です。
寺伝によれば柿崎和泉守景家公が帰依された天室光育禅師を請して密教寺院東泉寺のあとを再興し、天文3年(1534)に建立された寺と伝えられております。
 

  天室光育禅師は、上杉謙信公の幼少年期(天文5〜14年の間か?)の師匠といわれる方であります。
現在寺に残っている天室公育禅師ご使用の「禅林類聚」20巻本の書き込み、あるいは各館ごとに誌してある読後感を表わす詩偈にその家風が偲ばれます。
特にその書「出家略作法文」並びに「永平清規」の2巻には機鋒の程が伺われます。
天室光育禅師のお弟子には益翁宗謙禅師が出られ、のちに謙信公が春日山で禅を学ばれております。

天文17年に謙信公が春日山城に入られたのでありますが、柿崎和泉守は越後16家の最強の豪族として謙信公入城以前に天室光育禅師に参ずる機会も多かったことと思われます。
当寺にて朝夕回向しております和泉守の位牌には、当寺中興開基籌山曇忠居士霊位と銘じてあり、和泉守が再び寺を興して経済的な援助をなしてその基をきづかれたと誌されております。
寺伝によれば柿崎和泉守景家公は天正2年(1574)11月22日に亡くなったと伝えられております。
 

  楞厳寺はその後、徳川の初期に柿崎以来の寺領が変り、松平家の家老本多七佐衛門名で東照権現の為に毎月17日茶湯を供える用にと通称「西ノ入清水」が献納され、それが寺領となり今日まで小袖にて37代490余年の法燈を保っています。
 
 
 
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