共産主義のメタレベル
 
 
関曠野氏の大著『プラトンと資本主義』の意想は、近代官僚制の始原をプラトンに措くものであり、言うなればウエーバーの『精神』のパロディーをなすものであった。『プラトンと資本主義』はこの主題の分析を『法律』に依っていたが、では共産主義的な構想を綴った『国家』についてはどうか、これが私どもの期待であったわけだが、氏から事前にいただいたレジュメでは、「共産主義」自体はモアの『ユートピア』以来のもので、それまでの例えば千年王国運動などとは全く質をことにすると記されていた。しかしこれでは「共産主義」を「近代共産主義」とした上でののタウトロギーにすぎないことのように思われる。『プラトンと共産主義』なるテーマ自体なりたたないということになのか。 
 
共産主義の定義を、マルクスの言説を教義的に固着した社会主義→共産主義なる段階的整序にまどわされずに、共産主義、社会主義をさしあたり別物として定義するとする。
ローレンツ・フォン・シュタインによれば共産主義の本質は「個人は絶対に財産をもたず、全体が財貨を共有する状態」であるとされる。(これにたいし、社会主義を彼はこう定義する。曰く「労働を資本に対する支配の位置にたかめ、労働を社会の眼目、即ち規制原理とする」と)ところでカウツキーの『中世の共産主義』によれば、プラトンの古代共産主義は、支配者の共産主義であり、かつ消費の共産主義にすぎなかった。だが「万人が支配者」となったとき、生産者はまた消費者でもあり、財産共有としての共産主義のメタレベルは維持されよう。共産主義は文明によって獲得された労働編成と財産共有によってより自分らしくあるための状態=社会主義として翻案されたのではないか。18世紀社会主義はプラトンの民衆排除を百も承知の上でじつにおびただしく『国家』に依ったのであった。(A.リシュタンベルジェの『18世紀社会主義』) またモア自身もプラトニストであったことを考えると、共産主義の思想的始原としてのプラトンはたしかに実在したのだといえよう。
すると<思想を独自の歴史として考察する>事自体マルクス主義の禁じ手なのは承知のうえで、財産共有とプラトンの形而上学の関係を考察をとおして<財産共有>以上の思考レベルで「共産主義」とはなにか考えたいという誘惑がおこる。今回のM&R研のテーマを論ずるとき、私自身あらためて「共産主義とは…」を口にするとき当の「共産主義」の「主義」そのものについて思考に窮することしばしばであった。幹事会での議論は竹田青嗣 のミーハーを承知でプラトン哲学を「言語を鍛えることによって考え方を普遍化しいてく
独自の思考方法として再生した」ものとして評価し、私などはここにプラトンと共産主義の結節点を見出したのだが、この観点について関さんは、「全くプラトンの個人主義にすぎない」とすげなかった。ともあれ今となっては、イデア論と共産主義の関係という途方もない課題を残し、これに頭を抱えざるをえないのである。 
 
 マルクスのイデア論批判らしい記述が『神聖家族』のセリガ=ヴィシヌー批判…あの個物としての<果実>と<果実なるもの>についての譬である。しかしここでの批判は現実の状態をカテゴリーへに解消してやまないヘーゲル左派批判であり、プラトンではない。山本健郎氏によれば「善はカテゴリーにたいして超越的」である。同様にヘーゲル哲学の神秘性についての「主語と述語の倒錯」の観点ををプラトンの「イデア論放棄問題」つまり述語が述語を喰らいあう論理に準えることも軽弾みなことであるように思われる。そこでギリシャ哲学にはとんと縁のなかった私としては、さしあたり山本健郎氏『プラトン・国家論・考』に寄り掛かりながら、イデア論と共産主義の結びつきについて考えてみることにした。 
 
イデア=<自体的存在>とはパルメデス的存在概念を彷彿とさせる。即ち「つねに同一性をしめし同じ状態にあるもの」「生成消滅することなくつねに確固として在るところの、かの真実在」(『国家』485b)である。<善>のイデアについて山本健郎氏は「太陽の比喩」を分析し「真理と存在…それは、ものの表面の色が太陽に照らしだされることによってはじめて輝き出るように、善のイデアのもとにあってのみ、ものにあらわれる可知性(自体的存在=イデア)である」として、善とイデアの関係について「善がイデアを根拠づける」という簡潔なテーゼにまとめられている。政治的次元ではこれは<よきモノ>〜典型との対照による哲学的浄化の可能性のことであろう。氏はさらに<善>の観念を突き詰めていき「一般化すれば、善とは<らしさ>のことである」という了解に到達する。
するとプラトンの共産主義は、守護者階級が真にポリス共同体の守護者<らしく>あるためのものなのか。プラトンに依れば「国家(ポリス)」もまた「存在」に等しく同一であるべきであり、<多>は悪である。徳は一つだが悪徳は無数に在る。最大の善はギリシャ世界のポリス共同体の統合であり、悪は多くの國への分裂−内乱である。この分裂の要因が「苦楽の私有化」であり守護者階級の財産共有によってそれが解消されるとする。これがプラトンにおける共産主義の導出である。しかし以上のコンテクストからは<善のイデア>と<財産共有共有>との径庭が埋められたとは言い難い。財産共有は「真実在を観る人」の輩出の条件、「守護者階級にたいする凄まじいばかりの思い入れ」(『プラトン・国家 ・考』)にすぎないようにおもわれる。換言すれば財産共有下の支配階級=理知的部分が、必ず「哲人」である保証はない。このあたりの批判はアリストテレス『政治学』第二巻*が興味深いが、プラトンの『国家』を注意深く観察しても看取できよう。曰く 
 
「われわれは、祭典と供犠の式を法に制定しよう。われわれは詩人たちに讃歌を作らせ よう。他方結婚の数については、これをわれわれは支配者たちの裁量にまかせるとしよ う。」(459e、460a)  
 
* アリストテレスはまずプラトンの財産共有を「凡てのもの」と「それぞれのもの」の未分化と して批判する。つぎに財産共有が必ずしも友愛の情を喚起しない事を、家族や旅行者等の事例を 引き合いに出して検証しつつ、「財産は私有であるが、しかし使用の点では共有にする事のほう が優っている」と結論する。(『政治学』第二巻第二章〜第五章)
 
ここでの<われわれ>は対話の主体としてではなく、プラトンの共産主義自体のなかに乗り込んでくる誰かである。支配階級を支配する<われわれ>が何処かにいるわけである。プラトンその人の、これは魂の分裂ではないか。竹田青嗣もいうように「誰が真に有徳かつ有知であるかを決定する根拠が存在しない」のである。考えてみれば婦女共有〜「節制」とは裏腹の、優秀者同士の惜しみない交配の詭計も、金、銀、銅・鉄の魂の「所有は遺伝しない」という「テーバイの建国物語」との対照からして、すでに破産しているではないか。 
 もとをただせば「国家」編成を、魂の階層に準えたところに問題がある。これを<社会>概念の欠如、プラトンの対象とした世界性、即ち古代ギリシャの制約とするのはたやすい。だが国家−社会編成を魂の階層に準える発想そのものに、もはや現代の私たちが囚われていないなどとと断言できるだろうか。なにあろう私自身にとって労働者権力とは嘗て「自己権力」の事であった。はたして存在の同一性は自我における同一性をもたらすのであろうか。自分の支配者は自分なのか。善き人生の目的は自己の支配なのか。この問いに無自覚である限り、魂を国家・社会に準える構制は止むことがないであろう。更に自我の同一性は、自己のみならず他者の手段化を不可避的に招来する。結局「共産主義階級社会」がもたらされるであろう。プラトンの哲学的ホリゾントにおいて、すでにそれは実現されているのである。 
 
併し時代的制約という点からすれば、善のイデアと共産主義について、別の客観主義的見方もできる。プラトンの<社会>概念の欠如は、古代ギリシャ世界が使用価値の分業、質の価値が支配する空間であった故である。原初的「健全な国家」と対照される「熱で膨れ上がった国家」は、ただ使用価値の一層の豊富と関連づけて語られるだけである。 各階級の<らしさ>も各々の使用価値を創り出す<本務への専心>のことであった。しかし資本制社会は交換のための分業、価値量の支配する世界であり(『資本論』第三編12章)、ここではじめて生産は(数の)ideaとして対象化可能となる。これもまた(近代)社会主義におけるプラトニズムともいえよう。「合理的期待形成主体」や奇妙にも符号する、せり人=中央計画当局とは、経済的な「真実在を観るひと」でなくてなんであろう。
『パイドン』に曰く− 
 
「いいかいシミアスこんなふうに、快楽と快楽、苦痛と苦痛、恐怖と恐怖を、まるで貨 幣でもあるかのように、大きいのと小さいのを交換するのは徳を得るための正しい交換 とは言えないだろう。そうではなくて、われわれがこれらすべてをそれと交換すべき真 正な貨幣があるだろう。知恵こそそれなのだ。そして、もしすべてがそれを得るために、 あるいは、それを用いて売買されるなら、そのときこそ真の勇気、節制、正義一言にし ていえば真の徳が存在するのだ。」 
 
なんという等価交換であろう。知は世界貨幣なのか。善のイデアと共産主義の真の一致は、近代資本主義の成立=科学的社会主義の発生をまって初めてなされ得た−といえるかもしれない。 
 
 さてカウツキーの『中世の共産主義』にもどると、彼は近代以前の共産主義を消費の共産主義=享受の共産主義としながらも、歴史貫通的な観点から別な共産主義概念も提出している。即ち… 
「階級はたがいに烈しく闘い、階級は個人に分解し、各人の眼中には自分自身の利益しかなく共同体にたいしてはできるだけ少なく与え、そしてできるだけ多くとりこむ。個人を共同体に固くつなぎとめ、共同体を一つにまとめあげている絆は次第にゆるむ。共同体は衰えるか、でなければ発達にとり残されて、まだ共産主義的徳性と共産主義的力を保有している他の民族の餌食となる。」「現実的共産主義の形態のみられない、あるいは志向される共産主義の形態のみられない時代は存在しなかったといえる」(第一章)  
<志向される共産主義>…マルクス・エンゲルスの共産主義は、所与の所有関係を断ち切ることなしに現状の止揚もあり得ない、ということなのではないか。共産主義とは転換期における能動的主体の媒介のことなのか。想起すればマルクスの労働者階級に対する信頼の根拠は、スト資金がストによって獲得した賃金額より高いというところにあった。(『哲学の貧困』)。即自的な利害関心を超越した行為は、それ自身すでに私有財産を止揚している。厳密に言えばマルクス主義の党観念は、労働者階級の利害というものさえ拒絶している。翻ってプラトンの哲学的カタルシスも、それに通底するであろうか。浄めの役をはたす知とはそういうことか。この知が自体的に実在するのなら、ソクラテスのようにいさぎよく彼岸へ旅立つのもよいであろう。 
勿論このような「個人的心情を温める湯たんぽ」(マルクス『エピクロス論−第6ノート』)は、政治的には敗北以外の何ものでもない。