【真野御陵(まのごりょう)】
順徳上皇火葬塚とも呼ばれている。佐渡に流された順徳上皇は、在島22年の仁治3年(1242)9月12日、46歳で崩御され、この地で火葬にふされた。遺骨は翌年侍臣の藤原康光によって京都の大原へ移され、大原が正式に御陵と定められた。
順徳上皇は、承久3年(1221)に起きた承久の乱に敗れ北条氏によって佐渡に配流となったもの。
承久の乱は朝廷が、将軍実朝の後継問題に揺れる幕府を倒して政権の奪回を企て挙兵し失敗に終わった事件である。
朝廷軍は形ばかりの抵抗をしたものの総崩れとなり、後鳥羽院は隠岐に、院を助けた順徳上皇は佐渡に流され、共に生きて帰るこどができなかった。
現在の塚は、江戸時代前期の延宝6年(1678)に佐渡奉行曽根五郎兵衛が旧跡を修築したもので、宮内庁の管理になっている。一帯は真野公園に含まれている。
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