2004年5月インタビュー



「今日は、『お金』をテーマにインタビューしたいと思います。ちょっと漠然としたテーマですが、先生が『お金』について考えることをだらだらと率直にお話していただけたらと思います。よろしくお願いします」

「金っていうのは、考えるとどこか恥ずかしくなるものだよね。恥がどこか思考をストップさせるというような・・・」

「そのひとに羞恥心があればの話ですけれども・・・」

「本来媒体手段のばすのものが、蓄積物に変わったというところから、それで恥ずかしくなる。蓄積すると嵩張りが見えてくるから、嵩張りがイコール権力になる。使ってしまうと権力を取り逃してしまうということになる。
 金のない時代というのが確かにあった。金じゃないものが権力だった頃だよね。力がそのまま権力になる。つまり強い者が権力を持っていた時代。そこで、弱者がなんとか強者になれないかって判断した結果、金が取って代わった。もちろん、金の出始めというのは、交換手段にただ使っていただけのものだから、Bを欲しい人がAを持っていたら、それをBと交換する。それはあまりにも不便だから、Aを持っている人が何かに交換できるように媒体を渡してBをもらう。その媒体でBを持っていた人はどこかでCを手に入れるか、Dを手に入れるかする。そういう途中の媒体手段として金が発明された。だから媒介物はなんでもよかった。貝殻でも石ころでも。なるべくならピカピカしているもので、黒曜石とか、出土がまれなもので、金とか銀とかになっていった。特徴のない無機質なもので交換するより、なにか美しいもので交換したいというわけで。ところがその媒体物自体を蓄積することで、媒体物そのものに価値が出るようになった。すると、どれだけ価値の蓄積量があるかというふうになっていく。でも、その蓄積量で力の強さを計るのは本来の使い方じゃないんだよね。しかし、蓄積量というのは一種の潜在能力だから、その潜在性が権力になった。でも、その潜在性を見せつけることで、けんかが弱くて実際にけんかすれば負けるような人でも、けんかが強い人に勝てるようなった。だから金を権力に等置するというのは、ある意味で卑怯なからくりだから、金というものを想起すると少し恥ずかしい気がしてくる」

「んん。なるほど。そこまで実際わかっていなくとも、羞恥心だけは残っているものでしょうか」

「残っている。思い起こすと恥ずかしいものというのは、あんまりなくて、金がその筆頭だろうね。ところがその恥ずかしさは、大勢の人が恥を忘れた時に権力として浮かび上がる。大勢の人が恥ずかしいと思ったら『お金はいいです・・・』みたいなことで、その国のあるいはその集団の伝統が保たれるはずなんだけど、みんなが恥を忘れたという一種の安堵体系の中で金は権力を持ってきた。だからある意味で原始的な感覚が残っているということなんだよね。金に恥を感じるということは。だから最初にあなたが『恥ずかしさを感じる気持ちがあればの話ですよね』といったのがそれ。その恥ずかしさを感じない人がほとんどになったから金が権力になった。だから「金は生活できるだけあればいい」なんてのは、どこか的外れで、遠い論点だ。『金があればいい』じゃなくて『生活できる品物があればいい』だったはずなんだ。だから『生活できるだけの金があれば・・・』とうのは、もう完全な言語矛盾になる。『結局はお金よ』ってのもおかしい。金っていうのはただの等値の、数式のイコール記号のところにあたっている物だから、『結局はイコールよ』って訳のわからないことを言っている事になる。イコールの両脇にあるものが金の正体なんだけど、『結局はかえるの置物よ』『結局はマフラーよ』みたいな事を言っている事になるんで、実におバカなの。だって、「結局は」に帰趨するものじゃないでしょ。マフラーも、かえるの置物も。『結局はマフラーとかえるの置物を手に入れる生活よ』って言いたい訳でしょ。ところが、『結局はイコールよ』ってそこを言っちゃってる。そのイコールの両脇を見るとかえるの置物とマフラーなんだ。『結局はお金によって、獲られる便利な生活よ』とか『お金によって獲られる裕福な生活よ』ならわかる。でも結局は媒体物よって言っていること自体が、本当にものを考えられない証拠なんだ。給料を18万、20万持って来ると、18万、20万ものと交換できるわけだが、その交換できる嵩張りの大きさ、それが権力の大きさだから、交換をどれだけの嵩張りで出来るかということが権力になってきた。そのこと自体がもう人間社会の没落だね。人間は交換をそれだけ頻繁にしなくても生きていけるはずだから。だから僕は金のことは小説に書かない。意図して書かないというんじゃなくて、金という概念、等号という概念が出てこない。等号がどうしてこの世で重要なんだっていう風に思っちゃうから。媒体物に過ぎない、その媒体物によって獲られる嵩張りというものに僕は価値を置いてないから」


「金に重きを置いている人は、いつでも交換できる等号を持っている状態でありたいんだろうと思います」

「そういうことを求めている人はでしょ」

「お金を持っている人は何をほしいとか、そういうモノがないんじゃないかなと思います」

「うん、だから、何が欲しいかが重要なんだ。もしその人が精神がほしかったら、お金が要らなくなる。ただ、その精神が本というものに象徴されていたり、映画というものに象徴されていたり、歌舞伎というものに象徴されていたり、歌というものに象徴されていたりするとき、それを手に入れたい時にお金が有効になる。ステレオとか、ちょっと奮発して車とか、そのときにそれに足るものがあるだけでいいということならわかる」

「でも、やっぱり一番大きいものって、住むところだと思いますね。やはり、働く人間、特に都会で働く人間の最終目的と考えると、もちろん、食べるものと住むところが保護者から確保されている学生とか子供は、先生がおっしゃるように、買いものは置物やマフラーなどの小さいの等号のレベルで済んでいるけれども、大人になってくると『家』なんですよね。でも、家なんていうのはとてつもない嵩張りのお金じゃないと買えませんよね」

「衣食住の『住』だよね。衣食住、それに加えて文化っていうモノがある。だから等号をどこに持っていくかだよね。『住む』ということが自分にとって本当に大切か。住む体裁を整えるということが」

「はい」

「住むのに体裁が要らないなら、一生借家でもいい。だれか住むところを提供してくれるひとに、住む代金を払って住むというだけの等号を払って、住まわせてもらえばいい。衣食住のなかでも『食』、これは重要だね」

「でも、衣食住のなかで一番お金をかけずに済ませることができるものですよね」

「お金がかからないくせに、どんな活動するにも、もっとも必要なものだよね。でも『結局はこの世はアップルパイよ』というやつはあんまりいないんで、『食』に金をかける為に懸命に金を貯めるやつはどうもいないんで、だからさっき、あなたがいった『住』という、なぜが人間が気まぐれにバカ高い値段に設定してしまったもの、これに・・・」

「人生をかけるわけですよ。・・・『結局金よ』という女性の特徴は『衣』にお金をかけると思います」

「飾りたいからでしょ。自分の価値を、より膨らませて見せたいからでしょ。だから他人から見られる価値の膨らまし粉のために金が必要になってくる。でも、人生なんてふんどしいっちょで畳に寝っころがって読書しているだけでいい、という人間にとっては書物が重要になるし、書物を得る代替物としての金が有効になる。でも書物を買う金がなくても図書館というものがあって、その図書館に出入りすれば金と同じ価値が得られるけど、『衣』の場合はどこに出入りしても手に入らないし、『食』の場合は出入りするだけなら追い出されるし、『住』に至っては無届けでは出入りできないし、となると、本当にお金を使ってしか価値を得られないもの、は書物ではなく、衣食ということになる。書物には無料の図書館があるからね。必要十分は満たさないかもしれないけど・・・」

「文化的なものは今の日本ではお金がなくても最低限は保証されていますね」

「だから、結局は精神外のところでお金が必要。でも学校に行くところで金がかかる。つまり、精神の体系を求めていくところでも金がかかる」

「精神の体系という純粋な思いで学校に行く人は少ないと思いますね。結局は、莫大な交換物を手に入れるための有効な生き方をするために学校に行く人が多いと思いますね。それに肩書きという権威が加わってくるから。だから一流の学校に行きたい」

「役立てようとする人はね。純粋に精神の体系を求めていく人もいる」

「はい」

「その人にとっては学校に行く金は有効なものになる。でも、衣食住という意味で本来の金の価値を考える人にとっても、学校にいくことが有効だという矛盾点が出てくる。勉強なんかしなくても肩書きだけつけて学校を卒えてもいいわけだから。結局は金というのはあらゆる神経の網に絡め取られているってことなんだよ。金(かね)的な価値体系、金(かね)神経が網羅されている。つまり、大学だろうと何だろうと、純粋に無料提供してくれる文化施設を除いて、すべてにその代替物が必要なんだ。だから、それが必要じゃなかった時代はどういう時代だろうって思い起こすしかない。物々交換の時代だ。物々交換の時代に知識や社会的教養はどうやって手に入れていたのだろう。もちろん無料だったはずだ。物と物との交換だけがあって、物心交換はなかったはずだ。大根をあげますからあなたの頭の中身を聞かせて下さいっていうのはなかったと思う。精神は無料でやり取りされていたと思う」

「知識が売り物になったのは、学校というものができてからでしょうか」

「ある種の人々が積み重ねた知識や精神を、売り物にするようになってから。でも無料学校というものがあれば、その法則は破ることができる。松下村塾みたいに。一切入学金も授業料も取らずに指導した吉田松蔭のように。もちろん、『先生これ食べてください』っていうやつはいただろうけど・・・・。
 金の話に戻りましょう。金はとにかく生理的に恥ずかしいもの。その生理的な恥ずかしさがどこからくるかものか、直感が訴えてるだけだから、論理的に抉り出すのは難しいところがある。でも、あえて抉ってみたい」


「お金っていうもは無くて恥ずかしですか?あって恥ずかしい、ですか?」

「いや、金という存在自体なの。例えば『給料袋を受け取る時に恥ずかしい気持ちがする』って『あれあ寂たえ』に書いたけど、幼稚園のころ、3年間でたった一回、5円玉一個、じいちゃんからもらった。それを手のひらにのっけたとき、すごく恥ずかしい思いがした。そしてすぐ、駄菓子屋にいって貼り絵に交換した。なぜ恥ずかしいのか、その生理を突きとめるのはむずかしい。「なにかに代替しろ」とそこで間接的なことを言われている気がした。直接貼り絵を持ってきてもらったほうが嬉しいし、直接まんじゅうを持ってきてもらったほうがうれしかった。しかし、5円というものでおまえが勝手に代替しろという、その仕組みが恥ずかしい」

「んん。わかりますね。だから、正式な贈り物では、『お金では失礼にあたる』なんてことになるんですね。そこから考えてもやはり、根本に生理的な恥が存在するってことになりますよね。しかし、子供のとき恥ずかしかった代替物を手に入れるために、労働という形で自分の時間のほとんどが奪われる」

「例えば、僕は予備校から給料をもらう。でも、ほんとうは給料なんて一円ももらわなくてもいい。そのかわり、例えば2年後、3年後に『先生、素晴らしいお手柄です。よくこんなにたくさん合格者を出してくれました。それじゃ、先生に家を建ててあげましょう』『お好きな本を千冊進呈しましょう』『3年間、食べ物を進呈しましょう』こっちの方が嬉しい。本当はそういうものが欲しいから給料を受け取る。それを直接してくれずに勝手に手に乗っけられるから恥ずかしい。つまり、人間の怠惰の蓄積を代表して受け取っている気がする。だから代替物なんて元来変なものなんだ。その変なものに恥ずかしさを感じなくなった時に変なものが権力になる。・・・分業化しすぎたせいもあるんだよね。例えば煙草を吸いたければ、個々人が煙草の葉を発酵させて吸っていた。ところが、今は、お金で買わなくちゃいけない。自分で葉っぱを栽培してたばこを作るのは困難だ。となると煙草をつくる分業が発生した」

「煙草を自分で作っていた時代があったとして、そしてその時代が物々交換の時代であったとして、美味しい煙草を作る人にやはり多く交換の依頼があったでしょうね。このジャガイモで譲ってくださいとか。でも、そのジャガイモが欲しく無ければ交換が成り立たない。結局はお金は選択の幅を持つことができますね。労働の替わりに家一件もらうというのもいいけど、この家では気に入らないとか、こういう家がよかったとか、そいうことが起こりますね。選びたいという問題がありますね」

「金があれば、選択の幅でわがままがきくっていうことだよね。つまり金でグレードを選り好みできるっていうことだよね。やっぱり不純だね」

「住む、食べる、着るという基礎的な機能以上のものを好みで求めるということです」

「元来人間は原始が嫌いだったかもね。だから文明時代になったんだよね。不便を便利にするってことが基本だった気がする」

「はい。。。話を戻しますが、やはり、子供のときって、お金をもらってもうれしいものじゃないですよね」

「そうだね、思い出せばわかる。だから自分が大人になって、『お金、お金』って喜んでいる子供を見ると違和感を感じる。どうしても、わからないものって、人間は思考放棄しやすいから『時代のせいだ』なんて言い出す。時代、時代ってたかだか数十年で時代もくそもない。氷河時代とかそういうのでないかぎり。だから、本当にお金という代替物をもらって子供が喜ぶような、なにかそういう仕組みがあるんだよ、現代には。うちは貧乏だとか、うちは金持ちだとか、そういうのを価値観にする、幼い頃から何かがあるんだ。僕は小さいころ、飯場暮らしで、いわゆる客観的に言うと非常に貧乏だったんだろうけど、貧乏と感じたことが無かったし、金持ちの子を羨ましいと思ったことがない。ところが逆に、金持ちの子って『貧乏人、貧乏人』って言う。だから金持ちの子って本当にお金を意識しているんだなってことがわかる。『これ貸してよ』っていうと、『これ高いんだよ』とかさ。幼い頃から、僕の時代ですら、価値観が定まってた。金持ちの子は。だから、価値観が定まっている子だけ、金持ちになるんじゃない? お金を価値とする精神構造と、お金に無頓着な精神構造がある。しかし、なぜかお金に無頓着なほうに誰もが美を感じるんだよね。生理的に。美を感じるものだから何とかこじつけて、『いや、貧乏人に限って金を無駄遣いするからな』とか、一生懸命けなそうとするんだけど、金を湯水のように使おうとする人間というのは貧乏人じゃないんだよ。湯水のようにっていうのは代替物をたくさんもっていることだから、貧乏人じゃない。本来的な意味で潔いものを持っている人たちなんだよ。金を無くしてしまいたいみたいなキ印を除いてね。そういう人に美を感じるから、その美を否定しようとするいろんな言い回しが出てきた。どうして美を感じるんだろうというのは『結局はお金じゃない』という一種の反面的な言い方が証明している。本当はそういうことをしゃべってる人間も結局はお金だと思っていないんじゃないかと思う。だから一生懸命、『愛だってお金で買える』とか、そういう言い方をして、お金を否定する人たちを否定したい」

「金に頓着しないで、ギャンブルとかで借金を作って、周りに迷惑をかけたりする人は駄目ですね」

「金に頓着しないというのは、自分が得た金に頓着しないということで、家賃とか必要な金はきちんと支払うべき人に払って、余った金に頓着しないということだよ。つまり、貯蓄しないっていうこと。未来に備えないということ。だからある意味でいつ死んでもいいやっていう、恐怖心を持たない人間じゃないと金に頓着する。金が将来の自分を支えるだろうという一種の見込みで貯蓄するから。
 むかしはこういう言葉があった。『結局は金のことだろう。たいした問題じゃないよ』っていう口癖があったんだけど、今、そういう言い回しは聞かない」

「・・・ないですね」

「結局は、金で済むだろうという言い回しは、たいしたものでないもので済むだろうっていう意味だったんだよね。だから、今、金がたいしたものになっちゃったみたいで、金で済むんだけど、『たいしたもので済む』になっちゃったんだよね。『金で済むんだけど、その金があるのか』とかね。昔の人はその金がなくても『何とかすればいいじゃないか』だったんだよね」

「今は、孤独な人が多いですからね。頼れる人がいない」

「それは、ご老人の口癖だよね」

「老い先短いのに、すごく強欲な老人もいますよね。老人の一人暮らしで、貧しいアパートに、死後、床下から大金が発見されたとかいうニュースをきいたことがあります」

「地獄の沙汰も金次第っていう諺がある・・・結局は結論がでませんね(笑)。・・・例えば大根とにんじん、『替えてくだせい』、『へー』。数秒なんだ、その交換の瞬間というのは。その交換の瞬間を長引かせるものだよね、金っていうのは。1年貯めといてもいいし、10年貯めといてもいい。媒体手段を保存するという一種の革命だよね。それまでは交換物を保存していたんだ。米を保存する、麦を保存する。そして交換しよう。でも、腐れば交換できなくなる。金は腐らないからいつでも交換できる。そこで一種の万能者の地位が金に備わってしまった。見えてきたぞ。『結局は金よね』というのは『結局は万能よね』なんだな。その万能でもどうしようもならないものが、昔から言い伝えられてきた、あまちゃんのセリフと貶められているもので、『愛は金で買えない』。でもこの真実だけは、曲げられないものなんだよ。ところが、『愛も買える』というふうに金の亡者たちが言い出した。なぜなら愛というものを、金に飛びつく女という同意語にしちゃったから。あるいは金に飛びつく男。だから人間が下劣になればなるほど、金の万能性が増してきた。精神まで買っちゃう。これがきょうの結論だ。つまり、精神冒すべからず部門までに手を広げているもの。変な蜘蛛の巣を張っているもの、それが金だ。だから金を手のひらに受け取る時、恥ずかしい気がする。いずれそれが嵩張れば、そういうみっともない万能物になる。それで金を触ると何か生理的に恥ずかしい気がする。しかし美しい目的、精神性を高めるために金を使っているなら、金は美しい存在だと思う。おまけにそういう時、金は話題にもならないと思うよ。金が話題になるときというのはたぶん、精神が冒されているときだ。精神の価値を低く見ようとするときに、金を懸命に喧伝するんだろうね。まあ、金に価値をおく奴は『精神なんてどれほどのもんじゃい』って言うだろうね。そういうことを言う人は考える力がない。考える力を精神っていう。考える力だけは買えない」

「そうですね。それは本当に買えませんね」

「今回はここまでにしましょう。取りとめもなく語りましたが、ほぼ語り尽くした感ですね。楽しい会話でした」

「ありがとうございました」

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