灯火の蕩れる前座敷。黒檀の床柱に背を凭れて坐っていた辰五郎は重ね敷いた黄金絹織の一双の座布団を外して展げ示し、それを客の前へ両手で押しやってじかに畳に坐った。額に角ある鬼が、それぞれ一匹ずつ、金の生地に織り出されている。左向き一本角の鬼は、顔が緑色で金髪を振り乱しており、右向き二本角のほうは、灰色の額に金の輪をはめている。おどろおどろした鬼の姿は、人にその上に腰を下ろすことを躊躇させる。客は、この二匹の鬼を向かい合わせに並べて、立って眺め下ろし、
「見事―」
と感嘆した。
― (序章より)
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近代文芸社・編集部
鯉人は,純朴で,巨大な,魂の物語です。
当代随一の豪商としての身分,金銀にまみれた豪奢な生活,多様な人間たちとの交流,政治や文化や風俗といった世の中全般に対して,辰五郎の魂は決して最終的な満足を獲ることがありませんでした。ものごとをありのままに感知してしまう才能がありすぎたのだと思います。それでいながら,終始,世の中全般に対する優しさと,微笑と,善と,義と,凛々しい態度を忘れることはありませんでした。
隠遁を選ばず,市井のなかで苦しみぬくことを選びました。どんな喜ばしいこと,華々しいことに接しても,そのこころの底流に求心的な苦悩や憂鬱が貫かれていることに気づき,圧倒されます。辰五郎がひっそりと守りぬいた魂が解放され,安らぐことができた場所は,吾妻のなかにしかありませんでした。吾妻は,愛そのもののような存在でした。自然そのもののような愛で辰五郎を包みながら,命の花を咲かせます。
私はこの小説は,本当に二人だけのものであると思うのです。二人は世に泥むことなく,おごることもありませんでした。かくも無垢で,偉大な魂が,愛し合いながら,摂理によって生かされ,殺されいく,ふるえるほど悲しい小説でした。
早稲田大学 文学部3年 川畑氏 2010年4月