とらぶた
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 ずれずれ草 15年04月

 今月の内容 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

         
 山内進『十字軍の思想』【ざるあたま自習室76】
 上垣外憲一『雨森芳洲 元禄・享保の国際人』【ざるあたま自習室77】

  映画


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2015年04月11日
  あせるあせる・・・・・・

  もう今年もまるまる3カ月と3分の一過ぎち
 ゃいました。皆さまお元気ですか。
  いまやっと、「1月のうちにやっておくこと」
 ができたところです。 うう身体が重い、頭が
 動かない・・・・・心だけがやたら元気です。
  もっと心身頭が一体になって着々と
 歩んでいきたいものです・・・・・・。

 ↑ずいぶん葉っぱが出てきた5日の桜。
 八王子でも雪が降った8日、9日・・・・・・冬が
 逆戻り・・・・・・花かわいそう。あんまりです。


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2015年04月11日
(2012年5月読了)
 ざるあたま自習室(76
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・津野田リストNo.77

  山内進 『十字軍の思想』
  ちくま新書、第1刷発行:2003年7月
 


  異教徒を「邪悪な存在」ときめつけ、彼らか
 ら「聖地を奪還する」という「大義」を掲げて
 無数の破壊と暴力行為を残した「十字軍の
 遠征」。

  自らを正義とみなし、正義の前にはどんな
 行為もゆるされるとした、ローマ教皇主導の
 この「運動」の精神は、いったい、どんなふう
 に培われ、広がっていったのか。
  西洋に特徴的な「正しい戦争」、「聖性と暴
 力の結合」という思想の歴史的経緯を振り返
 り、その先に、2003年当時の、アフガニスタ
 ン、イラクを空爆したアメリカ合衆国の姿があ
 ることを説く。

  “エルサレム奪還”をめざした、11〜13世紀
 の“いわゆる十字軍”のあとも、ヨーロッパは、
 「十字軍」思想による「聖戦」を繰り返した。
 同じキリスト教内の「異端者」に対して。
 ピューリタンの「理想」のために。
 さらには、「未開」と見なした人々を征服して
 「ヨーロッパを拡大」するために。
  中でも、「北の十字軍」の話は初めて知り、
 胸が凍りついた。
  バルト海沿岸に住む、ヴェンデ人、リトア
 ニア人(セミガリア人、セロニア人、レット人)
 クール人、オーセル人、エストニア人、リヴォ
 ニア人など、異教徒の先住民に対して、十
 字架をつけた“騎士修道会”の軍隊が破壊
 と殺戮、略奪の限りを尽くし、バルト海沿岸
 の土地を征服した。
  12〜15世紀の「ドイツ騎士修道会国家」と
 いうやつだ。
  騎士修道会をつくったクレルヴォーの修
 道院長、聖ベルナールは、《キリスト教のた
 めに戦う騎士修道士は、人を殺しても罪に
 はならないと断言し》p108、戦士たちを「激
 励」、教皇(エウゲニウス3世)となった弟子と
 共に、ドイツ、フランス国王、北ドイツの諸侯
 をこの「聖戦」に引き入れた。
  ・・・・・・この歴史の先に、かの大航海時代
 と、スペインによる南米の征服がある。
 
  ここで、やっぱり知りたくなるのは、こうした
 精神構造というか思考が、どこからどんなふ
 うに内発してきたか、ってこと。
  やっぱり、『肉食の思想』に行き着いてしま
 うんでしょうか。

  本書を読んで、ちょっとだけほっとしたのは
 ヨーロッパ人の中に、「そりゃおかしい!」と
 言った人が、ちゃんといたこと。
 『インディアスの破壊についての簡潔な報
 告』をしたラス・カサス
たちだけじゃなかった
 のだ。
  騎士修道会の聖ベルナールには、パリ大
 学の神学教授アベラールが反論する(けど、
 アベラールは、「異端」ということにされ、クリ
 ニュー修道院に退いて没したそうだ)。
  16世紀、オスマン帝国に対して“聖戦”を
 すべきだという流れが起こったときは、フィレ
 ンツェの宗教改革者サヴォナローラや、コー
 ランの研究(イスラム教徒を改宗させようとし
 て研究したのではあったが)をした神学・哲
 学者ニコラウス・クザーヌス、それから人文学
 者エラスムスも疑義を発表したそうだ。
  後の時代だが、モンテーニュやディドロ、
 それから『ローマ帝国衰亡記』のギボンも、
 「十字軍」を冷静に批判していると聞き、ほっ
 とした。
  あやうく「バカとヨーロッパ人にはつける薬
 がない」などと思うところでした、スミマセン。
  ちゃんと西洋思想を、基礎から勉強したい。

 (付)ただいま、福田歓一『政治学史』東京大
  学出版会を、毎日ちょっとずつ勉強中。
  昨年秋に一度読み終わって、何も頭に入
  っていなかったので、今2周目です。


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2015年04月25日
(2012年5月読了)
 ざるあたま自習室(77)

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・津野田リストNo.78

  
上垣外憲一(かみがいと・けんいち)

   『雨森芳洲(あめのもりほうしゅう) 
              
 元禄・享保の国際人
    中公新書、初版:1989年10月


  雨森芳洲(1668〜1755)は、江戸時代中
 期の儒学者。朝鮮半島への窓口であった対
 馬藩に就職し、朝鮮との外交を担当した人。

  相手を知るにはまず言葉から、と、朝鮮語、
 中国語をマスターし、学習方法までを分析し
 て後世に残した。彼の外交実務には、「あら
 ゆる民族は平等」「武力で他者を制圧する
 のは非道」という、時代に(ヴォルテールの
 『寛容論』よりも早い)先駈けた思想がつら
 ぬかれている。
  江戸時代の学者といえば、自国文化のよ
 さを誇る国学ばかりが、明治維新、近代を経
 て注目されてきた。忘れられた存在であった
 芳洲の思想、人柄の豊かさに光を当てた評
 伝。

  芳洲は、戦国時代、かの豊臣秀吉に滅ぼさ
 れた、浅井家の被官一族の子孫だった。秀
 吉は、ご存じのように信長の下で近江の浅
 井家を滅ぼしたのち、「天下」をとって、あげ
 くに朝鮮侵略をしてしまうのだが、そのため
 か、芳洲には、武力征服を憎む気持ちが、
 幼い頃からあったという。医者の子に生ま
 れ、跡を継ぐことを期待されたが、学んでい
 た儒学に心を動かされ、17才で江戸の木下
 順庵の門に入る。

  この木下順庵という、新井白石、室鳩窓
 儒学者)、祇園南海(漢詩人)、そして芳洲と
 優れた個性を輩出した学窓を表現した言葉
 がまぶしい。
  《みなそれぞれの持ち前を発揮して名を
 残している。しかもこうした個性的な、我の強
 い順庵の弟子達は、最後まで決裂せず、親
 しい交際を続けていく。
  順庵の門が和気藹々たる雰囲気のもとに
 なかったら、このような仲の良さは生まれなか
 ったに違いない。傲岸といってもよいほどの
 自信の強い白石も、木下順庵にだけは終生
 敬愛の念を持ち続けていた。》p27−28
  《順庵は朱子学を正統としながら、異説を
 容れる寛容さがあった。加賀侯のために、オ
 ランダ語の本草学書の購入に携わったこと
 もある。彼の目は広く西洋の科学にも開か
 れていた。『蘭学事始』の百年前の時期にお
 いてのことである。》p28
  この、11才年上でありながら「1つ後輩」で
 ある新井白石と、芳洲との、生涯を通じお互
 いの才能を認め合った交流が興味深い。
  60年を対馬で過ごした芳洲の、壮年まで
 の日々は、白石の推挙で中央政府で活躍す
 ることを夢見ないでもなかったし、白石にもそ
 の意志があったという。だが、己の才を頼み、
 朝鮮を蔑視する白石と、朝鮮の言葉を理解
 し、面倒な交渉を通して朝鮮の役人・使者と
 理解を深めてゆく芳洲とは、通信士の挨拶
 状の文言、儀礼の作法、そして、純銀含有
 量の違う銀貨の取り扱いをめぐって、鋭く対
 立することになる。白石に日記には、芳洲を
 激しくののしる言葉が残っているという。
  だが、白石が失脚し、世から忘れられた後
 も、二人の友情はつづいたという。
  そんな白石の、無名時代の漢詩を、木下
 門下にいた対馬藩の阿比留という青年が仲
 介して、朝鮮通信使の製述官(文章によって
 応対を行う人)成?(ソンワン)(翠虚(チュイ
 ホ))が読んでくれた。ソンワンは、白石の詩
 の優れていることを認め、ぜひにと言って白
 石に面会した・・・というエピソードは、ちょっ
 とじーんとする。
  《身分の高下などに関係なく、詩文の実力
 によって人物を評価するという姿勢がそこに
 ある。》p35
  しかし、この30年後の通信使には、白石
 は幕府の実力者として応対し、《通信使との
 応対は学問と詩文をもってするほとんど戦で
 ある、といった猛烈な意気込み》をみせ、芳
 洲とも対立することになるのだ。重い役目を
 背負っているとはいえ、白石がもうちょっと謙
 虚だとよかった。

  芳洲と、『海游録』という記録を残した通信
 使、申維翰(シン・ユハン)の、交流も興味深
 い。
  芳洲は、任務上しかたなく、京の方広寺
 (秀吉が創建、朝鮮侵略のときの「耳塚」が
 ある)へ、嫌がる通信使を赴くよう迫る。その
 芳洲の激しい威嚇の様を、申はしるし、芳洲
 を「狠人(こんじん)」(心のねじけた人)と書
 いている(のち、理路整然と反論する通信使
 に、芳洲はあやまったそうだ)。
  その後、江戸までの道のりを共にする芳
 洲と、申は親密になり、その人となり、能力を
 高く評価した(漢詩の書けない対馬藩主や、
 幕僚たちより上だ、と)というのも心に残る。
  著者によって活写されるこういうドラマが、
 ほんとにおもしろく、心引かれた。

  でも、やはり、知りたくなるのは(著者も今
 後の課題として言及しているが)、朱子学と、
 このような芳洲の平和・平等思想との、根源
 的な関わりのこと。
  朱子学といえば、やっぱり、身分の上下や
 女性差別を肯定したものですよね。だからや
 っぱり私は、ちょっとひっかかる。
  芳洲は妻と大変仲が良く、子どもたちにも
 自慢しているとか。けれど、その妻の名は、
 「小河氏」としか残っていないようだ。芳洲は
 妻の名をどこにも記さなかったのだろうか。と
 すると、「仲がいい」というのも、妻の方から見
 たら、どうだったろう・・・。 
  儒教、朱子学のことも、もう少し知りたくなっ
 た。 


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2015年04月25日
ものすごく久しぶりにCDを買いました!

  胡池マキコさんの「ワンダーランド」
  きらきら透明感があふれているのに、深み
 のある声、軽やかに聞こえてきしきしと胸がき
 しむような詩の世界。
  久しぶりに、繰り返してなんどもきいてしま
 っています。
  《遠い世界へとはばたいてゆく、
  飛び方もわからぬまま》
  こんな年齢になって、こんなこと言ってて
 いいのでしょうかと思いつつ、ぐっと来てしま
 う・・・。












1stアルバム「ワンダーランド」→
koike.makiko画


 
 
たしか、10年くらい前にスピッツのアルバ
 ムか何かを買って以来だと思います。

 ・・・・・・きれいな水が身体じゅうにゆっくりめぐ
 るようでした。
  一度違う道に進まれて、どうしても歌いた
 い、と、ギターを手に歌い始めたといいます。
  久しぶりに、歌声に心が深呼吸した心地
 です

  胡池マキコさん公式サイト↓ 
 
 http://koikemakiko.com/movie.html