題名を聞いただけで、じーんとしてうれしく
なった。
最近やたらと流行している「日本ほめちぎ
り番組」はなんだか気持ち悪いと感じる私で
も、「日本国憲法第9条」や、「江戸時代とい
う人類史上まれな平和な230年を築いた」と
かをほめられると、日本という歴史空間に生
まれたことがうれしくなる(だからこそ、過去の
東アジア・東南アジアへの傲慢な加害を、心
情的に恥ずかしく思う)。
著者は、この日本語版への序文を書いた
とき、アメリカ、ダートマス大学の英文学の先
生。日本人の知己から教えられた日本の文
献と、あとは、英語の論文を渉猟してこの論
考を書いた。1965年に『ニューヨーカー』誌
に掲載されたものを下敷きに加筆し、1979
年に発行。大きな反響を呼び、各紙にあい
ついで書評が載ったという。
つまり、「武器を持たない」という日本の戦
争放棄思想に、たくさんのアメリカ人が大き
な刺激を受け、感心したのだ(ヨーロッパで
の反響はどうだっただろう)。
著者は、まず、日本人がなぜ、戦国時代
にあれだけ発展した鉄砲を捨て、「刀の文
化」を選んだか、文化的な側面、心性から考
察する。そして、幕府による鉄砲の取り締まり
が徹底し、新兵器の技術開発が止まったの
に、つづく平和な時代に、いかに、他の面で
技術が(江戸の水道施設、各地の灌漑工
事、鉱山技術など)すすみ、学問や文化が
栄えたか、たくさんの例を挙げている。
人間を、《近代技術を乱用しかねない、
信頼できない存在》だとするアーノルド・トイ
ンビーの、“社会道徳の遅れから人類の生
存を守るために、「過去三百年の技術進
歩」が後戻りできればいいのに”という考えを
紹介し、だが、暮らしを便利にする技術の進
歩すべてを停止しなくても、《どれか特定の
技術だけを選択》して止めることはできるの
だと、その実例を、著者は、徳川期日本の
歴史的事実に見て、希望をみ出している。
平和の中で生まれ育った幕末の日本人は
とてもすてきな人たちだった。
幕末の日本を訪れたヒュースケン(日本人
に殺されちゃう・・・)、ハリス、オールコック、
エドワード・バリントン・ド・フォンブランケ将
軍、モース博士たちが、口をそろえて、日本
人の幸福そうな様子、礼儀正しさ、頭の良さ、
ロシア人やヨーロッパ人に比べて、自分の名
前のちゃんと書ける人の多さに驚き、ほめて
いる。列挙されたそれらの引用文に、なぜか
おもわずてれてしまう。
昨今、「従軍慰安婦のことを子供に教える
と、自分の国に誇りが持てなくなる」などとお
っしゃる方がおられるが、そういう方はまず、
この本を子どもたちに勧めたらどうでしょう。
「従軍慰安婦を教えない」努力をするより、
ずっと日本に誇りを持てると思いますが。
でも、喜ぶのは早い。
あくまでも著者は、江戸時代(幕末)の日
本人をほめているのだ。
《当時、日本の国は人口三千万をかかえ、
自給自足をしており、公害はなく、二百年間
安定した国家の歴史をもつ、非常に美しい
ところであった。もちろん現在の日本にこれ
を探そうと思っても無理である。》p120
この本が出た頃よりもさらに、今の日本の
風景は、美しさを失っている。どこの町も同じ
ような四角い高い建物で景色がふさがれて
いる。
そして、この本が、昔の日本を褒めちぎる
ために書かれたのではなく、《日本の歴史に
教訓を汲みとった反戦・反核の書である》
(訳者あとがき、p143)ことを、忘れてはなら
ないと思った。
《人類はいま核兵器をコントロールしようと
努力しているのですから、日本の示してくれ
た歴史的実験は、これを励みとして全世界
が見習うべき模範たるものです。》(日本語
版への序文、p8)
兵器だけでなく、核じたいにも、この提言
は当てはまるでしょう。
せっかく「原発が全部止まっても、大丈夫」
ってわかったのに、また「再稼働」だなんて。
ノエル・ペリン先生は、2004年、自宅農
場で没、訳者の川勝氏は、現・静岡県知事。
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