フリードリヒ大王
矛盾の英雄



 みなさんは、フリードリヒ大王のことを知っていますか?
 おそらくはくわしく知らない人が多いと思いますので、その国王としての足跡を簡単に追ってみましょう。まずはそこからスタートしたいと思います。

プロイセン大国への道

 ドイツは中世以来、長く小国分立状態が続いてきました。そのため、常にフランス、オーストリア、スウェーデンなどの大国の勢力争いの草刈り場となってきました。そのドイツは19世紀末、プロイセンによって統一が果たされ、ヨーロッパ中央の大国としての地位が確立されます。そのプロイセンとは、もともとがドイツ北部の「やや大きめの小国」程度の国でした。それを、ヨーロッパのビッグ5といわれるほどの強国に押し上げたのが18世紀のプロイセンの国王、フリードリヒ2世(大王)なのです。
 18世紀のヨーロッパは、オーストリア、イギリス、フランス、ロシアが大きな力をふるっていました。とくにハプスブルクのオーストリアは、神聖ローマ帝国の盟主としてドイツ諸邦に対して支配的な影響力を持っていました。そのハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝として、王女マリア・テレジアが即位しました。これに対して、北の新興国プロイセンのフリードリヒ2世は、女帝の即位を認めないということで抗議し、たちまちのうちに軍をオーストリア領内に進撃させ、シレジエン地方を占領します。これに便乗してフランス、ロシア、スウェーデンなどもオーストリアに攻め込み、オーストリアは苦境の中で四囲の敵と戦います。世に言う「オーストリア継承戦争」です。(この頃の国際関係なんて、ほんとえげつないものですね)
 オーストリアはこの危機を、外交努力で切り抜けますが、結局、最終的にはシレジエンをプロイセンに割譲する形で講和を結ぶことになってしまいます。
 シレジエンは、人口も多く、豊かな地域で、プロイセンの経済力はこれで大きくアップします。もし、プロイセン本国を甲斐、信濃だとすると、シレジエンは、駿河にあたります。こうたとえると、その存在の大きさがわかるのではないでしょうか。
 しかし、このプロイセンのシレジエン簒奪に、オーストリアのマリアテレジアも黙っていたわけではありません。フランスと裏で手を結び、ロシアも抱き込んで、プロイセン包囲網を作り上げることに成功しました。
 オーストリアの巧みな外交攻勢に孤立し、窮したプロイセンは、先んじて電撃的な軍事作戦を起こすことで事態の挽回をはかりました。こうして7年戦争(1756〜1763)が始まるのです。
 はじめはザクセン、オーストリアと、思うままに暴れ回ったフリードリヒ率いるプロイセン軍でしたが、フランス、ロシア、スウェーデンが大軍をそろえて四方から進軍してくると、さすがに苦しくなります。それでも、フリードリヒは戦略、戦術的な才能をフルに発揮し、東に西に転戦し、ロスバッハ、ロイテン等、戦史上に残る鮮やかな作戦で次々と連合軍を撃破していきます。兵力で3倍〜6倍する敵軍に、「これぞ内戦作戦」という見事な機動を見せ、少ない兵力をフルに活用して奮闘します。しかし、それでも兵力の消耗と共に、次第に劣勢に陥っていきます。もともと国力のないプロイセンは、兵力、経済力共に底をつき、ベルリンまで攻め込まれてしまうほどの危機的状況にまで陥ります。
 四面楚歌、プロイセンは風前のともしびでした。フリードリヒ大王自身、自決まで覚悟したということです。
 しかし、ここで運命の女神はフリードリヒにほほえみます。ロシア皇帝エリザベータが急死、跡を継いだピョートル3世が大のフリードリヒ贔屓で、突然プロイセンと講和し、連合軍から離脱してしまったのです。これを機に、連合軍の足並みは乱れ、ついにはオーストリア以外の国はすべて兵を引いてしまいました。こうして危機を脱したフリードリヒはオーストリア軍を打ち破り、講和を結びます。プロイセンのシレジエン領有は完全なものになったのです。
 その後のフリードリヒはもはや大規模な戦争をすることはありませんでしたが、オーストリア、ロシアと共に歴史上有名な(悪名高い)ポーランド分割を行い、プロイセンの領土を更に増やします。
※ポーランドは後に、ヒトラーとスターリンに再び「共謀領土分割取り」をされています。

 矛盾の英雄 フリードリヒ

 プロイセンから見ると、フリードリヒのしたことは「偉業」に違いありません。しかし、オーストリア、いや、プロイセン以外すべての国の人から見れば、彼のしたことは、領土の簒奪、侵略に他なりません。シレジエン進軍の言いがかりもひどいものです。更に、後のポーランド分割は更にひどい、列強と共謀の上での分割侵略です。国家同士のレベルで見ると、フリードリヒはとんでもない大悪人です。厳しい見方をするなら、国内でも、フリードリヒは7年戦争遂行のために厳しい徴兵、悪貨鋳造など、国民の幸せにならないことも結構やっています。
  こういうダーティーな面を持ちながら、「国家第一の下僕」として国民のために尽くす「啓蒙専制君主」を彼は演じています。
 彼がやった啓蒙政治としては、学問の保護・奨励、宗教寛容化、貧民救済、裁判の公正化、拷問の廃止などがあります。これら一つひとつを見てみると、単にそれが国力増強につながる利益を生むからというものでなく、まじめに国民の幸福を願ったものであることが感じられます。少なくとも、彼の意識としては「みんなを幸せにするためにがんばる王様」であろうとしたのです。
 また、哲学、文学や芸術を愛し、ヴォルテールやバッハなどを宮殿に招いたこともあったそうです。自らフルートを演奏し、作曲もする芸術家でもありました。
  文化人であり、国民のために尽くす啓蒙専制君主としての誠実さを持ちながら、同時に他国を侵略する野心家、侵略者としての顔も持つ。国王とは自国民の幸せや利益のために奉仕するものだというのが彼の理屈ですが、しかし、あまりにも極端です。他国民の幸せや利益は踏みにじってもいいというのでしょうか。
 誠実で国民思いの為政者と、苛烈で貪欲な侵略者、優雅な文化人と無骨な軍国主義者、その相容れないものが、ひとりの人間の中に平然と同居している、それが人間フリードリヒだと言えるでしょう。まるでジキルとハイドのような、混じることのない両極端の人間性を兼ね併せ持つフリードリヒ、彼はなんでこのように複雑な人格を持つに至ったのでしょうか。

両極端の父と母

 フリードリヒ大王の父、フリードリヒ・ウィルヘルム1世は、根っからの軍人でした。「兵隊王」と呼ばれた彼は、小国プロイセンにしては多すぎるくらいの常備軍を作り、それを鉄の規律で徹底的に鍛えます。この頃のプロイセン軍の厳しい軍律や訓練はヨーロッパ一でした。(プロイセン軍の兵士は、戦場で敵兵よりも上官を恐れたといわれています)プロイセンは、国は小さいながらも侮れない軍事力を持つ軍事国家となったのです。
 しかし、無骨な「兵隊王」の妻、つまり、フリードリヒ大王の母親は、それとはおよそ正反対の性格、素養を持った人でした。イギリス出身の彼女は教養が豊かで、西欧思想に触れ、音楽や芸術を愛する優雅で先進的な文化人でした。
 両親がまったく違ったものを持っているというのは、悪いことではありません。歴史上の偉人の父母には、しばしばそういう組み合わせが見られます。しかし、フリードリヒの場合は、どうもそれがうまく作用しなかったように思えます。両親は教育方針で対立し、それは幼いフリードリヒを相当混乱させたように思われます。
 フリードリヒは母親の芸術家気質を受け継いだといわれ、繊細でデリケートな少年でした。父親にとって、そんなフリードリヒは「軟弱者」であり、自分の嫡子であるだけになおさら一挙一動が勘に障っていたようです。ひとことでこの父親の教育を言うならば、「ビシビシスパルタ的に鍛え抜く」というところでしょう。一方母親は芸術的感性豊かなフリードリヒに「情操教育」を施そうとしましたが、父親はこれを真っ向から否定し、芸術に触れるような機会をいっさい奪い取り、蔵書も取り上げ、時には怒り狂って杖で打ちすえたといわれています。少年フリードリヒの心は、父親と母親にまっぷたつに引き裂かれていたのです。
 フリードリヒは、教養豊かな母を愛し、文化、芸術に気持ちを寄せていました。そして、軍国主義者の父を憎み、呪っていました。
 しかし、その一方で、父親にあこがれ、父親に認められたいという強い思いも同時に持っていた・・・・と、ぼくは思います。少なくとも、後の彼の行動を見ると、そうとしか思えないのです。

早すぎた父の死

  フリードリヒは18歳の時、イギリスへの亡命を試みます。しかし、それは失敗し、手引きした友人は目の前で斬殺、彼自身も父から死刑を言い渡されます。結局周囲の取りなしで死罪は免れますが、王太子としての地位は剥奪、過酷な幽閉生活を強要されます。
 その後、フリードリヒは父へ恭順の手紙を書き、許されます。やがて王太子としての地位を許され、軍務につき、父親の命に従って結婚しています。この結婚は、深い愛情関係に至らない実り薄いものでした。
 これ以降のフリードリヒは、父親に従順で、軍人として勤勉・忠実に職務に励んでいます。父親もそんなフリードリヒを認め、次第に信頼するようになります。
  なぜ、フリードリヒはあれほど嫌っていた父親に、これほど忠実に従うようになっているのでしょうか。
 ぼくの推測ですが、亡命事件をきっかけに、皮肉にも父子の関係が安定したのではないかという感じがします。事態が事態なだけに、もはや逃げ場がなく、うちひしがれ、ひたすら父親の厳しい処置を素直に受け入れるしかなくなってしまったフリードリヒ。父親にしてみると、自分の思いをすべて息子にぶつけ、強要することが許される状況。いわば自分の手のひらの上に我が子がいる−この状況に、父親の方が安心、満足したのではないかという気がします。自分の思いが相手の中にすんなりと入っていくというのは、実に気持ちよく、うれしいものです。だから、あれほど嫌っていた息子、自ら処刑を主張していた息子をすんなり許す気持ちになったのでしょう。そうすると、厳しいながらも肯定的な目で見てくれるようになった父親に対して、フリードリヒ自身も素直に応えようという気持ちになったのではないでしょうか。
 しかし、その一方で、結婚後、ある程度の自由を許されてからのフリードリヒは、文化人たちとの交流を深め、啓蒙思想、哲学に深く傾倒していきます。この頃著した「反マキャベリ論」は、君主は国民の幸せのために奉仕しなければならない、国民の範たるべく道徳的に行動しなければならないという理想の君主を説いたものです。ズバリこれは父王のあからさまな批判、父親のような絶対的な専制君主のスタイルの真っ向からの否定です。
 フリードリヒは、父親に認めてほしい、愛されたいという強い思いと、父を憎み、否定する思いという正反対のものを同時に心の中にかかえた青年に成長していたと考えられるのです。おそらく彼は、心の中に矛盾した感情をかかえ続け、それは融合させることができないままでいました。
 フリードリヒ28才の時、父が死に、彼はプロイセン王となります。20代の若さながらも、政治的にも軍事的にも彼の君主としての力量は十分、明らかに父親を超えていました。しかし、彼の父の死は、青年フリードリヒには早すぎるものだったのではないでしょうか。老いていく父に接する中で、彼の中で愛憎分離してしまった父親イメージを融合させる時間が必要だったように感じるのです。
 結局彼は、父親そのままの軍国主義丸出しの国王となり、同時に父の政治姿勢を真っ向から否定するリベラルな民政家国王になりました。父への愛着・憧憬と、否定・拒絶の感情が、彼の中で混じり合うことなく同居したまま、その人生を全うしたように思えます。彼の矛盾した性格は、父親へのアンビバレンツな感情を生涯引きずり続けた結果ではないかと思います。
 晩年、彼は甥のハインリヒを自分の後継者として目をかけ、自ら手をかけて育てます。完結できなかった自らの父子関係を、この甥を育て、愛情を注ぐことで再構築しようとしたのかもしれません。しかし、不幸なことに、この王子は18才で天然痘にかかり、あっけなく病死してしまいます。フリードリヒが亡命を図り、捕らえられた歳と同年なのは皮肉な偶然です。
  フリードリヒ大王は、家庭的には恵まれない人でした。彼は、国王として、いくつもの達成感や成就感を味わっていたことと思います。しかし、暖かな幸福感をどれだけ味わったのだろう?と、考えてしまいました。

 ちなみに、フリードリヒに2度の戦争で敗れ、領土を失ったオーストリアのマリア・テレジアは、16人の子どもに恵まれ、それをみんな自らの手元で育てたそうです。(す、すごい!)







   ドイツの「小早川」、ザクセン

 ザクセンは、ドイツ諸邦の中では、プロイセン、ババリアと並ぶ大国です。
 しかし、戦史の中でのザクセンは、ほとんどいいところがありません。
 フリードリヒ大王が仕掛けた7年戦争では、まずプロイセン軍は、電撃的にザクセンに侵攻します。ザクセン軍はほとんど抵抗らしい抵抗もできずにプロイセン軍の軍門に下ります。その時のザクセン軍降伏の様子が7年戦争の代表的な絵画として残っています。


  その他に、30年戦争でも、新教側のドイツの有力国として、帝国軍と戦ったのが有名です。しかし、ここでもかっこいいところがありません。1632年のブライテンフェルトの戦いでは、スウェーデン軍の左翼に展開し、帝国軍と戦いました。しかし、先端が開かれると鎧袖一触、わずか数十分でザクセン軍は潰走、戦線左翼にぽっかり穴が開き、グスタフアドルフ率いるスウェーデン軍を苦況に陥れています。(それでも結局スウェーデン軍は逆転し、大勝利を収めています)
 そして、ザクセンといって最も有名なのは、1813年のライプチヒの戦いでの寝返りでしょう。苦境の中で、ロシア、オーストリア、プロイセン連合軍と戦うナポレオン軍の一翼を担っていたザクセン軍は、ライプチヒの攻防戦のさなか、関ヶ原の小早川軍さながらの裏切りをやってのけました。小早川と違うのは、その裏切り自体で戦線崩壊が起きなかったことです。しかし、ナポレオンの同盟諸軍への心理的な影響は相当大きなものがあったでしょう。結果的にはナポレオンの敗北の大きな要因になったことと思います。
 そして、ザクセンは、「裏切り者」として、長く記憶されることになりました。



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