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【華麗なるヒコーキ野郎】
製作年 1975年、米
監督 ジョージ・ロイ・ヒル
出演 ロバート・レッドフォード スーザン・サランドン
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【あらすじ】
第一次世界大戦後のアメリカの町々には、遊覧飛行や曲乗り飛行の巡業が頻繁に訪れていたがウォルド・ペッパー(ロバート・レッドフォード)もその中の一人だった。稼ぎが少ない割には競争は激しくオルソンという飛行家がペッパーの縄張りの町で巡業していたので、ペッパーはオルソンの飛行機に細工した。そのためオルソンは事故ってしまうが、後日偶然に出会うと2人は意気投合し車から飛行機に飛び移る危険な曲芸飛行を思いつき練習を始める。しかし、ペッパーは屋根に激突し大怪我を負ってしまう。復帰して翼歩きの曲芸飛行で人気を博すがすぐに飽きられたので、今度はオルソンの恋人メアリー(スーザン・サランドン)が挑戦するが墜落死し、ペッパーとオルソンは飛行禁止処分になってしまう。
一方、ペッパーの友人スタイルズは自作の単葉機で誰も成し遂げていない逆宙返りに挑むが、バランスを崩し墜落してしまう。飛行機に挟まれて身動きできないスタイルズは集まった見物人が不注意に捨てたタバコが機に引火して炎に巻かれてしまう。怒ったペッパーは飛行機に飛び乗ると集まった見物人を蹴散らし、永久飛行停止処分になってしまった。
仕事を失ったペッパーはオルソンがハリウッドで活躍しているのを知ると偽名を使って雇ってもらうことにした。ちょうどその頃、ドイツの撃墜王だったケスラーの映画が製作されており、ペッパーは以前からあこがれていた人物と映画の撮影とはいえ空中戦を演ずることになった。2人は撮影そっちのけで渡り合うが、ペッパーの方が勝ったことが明らかになるとケスラーは敬礼し、ペッパーは空のかなたに飛び去った。
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【解説】
1920年代に現れた遊覧飛行や曲芸飛行の巡業は「バーンストーミング」といわれ、この映画の主人公のよう飛行機野郎はバーンストーマーと呼ばれた。
ジョージ・ロイ・ヒル監督自身も海兵隊のパイロットとして第二次世界大戦と朝鮮戦争で実戦を経験した空の男である。従軍したため監督デビューは40歳と遅くそのため作品も少ないが、本作品の主演ロバート・レッドフォードとポール・ニューマンが共演した新感覚の西部劇「明日に向かって撃て!」(69年)、アカデミー作品賞を受賞した「スティング」(73年)の2作品はつとに有名である。これらの作品でのレッドフォードの役回りは憎めない小悪人といったところで2枚目のイメージから脱皮したかった彼にとっても新境地を開くことができた記念すべき作品である。ロバート・レッドフォードは初監督した「普通の人々」(80年)でいきなりアカデミー監督賞を受賞し、以後も映画出演を続けながら「リバー・ランズ・スルー・イット 」(92年)「クイズショウ」(94年)などでメガホンをとっている。
レッドフォードの愛機はカーチスJN4ジェニーで、練習機として6500機あまりが生産された。ジェニーの愛称はJNから来ているが、ソッピース社のJ型とカーチス社のN型をブレンドした機体なのでそのように呼ばれた。第一次世界大戦後、大量のジェニーが民間に払い下げられ町々を巡業するバーンストーマーたちの乗機として使われたためアメリカ人で最初に見た飛行機はこのジェニーという人が多く、もっともなじみ深い飛行機となっており現在でも航空ショーなどでその雄姿を見ることができる。カーチス社はオートバイのスピード世界記録をもつグレン・カーチスによって起こされた会社で、航空黎明期にライト兄弟と飛行機の特許をめぐって激しい法廷闘争を繰り広げた。しかし、第一次世界大戦が始まったため政府の勧告によりお互いの特許を認め合う(クロスライセンス)こととなり、戦後の1929年には恩讐を超えて合併しカーチス・ライト社となった。第二次世界大戦ではウォーホーク戦闘機やヘルダイバー艦上爆撃機などを製造したが、ジェット機の時代になると軍用機の不採用が相次ぎ倒産してしまった。
ケスラーのモデルになったのはエルンスト・ウーデットで、第一次世界大戦でレッドバロンことリヒトホーフェンに次ぐ撃墜62機のエースだった。戦後、アメリカで航空ショーに参加したり、「死の銀嶺」(29年)「モンブランの嵐」(30年)といったドイツ山岳映画に飛行家として出演したりしていたが、ナチスが台頭してくると民衆に人気がある彼を利用しようとゲーリングに招かれ、技術部長や整備本部長などの重職に就き空軍上級大将にまで昇進した。しかし、元々管理能力があった訳ではなかったので、対ソ戦以後空軍戦力がじり貧になっていく責任をとらされる形でピストル自殺した。死の真相は隠され、テスト飛行中の事故死と公表され国葬が行われた。
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