台湾の人達の日本人観(2017.7.15)

私は、今から40年ほど前に、日本に復帰する前の沖縄(米軍占領下)の日本政府南方連絡事務所(現在の沖縄開発庁の前身)に勤務したことがある。米国の占領下だったので、日本の本土国民に対しても、出入国手続きがあり、通貨は米ドルであり、警察行政の根幹は、米軍が握っていた。日本政府は、調査をしたり、米国と協力しながら復帰後の沖縄に関する施策を練っていた。沖縄には、毎年多数の台湾人がサトウキビ労働の出稼ぎに来ていたので、この人たちを復帰後どうするかについて、私は台湾に出張する機会があたえられた。

台北から台中、台南、高雄と、約一週間見学させてもらい、台北空港から沖縄へ飛行機で帰る時、夕方に出発予定の那覇行きの飛行便を昼過ぎから台北の空港の、大きな待合室で待っていた。そうすると、見知らぬ台湾人とおぼしき人が、私に近づいて、「君は日本人のようだが、何を待っているのか?」と日本語で、声をかけられた。私は、「夕方の那覇に向けての飛行機への搭乗を待っている」と答えた。そうしたら、「それまで時間がだいぶあるから、もったいない。空港の待合室にいるよりは、台北市の名所を観光してきたらよい」と強く勧められた。私は、全く未知の初めての人だったので、親切さに感謝して断ったが、何度も、親切に観光を進めてくれ、最後には、自分の負担でタクシー代を払うといってタクシーを雇ってくれたので、私は観光旅行をさせてもらった。そして、夕方の航空便で、無事那覇空港に帰ってきた。 その時、彼にきいた処では、かれは、若い時、日本の大学に留学し、功成り名遂げたが、日本に留学中多くの日本人にいろんなお世話になったという。それで今でも、そのご恩返しをしているという。 後日、私は、世界銀行に勤務した際、多くの旅行をしたが、こんなことに出会ったことはない。

台湾と韓国は、太平洋戦争の始まる前に、旧日本帝国の二大植民地とされていたが、しかし、韓国は、朝鮮総督府に、台湾は、台湾総督府(両者とも日本の官庁)に管轄されていた。しかし、その統治方針はそれぞれ独立で、かなり異なっていたようである。思うに、朝鮮総督府が台湾総督府と同じような植民地行政をやったならば、その後の日本に対する感情や評価は全く違ったのではないかと思う。台湾が、日本や日本人に親近感を感じ、韓国人が日本人に反感を抱くのは、その前の段階で、日本人の両国に対する態度が、まったく異なっていたからではないかと思う。つまり、外交というのは、自分が相手に対して行った過去の行為の、反射であることが多いと思う。台湾では、日本からの公的謝罪がなくとも、日本人の何十年にもわたる台湾に対する誠実な態度が、台湾人に受け入れられて、台湾人の高い評価が今でも定着していると思う。

私は、世界銀行をやめる前の1987年に中国政府の再三にわたる中国訪問のお招き(中国、財務部の第一次官(リ・ポン氏だったように思う)をいただいたので、約3週間ぐらいにわたり、北京、上海、南京とうの著名な都市を数市見学し、北京では、有名大学教授にあって、日中関係について懇談したことがある。旅行先で、中国古来の遺跡等を見学したが、日本との関係では、日本の侵略戦争に関連することが多かった。私に見た限り、第二次大戦後42年も時間が経過したのに、あまり明るい遺産が残っているとはおもえなかった。したがって、公賓として招かれたにもかかわらず、明るい楽しい思い出はなかったように思う。まだ、戦争のケジメが付いていないような錯覚を覚えた。それは、日本と中国の双方の国民が日中双方の国民が、相互に納得できるような友好の儀式が済んでいないからなのではないのかとも思う。

(日本軍が長期に駐留したラバウルでみた、日本対パプアニューギニアの関係)

 私は、かつて50年も前にシドニーの日本領事館に領事として勤務したことがある。ちょうどそのころ、パプア・ニューギニアの独立問題が豪州でも、声高く叫ばれ、シドニーの市街地でさえも、新憲法をどのように策定すべきかについて、ケンケンガクガクの議論が行はれていた。私は、ニューヨークからシドニーの総領事に新に着任された吉田総領事に随行して、パプアニュギニアを含む南太平洋地帯を日本の外交官として調査する目的で出張したこともある。そしてラングウーンまで、足を延ばして、ホテルに泊まっていた時に、朝早く散歩していたら、私が日本人だとわかって、「見よ東海の空高く・・・」という戦時中の日本の歌を歌ってくれた原住民がいたので、ビックリ仰天したことがある。日本の陸海空軍は、終戦の時(1945年)まで南太平洋方面に,戦闘のため、大きく展開していたが、終戦による日本軍の帰国のためラバウルは終結地として、大きな役割を果たしたという。つまり、日本へ帰る軍人軍属等の集合地として、パプア・ニュウギニアのラバウルが、南太平洋地区の終結拠点となり、かなり長期にわたり、帰国待ちの多くの日本人が集結し、団体生活を送ったいたとされている。

しかし、この間日本人とラバウルの住民の間には事件や事故は非常に少なく、両者の間には特に何もトラブルが発生しなかったといわれている。私が遭遇した原住民は、日本軍の兵隊が太平洋戦争時代、ラバウルで大勢で歌っているのを、少年のころきいて、聞きかじりで覚えたらしい。わたしは、これを聞いて、すくなくともラバウルへきた日本の軍人は、現地の人に対して、敵対したり、対立したようなことは、何もなかったという証拠を見せてもらったような気がした。日本とラバウル、日本と台湾との関係は、共通しているものがあるように思う。

外交における日本人の行動への反応は、何十年も後まで影響すると思う。今は21世紀であり国際関係は、昔風の帝国主義的でなく、グローバル的な素早い対応であると思うが、それは将来立派な実を結ぶだろう。国と国との長年の関係は、一旦形成されれば、長続きする可能性がある。「見よ東海の空あけて」という歌は、私にとっては、十分に台湾を連想させる。

しかし、世銀理事時代に訪問した中国と日本との関係には、日本軍の一方的な侵略関係ばかりで、台湾やラバールのようなユトリのある話は、何一つ出てこない。こうしたユトリ、友好とか、平和とかいう余裕のある感情が日本と中国という二つの国民の間に生まれたことはなかったのではないか。?これでは、日本と中国が、世界で1,2を争う技術大国と、地理的規模と人口を持っていても、相互に和して協調し、協力することができなければ、不幸な二国関係は、ずっと続いていくのではなかろうか。日本にとって一番大切なことは、中国に対する正式な公的謝罪を、日本自らの発意で、実行することである。これは、真珠湾に安倍首相が昨年訪問した時、中国側が真珠湾の前に、南京に行くべきであるとこれを要求したことがあるが、残念ながら実らなかった。中国は日本という国は、反省心のない思いあがった国だと思っているではないだろうか?これでは、外交に必要な、相互の尊敬と信頼関係を築き上げることはできないと思う。

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