山本貴嗣の原点より
(2003 06 20)
「すると、きさまがジョン・カーターってわけか!」男は物陰から踏み出すと、そういって、つづいて笑いはじめた。「おれを驚かせるとでも思ったんだな?おまえはとんでもねえ大ぼら吹きだ」
(中略)
わたしはたちどころに彼を刺し殺すこともできたが、その代わりに剣の切先で、胸にさっと小さな切り傷をあたえ、もう一度Xになるように傷をつけた。
(中略)
彼はうつむいて胸を見ると、がたがた震えだした。
「大元帥の印だ」彼はあえいだ。「助けてくれ、そうとは知らなかったんだ」
『火星の透明人間』(E・R・バローズ/著 厚木淳/訳 創元推理文庫)より
E・R・バローズ(エドガー・ライス・バローズ)は小説家である。
19世紀後半に生まれ20世紀の半ばに亡くなった。
知ってる人は知っている超有名人だが知らない人は全然知らない(のだろう)。
ご存じないに方は、あの『ターザン』の原作者だと言えば「ふーん」くらいは思っていただけるかも知れない。
しかし私にとって、この作家は『ターザン』と言うよりも『火星のプリンセス』に始まる「火星シリーズ」の作者であり、「金星シリーズ」の作者であり「地底世界ペルシダー・シリーズ」の作者である(他にもまだあるが省略する)。
日本では少年少女向けのSF全集の一冊や創元推理文庫やハヤカワなどのSFシリーズの一部として紹介されたが、SFというにはあまりに科学から大きく隔たった作品も少なくない。中でも代表作の『火星シリーズ』は、主人公のジョン・カーター(某テレビドラマの医師カーターくんと同じ名だ♪私はあれは絶対にわざとだと思っている)が幽体離脱ともなんともつかぬ現象で気がつくと火星の大地に実体化していて、美しい姫を助けて様々な怪物や火星人たちと、恋やアクションを繰り広げる荒唐無稽な物語である。SFと言うよりもむしろヒロイック・ファンタシー、いやスペースオペラと呼ぶべきか。
しかしそんな分類などどうでもいい。
要は子どもだった私にとって、それがたまらなくおもしろい物語だったということだ。
私のバローズとの最初の遭遇は小学生の頃だった。
図書室の子供向けのSF全集で初めて読んだのが『火星のプリンセス』である。
当時はタイトルが『火星のジョン・カーター』あるいは『火星の王女』だったと思うが、そんなこともどうでもよろしい。
「火星シリーズ」は何作もあって日本では創元推理文庫から全11巻で1960年代に発売された。子供向けはその中から代表的な1,2作を選んでジュブナイルにされたもので、私が創元のシリーズと出会ってその全貌を知るのは中学生(1971年)になってからである。
「考証」とか「リアリティ(科学的な意味でとかの)」ははっきり言って「ない」。
何しろ作中の火星(火星人は「バルスーム」と呼ぶ。地球のことは「ジャスーム」である)には呼吸できる大気があり、地球人と寸分たがわぬ姿で寿命は1000歳を越える卵生の赤色人とか、下あごから大きな牙がはえ目玉の飛び出した4本腕の緑色人とかがいて、地球よりも進んだ科学兵器を有している一方で、戦う際はもっぱら剣を抜き、肉弾戦を繰り広げる。
突っ込みどころ満載の物語である。
書かれた年代が1911年ということを考慮に入れてもむちゃな話である。
それを思いっきりパロったクライヴ・ジャクスンの『ヴァーニスの剣士』(別題『剣は知っちゃいなかった』)という短編があるが、ネタバレになるので内容には触れない。実を言うとタイトルも作者名もとうの昔に忘れていて、爆笑のクライマックスだけ覚えていた。旧知の翻訳家中村融氏に指摘されて思い出したような次第。おまけによくよく振り返ってみると創元の文庫のあとがききでも触れられていたことまで失念していた。ファン失格もいいところだ。
まあ、とにかくおもしろいのだ。
創元版のあとがきに、訳者の厚木淳氏(2003年の5月に亡くなられた。心よりご冥福をお祈りします)が製作途中の思い出として、校正者が「こんなおもしろい小説を読んだのは初めてだ」と言ったというエピソードを記しておられたが、実にもっともなことである。
これらの作品をご存じない方にどうおもしろいかと説明するのは難しい。
一番いいのは読んでいただくことである。
もっとも「出会うタイミング」というのはけっこう大きな要素かも知れず、私のように子供の頃とりこになった者と、大人になってから読んだ人とでは随分違った印象を持つことであろう。
「火星シリーズ」は本来11巻であったが、現在は東京創元社より2〜3巻ずつを一冊にまとめた合本で全4巻
第一集『火星のプリンセス』
第二集『火星の幻兵団』
第三集『火星の秘密兵器』
第四集『火星の古代帝国』
として売られている。
主人公は強く正しく美しく、正義と真実の人である。卑怯なマネはけしてしない。
私の妻が手にとってパラパラとページをめくり
「男は戦士か王か貴族か奴隷、女は姫か奴隷なのね」
と言った。いや女も王妃か貴族か奴隷なのだが(正確にはもっと色々あるのだが、男はマッドサイエンティストもいるし)確かにそう言ってのけても間違いではない。
単純明快な勧善懲悪の冒険ロマン。
いやそんなことを言っても未読の方には何がなにやらわかるまい。
というわけでこの際その内容についてここでお伝えするのは諦める。そもそも無理な相談だ。というわけでこの項、ご存じない方々にはなにやらちんぷんかんぷんな話になると思う。つき合いきれないと思われたら切り上げてくださいませ。
ただこの山本貴嗣にとって大きな原風景の一つを形作ったのが「火星シリーズ」に始まるバローズの作品群であったことは間違いないのである。
私はリアルな話が好きである。少なくともここ何年もの間それは変わっていない。
始めから「バカ話」と割り切ったものはそれはそれとして好きだけど、なんと言うか、お客との間にある種の「お約束」を必要とする様式美の娯楽はだいたいダメである。
例えて言うと「宝塚」がそうであり「ディズ○ーランド」がそうである。
誤解の無いように付け加えるが、そういう娯楽が「ダメ」と言うのではなく、あくまで私にとって「ダメ」=拒否反応が出て楽しめないという主観的な意味での話である。
回し蹴り一発で倒れそうな乙女が、精一杯強い「男役」を演じているのを見ても、全然のめり込めないしいっそ舞台に上がって殴り倒してやろうかとさえ思う。
巨大なかぶりものの○ッキーや○ナルドダックを見ても、かわいいともなんとも思わないし夢も見れない。アメリカの○ィズニーランドで、そういうキャラを物陰に引きずり込んでボコる事件があったそうだが(ひどい話だ)むしろその犯人達に共感するくらいである。
フィクションは所詮虚構なのであるが、せめて見ている間くらい夢を見せてくれるだけのリアリティが欲しい。
例えて言うとブルース・リーである。
スタントや吊り、CGなどで膨らませたアクションではなく鍛え上げた肉体と動きがかもし出す説得力。けして彼が世界一強かったわけではないのだが、とりあえず映画館に座っている間くらいはそう思わせてくれるだけの元になる何かがあそこにはあった。それのないヒーローや娯楽にはムカっ腹が立つのだ。
お約束の様式美の殺陣の虚しさは、たとえば私レベルのシロウトの目にも、戦っている者たちの「スキ」が見えることである。でも相手はそこを攻撃しない。なぜだ。つまらん。おまえら「馴れ合い」か。命なんかかかってないだろ。じゃかかってるふりするな。
って、これは話がページ違いになっていくのでこの辺にしよう。
しかし、しかしである。
そこで私は思うのである。
バローズの世界は、言ってみれば私にとっての「宝塚」であり「ディズ○ーランド」だったのではないかと。
『ウルトラマン』などもそうである。
人間サイズの主人公があんな巨人に変身して質量はどうなっているのか、など突っ込みどころは満載なのだが「好き」になってしまったものは仕方が無い。
そしてそういう「嘘」を求める心が人の中にはあるようである。
それが人によって異なっているだけではあるまいか。
縁あって最近、何年ぶりかにバローズを再読しながら、そういう「おバカな嘘に彩られた娯楽」といったものの価値について、改めて考えさせられている私である。
蛇足であるが、このページの背景は、火星の大地を覆うコケのような植物の色にちなんで黄色にしてみた。無論バローズの火星である。
多感で傷つきやすい少年時代をバローズとそのキャラクターたちはどれほど慰めてくれたことだろう。癒してくれたことだろう。火星のチェス・ジェッタンをボール紙で作って友人と遊んだ中学時代が、つい昨日のことのようである。ジョン・カーターやハストールのタン・ハドロン、ユリシーズ・パクストン、ガソールのガハンその他諸々の美女達と彷徨った火星の日々を私は忘れない。
拙著「アーニス」シリーズの天才医師ラージンの原型は、誰あろう火星一の大科学者ラス・サヴァスその人である。
バローズとその登場人物たち、そしてその翻訳家の方々と挿絵画家、とりわけ偉大なる武部本一郎画伯に心よりの感謝をささげる。
青いジャスームの片隅にて。
関連記事:武部本一郎(たけべもといちろう)のこと
バローズに関しては日本にもいくつか精緻なファンサイトが存在する。
中でも長田秀樹氏主催の
「エドガー・ライス・バローズのSF冒険世界へようこそ!」
が圧巻であり、バローズや武部画伯のイラストについて知りたい方にはお勧めである。このたび長田氏より許可をいただき、ここにリンクを設けさせていただくことができた。興味のある方は上記のタイトルをクリックされたい。