悪魔祓い

ウィリアム・フリードキン監督、ウィリアム・ピーター・ブラッティ原作脚本による映画「エクソシスト」が知られている。
リンダ・ブレア演じる少女リーガンが悪魔パスズに乗っ取られメリン神父がカラス神父に呼ばれ悪魔祓いで退治する。

基本では宗派は関係ない。カトリックだろうがブードゥーだろうが悪魔祓いはある。
大昔になれば魔女や悪魔崇拝などで厳しい断罪として生贄・火あぶりなど直接死に至る野蛮なものまであった。
存在を抹消するしかないというもの。
映画で見るような認識されている悪魔祓いは本人に戦う意思が無くてはならない。
悪魔に乗っ取られたら事実、手に負えないだろう。
多重人格で1人でもう1人の自分と会話するようなものなど奇行が目立つ場合に話が持ちかけられる。
効果のほどは分からない。近代なら治るわけもなく精神病棟行きになるだろう。

ホラー映画が与える影響
「エクソシスト」の物語は公開当時の劇場より、地上波で日曜洋画劇場や、
つのだじろう原作漫画の恐怖新聞で知った人数のほうが多いだろう。
楳図かずお原作のおろちでも
エドガー・アラン・ポーの怪奇小説原作ロジャー・コーマン監督の「恐怖の振子」などあり
ホラー映画=漫画界にもインスピレーションの影響があった。

変わらないもの
「エクソシスト」から新作ともいえる「エクソシスト・ビギニング」は過去に悪魔祓いをした経験のあったメリン神父のストーリー
どうも数々のエクソシスト映画には白塗りで目の周りにくまのある歯が黄色いパンダ顔ともショッカー隊員とも言える者が出てくる。
パンダ顔で「どーも私が悪魔です」と出てこられて誰が納得するか?
黒死病の象徴とも受け取れるが悪魔の起源はその時代より古いため該当しない。
また悪魔祓いもたしかに映画であるようなものに大分近いと言われる程度なら映画として手抜きもいい所になってしまう。
文献や神父に聞いた話で過去の古臭い悪魔祓いの手法を真似ても映画では粗悪なものに過ぎない。
映画として
悪魔に乗っ取られるまでの過程が目的意識が薄く退屈なものばかり。
「サスペリア」と「オーメン」を比べれば分かりやすい。
オーメンの後は亜流が多く作られたがどれもこれも神頼みするほどのものでもなかったと思う。
ただの幽霊や悪魔の子を孕んだとかそういう類にもラストが想像つくもので飽き飽きする。
悪魔が去ってよかったねという感動も無い。
「ポルターガイスト」で見るような迫力も無い。こちらの系統は祈祷師がいたが亡霊を諭した導き手の役割だった。

世界の魔物
西洋の存在ではサタンを筆頭とするものが認知されている。ルシファーが下界に追放されたのがサタンと言われているが定かではない。
宗教上の敵としてか主に不浄な役割を担っている。キリストを唆そうとしたサタンが定説としてあげられている。
画だと半人半獣の姿。
パスズは古代バビロニアに君臨した魔王。漫画では「ゴットサイダー」(巻来功士)で画になっている。
インドでは阿修羅など8神が元々は悪魔であった。
日本の場合は古事記のものにヤマタノオロチというものが相当するだろう。
飛騨国では、両面宿儺(りょうめんすくな)というものがいた話もある。明らかに人物としての存在なら異様といえる。
朝廷に従わずにあっけなく討ち取られたため魔物としてもしはしば扱われてきた。半神の”なりかけ”でもあるだろう。
モンゴルの神話だとマンガタイという顔が108ある、全身けむくじゃら怪物がいたが英雄ゲシル・ボグドーに倒されている。
一見して魔物だろう。
これらの語源は元々対敵であった集団名の可能性が高いか、
神や悪魔の名をそのまま口にするのは忌み嫌われたため”あだ名”として呼ばれた可能性もある。
西洋もアジアも龍が魔物として登場する話が多い。神と悪魔も紙一重なのだろう。
ギリシャ・ローマあたりも奇怪な魔物やヤヌス神など具体的には語られていないものもある。
神々同士の戦いで負けたものやメデューサのように疎まれた人間も人を石に変える力があるため悪魔といえる。
こういう尋常ならないものを相手にできるのかといえば悪魔祓い程度に本来効き目はない。
悪魔の弱みに逆につけこめる胆力だけでは無理がありすぎる。
昔のものなら古くて単純というものではないだろう。神や悪魔に比べれば人間のほうが単純でもろい。
ケアのつもりで「悪魔祓いは終わり悪魔は去りましたよかったですね」と下手にウソ八百並べると殺される危険性もある。
西洋ものは「エンド・オブ・デイズ」のサタンや、「ヴァン・ヘルシング」のドラキュラの姿のように蝙蝠が定着している。
ああいうのは飽きている。

大抵の悪魔は大きい姿である。人間の眼下にはならない。
また子供=悪魔を定義すると映画では失敗に終わる。残虐性だけが浮き彫りになり畏怖して崇拝対象として崇める価値も無い。
「悪霊喰」や、「リディック」のようなCGによる魂の離脱が映像化されている。あの液体のような残像効果は今後のものにも使えるだろう。
いわゆる悪魔映画は低予算ゴミ映画になりやすい。

戦慄のオカルティズムは何処へ行ったのか
「ゴッドアーミー」はクリストファー・ウォーケンが売りなので役者の姿が台無しになるメイクもない。
「パラダイム」は悪魔祓いとは無縁の作品でジョン・カーペンター監督の「遊星からの物体X」と不気味な雰囲気が類似している。
集団オカルト映画みたいなものは数多いが満足するわけも無くヒットするわけもない。
「サスペリア」のように背筋がゾクっとする狂気や、
「地獄の門」のように背後に不意に現れ目の視点が飛んでいる悪霊に頭を握りつぶされる恐ろしさほども感じない。
回転の早いアメリカの映画業界と映画通のマニアが一番分かっている事。
「ヴァン・ヘルシング」がホラー映画に成れなかった原因も要因の狙いをわざと変えたため。あくまで娯楽路線だった。
今後の悪魔映画というと「13日の金曜日」に代表されるような怪物コスプレもののバイオレンスとスプラッターの映画が増えた。
期待に応えられる映画も作らない集団の作品に金出す必要はない。「イット」にも及ばないものは人の心理を動かせない。
タコやイカも海の悪魔と言われるが「グリード」一本あればヘタなものは必要ない。
「X−FILE」にも度々シナリオが出てくる怪奇オカルト話くらいのムードは必然。
モルダーとスカリー捜査官の名前を忘れるはずもないというくらい名前も記憶に残るキャラクター達だと良い。

いわゆるハリウッドに
「リング」や「リング0 〜バースデイ〜」のように強烈な存在の貞子はハリウッドリメイクだと醜い顔まで出してしまうのが困る。
「呪怨」だとハリウッド版は日本人の亡霊まで出してしまう。ただのパンダ顔。嘆息し呆れ返るばかりで鑑賞意欲が沸かない。
役者もただ絶叫マシーンしていればいい感じという。亡霊の出し方しか物語にないタイプのインディな和式ホラー映画も増えた。
そのため物語のエンドまで全て想像できてしまうのだ。パンダメイクの子供に金は出せないです。
リングのハリウッド版であっという間に話題がサーっと退いて行った経緯から一時のヤラセくさい盛り上がりさえも考慮に入れなくても
「リメイクなんかダメじゃん!」
リメイク契約もビジネスの1つだろうが儲かるのはハリウッド版の関係者。映画で勝負できる能力が無いと業界は腐れて育たない。
日本映画業界はアメリカ・中国・韓国よりは断然製作本数が少ない。当然多彩な映画も少なくヒットメーカーに限定されがちになってしまう。
2度と見たくないと言われる作品の出来では無理がある。またメイクもライス長官が額にしわ寄せて怒った顔より以下では困る。
人間のほうがよっぽど怖いと感じると作品の内容が逸れてしまうのである。

日本のジメジメした雰囲気のホラー映画はハリウッドにはない。
普通は虫やカエルが鳴くような夏の時期に泣き声がピタリと止み、生暖かい空気が肌をかすめたというくらい
(便所行きたいけどなぁ・・・なんか怖いな)ほどのカケラもアメリカは無い。
幽霊や悪魔の固定観念がありふれた描写イメージにしろ物的なバイオレンスやスプラッター処理による死がメインなのが原因。

「デビルマン」は映画にはなったものの除霊などの方向性はまったく微塵もない永井豪原作の漫画の範囲の物語。
多面性は求めるわけにもいかないだろう。サバトから憑依するまでが完全即効性な魔物達。さすがにエクソシズムは出来ない。
速攻憑依なら数多くの映画にもあるが、「ペンタグラム」などが該当する。器を変えて逃げるので手に負えない。

攻防で”にくはく”する
1体のモンスター、魔神の如く悪魔をパワフルに描いて憑依される人間は過程のストーリーを短くするか無しかにすれば
いくらでも作品は考えられる。
吸血鬼にニンニク、十字架、陽の光、狼男に銀の弾、ミイラ男にたいまつといった具合に悪魔に悪魔祓いは1つの方法に過ぎない。
退治方法はいくらでもある。ただ息の根を止めるため杭を打ち込むという所まで行ってないのが悪魔祓いといえる。

日本
雨月物語 吉備津の釜というのがある。梵字で結界を張り死霊から身を隠し去るのを待つのみは耳無し芳一にもある方法。
日本の怪談は憑りかれたが最後、狐憑きともいふ発狂してしまうパターンなどがある。。

道化者
低予算と低技術はもう古いが
サタン等こういった悪魔の類は本来の姿を描写されず人間に憑依した芝居が多い。
無論、悪魔がどのような姿であれ見た目は怖くは無い。
人間の表情ほど怖いものは無いので「エクソシスト」の少女リーガンのマネ事が増えた。
「エクソシスト・ビギニング」でも憑依された女性に変りは無い。
過去の低予算映画は屁理屈が多いものだったが最近は極端に屁理屈抜きでCG映像に頼りすぎているバランスが悪い。
これでは感情移入しないまま未消化で映画を見終わってしまう。
劇中のキャラクターが冴えなければ役者は誰でもいいんじゃないのか思うし、中身がスカスカに感じてしまうのだ。
結論に至っては退屈、ウルサイ映画となってしまう。
新作映画はセットやCG、BGMがそこそこ出来てもムード作りががまるで無い。
ダラダラ脚本通りに作ったものに何を感じるだろうか。物語の筋書きなら普通のドラマ映画だ。
悪魔は本来の姿にもなれないし至極弱い。
主人公はコテンパンに叩きのめされても最後は生き残るスタイルがどの道人間に倒される運命にある。
結果的に宗教バンザイになると1パターンで”しょーもない”似た映画ばかりになってしまう。
そんな簡単に信仰心で奇跡の力は起きないだろボケと普通に思う。
単純にアイデア捻ればサタンは宇宙から来たとかにもなってしまうしナチスドイツも材料にされてしまう。
無難に描写できる範囲ならもう当分新作は必要ない。
ただの憑依ものならボディスナッチャーだ。
それならば物理的に描写が冴えている「宇宙からの物体X」に勝るものはない。

ジワジワとパワフル
力の描写は大事で超能力や中途半端な子供だましのバイオレンスやスプラッターではまず駄目だろう。
サメや大ダコに襲われ食い千切られて腕だけ残ったとかのほうがまだ怖い。
やたら理知的臭いのも必要ない。求められているのは聞いたこともないヘボ役者ではなくて魔物。
手をズボっと入れて心臓抜き取るつまらない描写も飽き飽きしている。
「マレフィク」のように体が在らぬ方向へ捻じ曲げられるようなHP・ラブクラフト的な恐ろしさや
「ヘルハザ−ド/禁断の黙示録」のラストの同化シーンのように奇怪な描写が無いと独特の不気味さは伝わってこない。
「ヘルレイザー」シリーズのように奇形イズムも変死ではいいアイデアになるだろう。
ルチオ・フルチのゾンビ映画に見るような喉元を引き千切ったり後頭部ごと脳みそを握り潰したりする腕力描写も単純だがそう捨てたものではない。
虫はもう必要ない。今更やるだけアホといわれるのがオチだ。
興行収入を得るには規制だらけになるし多くの映画館向けに公開されたものは期待できないだろう。
と言って年々過激にしてもキリが無い。
ただ脚本を映像化しただけで監督のミソが足りない映画を作っては二度とその監督は呼ばれない。

1パターン
ホラー映画はアメリカではもう新作は期待できないほど終わっている。
規制が厳しくいちいち撮りなおししないように編集でせきる範囲内の出来で予想通りの無難な1パターンばかりしかできないだろう。
日本の怪談物テイスト
ガンをドンパチぶっ放してるだけ
探索してる間に仲間が次々とやられて最後はファイト一発で倒したかな?パターン
ホラーなのに原作ブチ壊しのコメディ
CGやってもコスプレ
とまぁ、相変わらず予想通りで何も新鮮味が無い上に映像描写もショボイ。
描写する技術力に苦労と時間をかけなければ映画会社の金を無駄使いしているだけになってしまう。
カットの割り振りが多くノンストップのスカッスカで最近のホラーは描写が抜けまくっている。
昔の作品よりぜんぜん怖くないのは全てにおいてバランスが低下していると指摘できる。
想像力をどれだけ実写化するかという次元はとうに過ぎている。
アマチュアやTV映画クルー程度の作品では根っからの映画ファンは食いつかない。
夏のホラー映画も少なくヘタなものを見ると逆にジメジメと暑い。

悪魔・魔人・魔神
何かと対抗策など設定を宗教に結びつけるパターン(1パターンは飽きている)
人間臭いオヤジ−悪魔です(怪物化したらなんも意味無くなる)
子供−悪魔(アイデアがまるで無い、バカそのものは通用しない)
妊娠した母親が狙われる(誕生ですか?必要ない)

地獄の扉を開く(一応有りの方向)
最初から悪魔の支配世界や戦いから世紀末のパニックで始まれば1パターンから抜け出せる。「ゾンビ」の方法だ。
今までのやり方しか思いつかない方法だと「悪魔ですよー」と、やっと出てきても、”アンタおせーよ”なのだ。

目的不要
よくあるのが何らかの目的と意思を持って暗躍する手口ばかり重要なだけで長丁場をとる方法はもうお楽しみ要素にもならないのでボツである。
人間が生み出した恐怖の産物が悪魔なら人間ぽい一面の性格がある怪物しか設定できない。
求めているのはそれらじゃ無い。小細工に屁理屈な設定は無用。

悪魔は海外にはあるが簡単に断言できる像が日本には無い。
この点については中々奇妙である。
日本古来から悪魔という概念は無く対象のイメージもまるで違うし呼び方も違う事が大きな起因。

人間と悪魔、どちらが非力か?
人間側−家族等、関る者が手に負えないから神父や牧師に助力を仰ぐ。聖水・十字架・祈りで対抗する。
悪魔側−1人に乗り移り奇行に走り醜い性質を晒す。ポルターガイスト現象。下等に属する生き物を操る。全てに抗う。憑り殺す。
善と悪、それを見守る外野。役割と目的は全て決まっている。
悪魔側は強大な力と名前のハッタリが目立つがそれに関係なく戦う術は限定されている。
1人で勝手に暴れて念動力を見せつけ罵る事しか出来ない。それに連なる部下がいたとしても助けるわけも無い。
地上にいるものが存在するか分からぬ地獄に帰るわけもなく誰かにまた乗り移るだろうとする流れになりやすい。
力は拮抗しており強いのか弱いのか定かではない。善ある限り悪は不滅の存在でもある。
少なくとも強大と言えるほどの絶対的なものはない。意外とセコイとまで映るので恐ろしく強いと言うイメージが抜けている。
怪物として描くにしても破壊的な行動を取るだけになり神秘性の欠片も無い。
固定観念の産物でしかない範囲でしか闘争できない。
非現実的とする要素ではなく現実的な方向にしがみついている描き方が多いため未知数を感じさせない。
安い弱いの連続で飽きられるため結局は物足りない存在になる。
人間に乗り移っていようが角が生えて羽が付いてる怪物でも満足に戦えずお茶を濁すような中途半端な終わり方をする。
最も恐ろしいのは悪魔ではなく人間であるため悪魔と言う象徴は既に弱い存在に成り下がった。
水を掛けられ十字架を恐れる存在ならそれまでの限界。
田舎だろうと都会だろうと人が大勢いる所で俺様の力を見ろとばかりに暴れまくっても袋叩きになり次には苦しんでる。
そんなアホな姿を新作の度に延々と見て何が面白いのかと結論が出る。
どうせなら人気の無い遺跡の墓地にでも潜んでいたほうが様になる。
怪物ならば舞台背景、見た目、能力、弱点、趣向、色々と改善しないと新作イメージも何かにつけて低俗のままでしかない。

聖書
真実はその歴史の中に埋もれている。法であったり災難に対する対策だったりする。その全てが訓示。つまり教えだ。
歴史が移り変わると共に直訳の受け止めや個々の改悪認識も増え、理屈を当てはめる。その時代に何があったかが闇に消えていく。
当時にこうしなさいという教えは同じ事例なら未来で役立つ物にもなろう。
しかし無知な妄信だけでは認知力に欠け身を滅ぼす事を招く事も少なくない。
各々が納得するだけの術。また権力と共に忌み嫌われる側面もある。政治的な洗脳手腕で民衆社会の歯車が狂い始め狂気が蔓延する。
聖書をかざした者達でさえ強迫観念を持ち罪も無い者を忌み嫌う対象に仕立て上げ悪魔になった。病んだ歴史の非を認めた事実もある。
予め災難を回避する手段があろうとも使い方1つで災厄を呼ぶ。
古い時代であり現代と違い分からない物や対処法の多くが無い粗末な代物。認識だけが先行して歪み善と悪が両方蔓延る。
悪魔に対抗するのは正しき教えと行いであり、教えと称されているもの全て正しいというわけでもない。
逃れる手立ては口にする食べ物や病気、人を誑かす囁き、暮らしから戦争の危機感まで。
現代に例えるなら物事の正しき流れ病気を未然に防ぐ方法や詐欺師に騙されたり儲け話の手に乗るなという注意にも例えられよう。
注意喚起の点では時代と共に明確に変わらない部分がある。
事実認識と対処法、予見が含まれているとしたら永遠にどれにも当てはまる。

悪魔は災厄と知恵を指す意味もある。そして悪魔と言うものは語りかけ破滅に導く。対抗する手段は悪い行いに耳を貸すなという事だけである。


神と悪魔は同一体として描かれる姿や、管理者として描かれる姿もある。
運が良いと神のお蔭とし、運が悪いと悪魔のせいにする。
神話における神々や聖獣、初めは善と悪のどちからに属し後から変ることもある話は少なくない。
聖書の内容さえ人間の都合と思えば、そう思うのも人間の都合。

天国と地獄は死者の世界。大抵はその中間に人間の世界があるとされる話がある。まだ見ぬ世界なら神秘性が付き纏う。
しかし現代に潜む無残な所業を見聞きすれば鬼や魔物の数々が跋扈する生き地獄といえる。
良いこと続きなら極楽とも言う。この格差では何も違いが無いといえる。
地獄の沙汰も金次第とも言う。しかし金銭で天国と地獄を選べるようなものは大幅に理想と掛け離れる。

悪魔の考え方は周期的で、対比する相手がいると行動が可能になる存在と言えます。
人が脅かされてると感じたり嫌悪感や痛みを感じる感覚を持つだけでも悪魔側が勝ち誇る理屈になってしまいます。

三大白魔術都市はプラハ、リヨン(フランス)、トリノ。
三大黒魔術都市はロンドン、サンフランシスコ、トリノ。

その年代の出来事については個々で調べると良いです。
それ以外の国でも魔術が多いが、流布やヤブ医者や錬金術の調合の真似をした非道な物が多いです。
無知なる者が聖者の扮装をして手を差し伸べるのも同じ間違いです。
差別と反体制の原因についても問題があります。
墓地の埋葬でも違う方法を用いる考えを優先して差別化を図るはずなので慣習が違うはずです。

紋章や絵は先に悪魔崇拝のイメージとして使用してしまえば、長い年月の間に悪魔崇拝のシンボルデザインとなってしまう問題点があります。
こうした素材の引用トリックに騙されないようにする必要もあります。
不気味な仮装をして天と地を指差す真似をして理屈を増やすだけで悪魔のイメージになります。
月と太陽や生命などの古来から象徴となるイメージをタロットカードのように意味を持つもの全て奪ってしまうと収拾がつかなくなります。
こうした問題を整理する必要もあります。

19世紀フランスの魔術師エリファス・レヴィが描いた黒羊の絵「メンデスのバフォメット」(Baphomet)

三つ又の槍については昔の古い絵に描かれてるだけだとも言える。ポセイドンなど他の神々も同じ物を使う。

地に降り立ったルシファーが地球上の物質で神を倒せる武器を作れるのか?
大軍の中をミカエル本人が単騎でサタン本人を見つけて倒せるのだろうか?
そのような懐疑的な見方も可能。

映画では多忙な役員か高い身分にいたりしますが、時間が進めばいずれ失職する身分です。
そのような立場で好き勝手してしまえば大会社さえ潰れるでしょう。
悪魔なら人の真似や神の真似さえするでしょうから追いかけっこになるはずです。区別がつくような姿をしてるのか疑問もあります。
人を騙したり脅かすのに悪魔の姿をするでしょうか?超能力を持ち、化けることが可能なら姿を見せる必要も無いキャラクターと言えます。
常に何かを好む動物的で周期的な存在なのか?といった面でも疑問があります。

神や悪魔といった区別をしないなら同等の力は一種の力学。物の見方や力学の見方は当然のように変わります。
勧善懲悪を好む論理では無く、物理の世界では学者の方程式と同じになるはずです。

墓の門番かのように見守る姿。
ヨーロッパ建築との解説でしか把握できない場合もあります。
墓が荒らされないために怖がらせる魔除け代わりの意図でしょうか?
高級な彫刻。聖者が見守る霊廟とガーゴイルが見守る墓場。この違いは何でしょう?

神と悪魔の定義

人間が善悪の両方を行えるので同一視や混同されやすいが本来は個別の話である。
悪い行いや機械の場合はどう解釈するのかといった場合でも別問題であるので良識を重んじるなら同一視は避けるべきである。
目的達成のために良い行いをしてみせて一時的に騙す場合もあるだろうとしたら種別は問えない。

神は健康なのか?正常なのか?状況は?
鎖で繋がれて力だけを吸い取られてる存在だったら?
人の体を媒体としてる機械だったら?
過去のものが一掃されてしまう。

人によって悪用されて人心を惑わす存在にもなってしまう問題もあり、神の名をみだりに口にしてはならない。
神の名を使い悪用するのは簡単だからだ。

戒律を作ると反発によって戒律とは逆の行為をする者もでる。
それが悪魔の趣味趣向としてる実効性との類似点が多い。

没して人が崇める前は善悪と敵味方に分かれた使命無き存在。
そこには欲が渦巻いてる話が多い。
完全な神ならば罪が発生しないのではと思える。しかしそれは人間の理屈でしか無いのだろう。
悪魔は囁いて命じる役割をしていたとされる。映画などでは導くために命じる役割が多い。
古来、神にも善い神と悪い神がいる。この場合は悪魔の呼称の区別が付かない。
あまりに古い時代のものなので異端の説もあれば実際は分からない。
時の権力側に組しない側や反論者が異端とされる場合もあるので、実際はどちらが正しいかも分からない場合もある。

神によって人間が器にされる話も多い。精神力のような存在で人間の感情を支配する描き方もある。
この場合も悪魔との区別が分からないものになってる。
不完全体の神を模倣した存在ではオプションに過ぎないとも言える。
人間は私欲や好みも様々、器になること自体が、まず無理だろう。
しかし人間は間違いを修正する正義感やエゴに対する葛藤に芽生えると言える。
娯楽作品は勧善懲悪の終わり方が多い。

神々が木々や動物に変化する場合は、どう位置づけるか定かではない。
メデューサのように神々によって魔物にされた人々もいる。
しかし人々に危害が及ぶことを懸念すれば、そのような安直なことはしないはず。
このように人が悪魔と同等にされてしまう定義もある。

神の存在は何人だろうか?時に神は20人以上いるともされ、海外の神々も1国で数が多い。日本では八百万の神々とも言う呼称もある。
地球上で形成されてるのは専門分野の集合体。1人1人が神に相当するとも言える。
人によって得意分野があり、専門の職種に頼らなくてはいけない場合もある。
専門の職種に任せることで責任を果たす場合もある。産婦人科などはそうだろう。
そういうことで生まれる前から他力本願から脱出することは不可能になってる。
人生はラビリンスであり、先は分からない。

思念波のような存在に例えられる描き方

キャラクター別に
「神話」
「こっくりさん」
「座敷童子」
「怨霊」
「夜の笛や鈴の音色を禁忌とする風潮」

彼らが用いてる方法は同じ干渉であり実体不明の存在。
思念がデータとするなら、混線もありえるのでは無いかと思う。
悪い霊が来てしまうという戒めのような話も、複数の思念が混ざって乗っ取られてしまうことにあるといった推察もできる。
強い霊が弱い霊を吸収したりする行動で脅威を感じさせたりする場合もある。
密教においての描き方では、怨霊に対し御札や印で冥界逆送葬にすることもでき、霊魂を破壊することもできる。
怪奇マンガやホラー映画だと、謎解きのカラクリになっており、入れ替わりに捕らわれてしまうといったバッドエンドのような描き方がある。

ダビデの子ソロモン王に、72の柱。天使や魔物の召喚の話がある。

長い歴史の間、熟読した者でも召喚をしてない。
神々と争った魔物は争いが耐えない時代の軍隊のようなもの。しかし王国や町を作るのに化け物の軍隊が必要だろうか?
動物や精霊と会話する能力はシャーマンと同じ。
香料を必要とするのは五感をトランス状態にするため。
魔法円も術者の集中力を強化するためで必要としない。
当時の文化の中に星の名前や道具の名前などがあるはず。そうした部分から紐解けば分かりやすくなる。
理論付けを多く重ねて複雑になったと思われる。

何も知らない宝探しが開けて72の魔物は散らばったが、
何も知らない宝探しの話が高貴な人達の書物に詳細を記されるはずが無いので矛盾がある。

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