ゾンビ映画の構成

配役は女性主人公の下、欠かせない仲間、家族などの脇役で固めてその他物語の中枢ギャラリー的な周りの人とゾンビの4つで仕切られている。
こういった構成員のゾンビ映画が基本で他ジャンルの映画より固定化されている。国柄の顔立ちも重要だろう。

対抗策は鋭利で原始的な物や銃火器類のみ。肉弾戦格闘はマッチョな腕力馬鹿でも効果的とは考えられないため作品によっては唯一特異。

BGMは特殊効果の1つで不安や恐怖感を煽るため欠かせないものになっている。

動物や子供ゾンビはメインにすると基本から外れる。

サバイバル要素
主人公達の食事も時代風刺を現すために不可欠。延々と食事もせず逃げ隠れと戦いが続くのはつまらない。
缶詰やチョコバーくらいはかじるべきだろう。最近の「アンデッド」ではスナックを貪り食うシーンがあり切迫している様子に実がある。
「ゾンビ」では缶詰の中身をナイフで食べていたのが斬新に見える。「死霊のえじき」では皿にスプーンといった具合で食卓化している。
フルチ監督とロメロ監督派に分かれる所だろう。リアル追求かホラー追及かの項目でのバロメーターに違いがある。

休息から緊迫感
「ゾンビ」ではマーケットが広く、みんな自分達のものといった感じがよく出ていたため安堵感があり暴走族乱入の急展開に味が出た。
各者1人1人襲われる場面もあり無理矢理な感じも無く緊迫感が絶妙。
「ドーン・オブ・ザ・デッド」ではマーケットのものを活用する場面は少ない。
類似した場面はつかの間の休息というほんの一部で「ゾンビ」であるような多面的要素を収縮した感じだろう。

セオリー
誰かが必ず襲われ危機に見舞われ噛まれ死ぬ役割がいる。

コスプレ
どこから来たんだというような服装や素っ裸もいたのがロメロ作品の変わった所。痩せや太った体型も誇張して存在していた。

ロメロとフルチのゾンビの概念の違いに見られるもの
ロメロのゾンビは怪我を負ったような最近死んで生き返ったという感じが主流。血糊が主。
掃除した後「腐ってくるぞ」というセリフからそう判断できる。
フルチのゾンビは干乾びて血も出ない過去に死んだものというイメージの強いゾンビが主流。ミミズやウジが主・・・。(釣り餌かも)
双方こう違うのであるからメイクや生々しい差も出る。

場面カット数と見せる位置
かなり多いのが「ゾンビ」場面はホラー映画独特の暗さがなく明るい場面でのカットが多いにも関わらず怖さが出せている。
BGMを聴けば「ゾンビ見てるだろ?」と言われるほどわかりやすい。音響効果として場面ごとにマッチング。
フロアに流れ続けている音楽も1つの”うまみ”に繋がっている。
ゆっくり徘徊する死者のカットや死者を見つめる役者達の”間”など何でもないような部分に雰囲気がジワ〜っと滲み出ている。

新旧
「バイオハザード」や「ドーン・オブ・ザ・デッド」のようなノンストップ型
今では好みで賛否両論。こういうゾンビ映画を望んでいた気持ちは無かったわけではないが結果的な視聴意識は不満に終わった。
今までゾンビ映画がダラダラとしてて退屈、バトルシーンがヘボイという観点から出てきたノンストップ型。
格闘ゲームそのものの要素に類似した。当然物語が小さい物だったと見終わると感じてしまう。
大量メイクの都合上、ロメロ流の新鮮型ゾンビが取り入れられている。
「ゾンビ」や「死霊のえじき」で見られるような半壊ゾンビはやたら少ない。
ドーンでも目立ったのは全力疾走で追ってくる片腕ゾンビと、頭串刺しされるゾンビに食われた後に生き返る内臓むき出しゾンビくらい。
上半身だけで上から降ってくるゾンビは問題外のつまらないものでしかなかった。
エンディングのクーラーボックスに頭だけで生きているゾンビも話題にはならない。

後者は「サンゲリア」がルーツとなるだろうがこの系統の新作ゾンビ映画はまだ出てないと言える。ここが新たな地獄の門を開く鍵と言える。
少なからず若者がバカンスに行って立ち寄った廃墟であーだこーだと13日の金曜日みたいな物語がボロクソ出てきても困る。
ゴア、バイオレンスだとそこだけに注目されノンストップ型になってしまう。
役者も米国人ではあまりピンとこない所まで来ている。目鼻立ちと風貌からスペイン・イタリア系統がしっくり来る。
熱い常夏の日差しの島で汗だくで眩しい目つきの顔というのはありふれているがそこは舞台設定に過ぎない。
舞台セッティングを手抜きにすると場所のロケーションのみに頼った低予算になる。
フルチ流だと多くのゾンビが立ち止まっている場面などに見えない1つのみの意思が見られる。ブードゥーにも似てはいるが。
問題は脚本。財宝を見つけにいったら壁が壊れ死者を開放復活させてしまった等のものが簡単に考えられる。
メイクを上げればトム・サヴィーニがダントツだろう。彼はベトナム従軍時の経験とネクロな分野の資料収集で研究している結果の賜物。
ラテックスをベタベタ張って血糊ペインティングを垂らすのみだとペスト奇病集団とマスク・ド・ゾンビになる。
トム・サヴィーニだけでなくスクリーミング・マッド・ジョージやトッド・マスターズも良い。
スクリーミング・マッド・ジョージだと「ブラッド・バイター」ブライアン・ユズナ監督の作品に多く活用されている。
トッド・マスターズだと「ヘルハザード禁断の黙示録」等、この3者は「ネクロノミカン」で其々のエピソードのメイクを担当している。
名だたるメイクアーティストは1人で全部やっているわけではない。
この分野は現在よりもっと高評価され重要される位置づけになる。
メイクによる怪物が重要視されすぎると普通のモンスター映画になってしまう。別物ジャンルには懸念が出る。
今ではCGで色々と怪物が作られているがどの同様の手法はごく一部の会社のみ。
CGではなくゾンビは生物?であるべきは必然なので心配は無い。
フルチ監督の映画は業界にも有名なファンがいるほどだがフルチを超えたか或は同等の映画は一本も今までに出てないと言っておく。
スリルでショッキングでサスペンスフルなムードが出せるか。
派手で暴力なだけの近年の映画資質では表現は無理。
そこで脚本家はサスペンスやスリラーを主体にしている者を起用すればとは思うが
バカ高い脚本料取るだろうから製作側の知人がいなければまずそういうのは無いだろう。見飽きたら無い欲求を満足させる作品はでるのだろうか・・・。


2つの認識ブードゥー
こうあるべきゾンビ以外に違った見方のものがある。
操られる死体はブードゥーのプロットから来ている「吸血ゾンビ」
魔法のゾンビパウダーを使えばムクムク蘇る過程。大元の語源とも言えるが一般的な認識は人に襲い掛かる怪物のゾンビがもはや認識の上で固定化。
木偶人形となる仮死状態から催眠状態や念力と作品はどんどん現実解釈してしまい、主点もゾンビの恐怖外になってしまう。
イマイチ好まれない点になった種別がブードゥーのタイプ。
アフリカだろうがハイチだろうが「どうもゾンビです」とばかりに催眠状態でロボットのようにドキュメンタリーに出てこられてもただ困るだけ。
こればかりは映画なら許せる範囲だが本物の価値観は求めていない事が分かる。しかもゾンビとしては二の次での扱い。


蘇るプロセスにも固定認識
データを羅列しても見づらいし意味も無いので止めて置くが単純な土台としては3つ因果関係も3つ挙げられる。
自然現象・科学・超常現象=細菌・薬品・地獄よりの排出。
突然スイッチが入るような念力や別の怪物の粘液やら寄生による蘇生は「ゾンビちゃうやん」という当たり前の認識になりやすい。
「ホラー・エクスプレス/ゾンビ特急“地獄”行」や「呪われた修道院」は念力によって一度死んだ人間が操られる場面がある。
では「ボディスナッチャー」や「クリーチャー」のエイリアンによる思考や肉体乗っ取りの寄生はどう解釈するか。
一括りで乗っ取りであって端的にゾンビではないと固定観念で認められないが故にそう結論を出す事になる。
蘇生と操り人形には違いないが別種として許せる範囲はゾンビの語源を持つブードゥータイプに限定される。
墓場から死者が蘇る&人を襲うというのが恐怖の最たる要因。理屈は重視せずなるべく不可解にするほうがお得という事が分かる。
「バタリアン」と「死霊のしたたり」を比較すると分かるが個人的に後者はゾンビとしては認めていない屁理屈も再確認できる。


眠れる死者の場所の認識から生まれる恐怖
墓場や死体安置所。つまりは死体がそこにあると分かっているだけにそこからムクムク蘇ってこられては硬直する恐怖が常にある。
現実的よりも古めかしい所から退廃した神秘的なものが感じられる。
死んで数分でムクっと起き上がって襲い掛かってこられてもパニック要素だけになり従来の恐怖は半減する。
なるべくならまず一度墓穴に埋められてから蘇れやコノヤロウという手法の方がベターである。


視聴者は真面目
最初からコメディを期待してホラーを見るわけがない。

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