多種多様なゾンビの固定観念
その姿形には死人。動物。生ける屍だけに死因は色々。
病原菌の保菌者であり頭を撃ち抜けば倒せるという物は正統派と呼ばれる一部の作品に限っての事。
一般的には顔を青白く塗って瞳孔の小さいコンタクトレンズを付け、大勢で噛みまくればゾンビの出来上がりという安直さが目立つ。
ここまでは通常飽きるので結局は長続きしない事を招く。当たり前すぎたり不釣合いな事をやっても笑いものという前に見向きもされない。
態々見ない人向けに作っても無理なものであり見る人向けに作るのがセオリー。
映画だけでなくゲーム等でも登場する。映画と違い実写ではないため色々作りやすい傾向にある。主に古くからRPGゲームのジャンルに多い。
肋骨が見えてたり首が無かったり片腕が無かったり様皮膚が剥れていたり様々。通常ならそのような物は見た事が無いので一層不気味と感じる。
ましてやキャラクター1人で潜入する機会が多いため主点が色濃くなる。
遠くで蠢いていたり襲い掛かってくる場面に遭遇したら冥利といえるだけの物がある。理科室の模型くらいのインパクトはあるので十分。
グロテスクとナンセンスが充満して作り物ほどリアルな演出に映る。基本的には動く死者。その容姿だけで極限の恐ろしさが充満している。
どういう行動や性質なのかは普通の伏線であり別に気にする部分は無い。結局は死人で十分。
映像感覚は映画としての出来に拘らないスタジオも多い。
基本的にメイクやストーリーが出来ても、価値までは付加出来ない。ゾンビは死人であるという事を十分に使いこなせてない。
シーンの距離感や角度、独特の感度や色彩と音楽による感覚は低下する傾向で手がつけられない状態に陥る事が常にある。
フィルムの方法は向こうの世界で起こっている世界。ビデオテープの方法はこちらと同じ現実に起こっている世界。認識として捉えている透明感が違う。
どちらかに拘るなら同じカメラやフィルムと同じ物を使う方法と調整で対応すれば済む。
アジア、アメリカ、ヨーロッパ世界各国で映像感覚が若干の違いがある。人の好みも変わるので決まりきった限定はできない。
常に効果的な手法を用いるのは基本。
ゾンビは今ではすっかり恐くもなんとも無い代物になっている。
様々な社会認識や知識と感性が蔓延した現代において今時の子供が臆病になり夜トイレに行けなくなるという事も殆ど無いだろう。
ましてや深みの無い作品を語る事も無い。レビューもする価値がないほど関心が無いのは無様である。
打開点を見つけるのは困難。真似事になりもする。見る側にとっては別に構わない。
過去から全て製作手法が同じとは言い切れない部分もあり、違う物や時には同じ物を目指してきたのだろうが何かが違う。
ゾンビは気持ちが悪いからホラーといえるだけのものがある。どれが正しいという物も考えない。深く考えるほどにそうなる。
何時の間にか目覚めているゾンビ。
知らない間に大勢のゾンビが町中を徘徊している。
ゾンビでなくても世の中を乱す生き物は少数の段階で隔離されたりするので現実味とギャップがある。
「猿の惑星」のようにゾンビが人間を支配する軍隊を気取ったり、家畜同然だったり、死人が家族と言った話にも亜流がズレ込んできてる。
死人が何であるかを履き違え、稚拙さに埋もれる作品ばかりが続出してしまう。
怒りを込めて、そのようなものを誰が見るだろうかと判断すべきだろう。
今では過去の真似事はナンセンス。日常の事をさせても価値が無い。折角作っても名作にも成り得ない。
予めそれを分かっていてのオリジナルの娯楽の範囲に留まる。それであっても求められている本質とは違う。常にホラーはシリアスである。
徘徊プロセス。
細菌による増殖は一部の作品の筋書き。駆除されているはずで広まらない。また”生きている死人”なので増殖する必要性がなくても良い。
生きている生物によって通常の感染ルートがあるので現実的。しかし狂犬病を真似た伏線に過ぎない恐怖に留まる。
棺桶から生き返ったり、墓場から這い出てきたり、人知れぬ廃墟や遺跡から目覚める。こうした死人に付き物のイメージがある。
そもそも死体は何が原因でどういう場所に収められているか、何年経過しているか、この基本的な配置が死者の世界を表現する。
町中に死人が立ち尽くしている、扉を開けたら数秒で死人が噛み付いてくる。これらにホラー寄りはなく普通のパニックの範囲のミックスである。
過去ロメロ監督が出した設定を真似ている部分しかない亜流が多く、大部分は死人とホラーを勘違いした内容の希薄さが目立つ。
これらは死者を表現している次元ではないのでピンとこないし味気ないという事に気付くべき。
死者が何であるか基本的な筋書きを兼ねていると生理的にも浸透する。
ミイラや吸血鬼の棺桶の群像から始めないと勉強不足の作品で溢れる事が容易。
それはゾンビ映画でなくてもホラー映画など作れてない力量。評価にも繋がらない事が分かる上にレビューで語る事もないだろう。
名作を出してきた監督を筆頭とする功績に泥を塗るかのように、今では駄作が立ち並ぶ無名の墓石の乱立になってしまっている。
本当にそれが作りたかった作品なのかという事は問える。
低迷時期はやってくる。最も大事なのはそれがホラーなのか死人なのかを考える事だろう。
堕落。
ドラキュラ映画の伯爵は死人の位置付け。
吸血鬼の集団存在が主体になるヴァンパイア映画は死人と言うイメージが次第に欠如する。
ギャングという位置付けでアクションバイオレンスの展開が増え、ゾンビ映画と同じく死人を履き違えホラー界から没落した。
生命力。
腕や足が無いタイプ、下半身がないタイプ、顎が外れているタイプ、内臓丸出しタイプ、頭蓋骨が割れ脳味噌が見えているタイプ、
どのような破損状態でも動く。身体機能は健康とはいえないだろうが爬虫類にも匹敵するほど高い。
生存時よりも強靭な怪力を誇る。死後硬直は無くなり、血の凝固は無く、痛点らしきものはないというのが大半の作品。
心臓は停止しており、呼吸はしてない。水中を歩く事も稀に描かれる。
燃えても少しの間は動いている。首を落とせば停止する。怪物退治では古典的な方法。
伏線。
仲間がゾンビになってしまう例や集団で溢れるという構図は意外性と驚きに満ちている。
ただしストーリーの中では盛り上げる切り札という性質でもあるので常習化してしまうとこの部分はまったく面白くなくなる。
密室性を背景に適度に数人や単体で迫るほうが怪しい雰囲気に満ちる。
ゲームに見るゾンビ。
楽しむには映画かゲームかどちらかの場合もある。
ゾンビというキャラクター。ゲーム作品として成功していようが好みとは大幅に違ってくる点がある。
実質的に弱い怪物扱いとして利用されている。射的の的や道すがらの邪魔で安っぽい存在として登場する。
射撃。素手で殴る。魔法や仕掛けの罠という倒し方がある。時には特殊なアイテムのみで倒せるというのもある。
基本的にそこにいる敵と分かっているため、相手に触れられる前に倒そうとするパターンが多い。
方向性も狂い始めオリジナルストーリーの上でゾンビというキャラクターが皆無になったものも目立つ。
ゾンビとは違う別のキャラクターを複数登場させて脅威を演出している場合が多い。
ゾンビゲームだったのがゾンビゲームとは違うものになる事も珍しくない。獲得したはずの客層が離れて行き作品の知名度は埋没する傾向。
本当にゾンビが際立つゾンビゲームの登場がこの先期待できるとは言い難く落胆させている。そこには鈍化したものしか映ってない。
ゲームにおいてゾンビホラーの本質は消えてしまっている。
ホラーゲームというジャンルで比較。
ゾンビのパターンでは「バイオハザード」「ゾンビ・オブ・ザ・デッド」「オブリビオン」というものが挙げられる。
ゴーストのパターンでは「零〜ZERO」が挙げられる。
特殊な異界性の怪物では「サイレントヒル」が挙げられる。
容姿も演出も様々でプレイ方法も違う。比較するとホラーという観点ではゾンビが負けているという印象も纏わり付いてくる。
また長丁場で戦った相手や最後に戦った相手が印象に残るため、それ以外のキャラクターは印象が大きく薄れる。
多種多様な怪物キャラクターの配置で溢れる事もゾンビの印象が薄れる。
ゲームではホラーを楽しむ傾向は無くなり怪物退治を楽しむ心理傾向に陥らせている。
ゾンビという異質で奇怪な怪物だけを印象付けるには至っていない。
またゾンビゲームといえばこのメーカーと言えるほど決まりきった印象も無い。
幾度もゾンビを再生させる映画と違い、ゲームの古い作品は忘れていく。その事からも印象が薄くなっていく。
記憶には残った作品は既に終わったゲームであり、現在楽しむとしてのゲームプレイは続けてない。その事からも印象は薄れる。
特に、新作をリリースし続けないと向上もしない。いかにゲームに存在するゾンビというものを十分に保てるか。
ジャンルの枠を飛び越えて溢れ出すゾンビ。
ホラーを主軸としたゾンビはメインで描かれるため強さに溢れている。
ホラーから逸脱した派手なアクション傾向やコメディは倒されるか弄ばれる役のため非常に弱い。嘆きべきはこの差にある。
本来の姿は強烈な意外性と神秘性に満ちていた事を改めて見つめ直せる。怪物は脅威を与える生き物。
ゾンビ映画が緊張感を補っている秘訣。物語は緊張感のベールを纏っている。
■ゾンビ作品の一部検証 (コラムより全文抜粋)
少々強引でインチキ臭いブームもありますけど、とりあえず。怖い話はしません。真面目な話です。
まず登場人物は基本的に長身で鼻筋の通った白人やスパニッシュが多い。次に黒人、アジア人。
残念ながら日本人が登場する邦画では知名度のあるゾンビ映画は無いといえる。
日本人や現代劇では様にならずといった問題。銃社会ではないため対処法では画にならない問題。
ゾンビ映画よりはゴースト映画を得意としている。
落武者の亡霊や旧日本軍の憲兵の亡霊といった古い時代の物ならゾンビに匹敵する印象を与えるだけの死霊に見える。
やってもせいぜいその程度。低予算で技術不足の作品を作り続けても誰も見なくなる。この苦しい問題点を抱えている。
海外から作品が来るが、こちらから作品を作ってお返しする事が出来ない。
日本らしさを強調した中身の作品を作る事は一応可能な線として残されている。
基本的には着物がベースの時代でなければ品が伴わない。
風土や文化、時代背景、何らかの特色がないとどの国でも海外物は安く見てしまう視聴意識がある。
スタッフは日本人、役者は海外という方法もできるが、これをやっていても在り来たりの中身になりがちで成功が難しい。
本当のブームという場合は各国が作る。こっちも作って見せなければならない。さぁ日本の映画会社よ立ち上がれ。
そんな気がしますが、気のせい?
冒涜観念と風刺
社会風刺の皮肉や警告といった点は今ではあまり気にしてない。
むしろ過去の作品にそういう意味があっても作品から感じ取るのは分かり辛い。
死者への冒涜という観念については、
むしろ死者を恐れよという恐怖心や嘆き悲しむ意味も生じて極力色々な問題で死者を出させない意識を芽生えさせる。
死者が増えればそれだけ困るのは人間だからだ。
それは食べ物を作ったり、衣服を作ったり、治療をしたり、将来の旦那や嫁になる人、色々な人が減り続ければどうなることか。
モグラ叩きのキャラクターのように弄ばれている弱い姿では、この屁理屈は成立しない。
よくアクション映画で害虫駆除、コメディ映画で玩具にされてしまうが、本来のゾンビはホラー映画にて恐れる異形のモンスターである。
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