時代劇の庵
なにやつ・・・。
方々、曲者でござるぞ、出会え出会え〜い。

ゲームソフトの武将列伝しか知らない人は勉強不足ですよ。
知識向上で認識力を養いましょう。
情報力が低い記憶もバッチグーに改善できます。

虎加藤として加藤清正を武将列伝のデータ情報では有名にしてるが、
虎狩りで有名な加藤清正は
朝鮮出兵の虎狩りには記載されておらず
記載されてるのは黒田藩の武将。
コーエーはバカですか?と。
コーエーはバカ決定。

本物の武田信玄は病弱だった。
ので影武者と巫女を使っていたらしい。
コーエーのゲームソフトの武田信玄は武力の数値が高いが。

病人まで「撫で斬り」にしてた織田信長。

島原の乱の原因を作り出した
肥前島原藩主松倉 重政と松倉 勝家は
拷問を娯楽としていたキチガイ。
徳川家光はどうしようもない。

島原の乱は通常の一揆と違い、幕府に弓を弾く本格的な武装集団として見せしめも兼ねて殲滅された。
一揆の後始末のために一揆の原因を作り出した藩が一揆殲滅作戦に駆り出される。
まさに地獄の連鎖である。
キリシタンへの弾圧は徳川幕府の御触れで最高責任者である徳川家光の命による書状なので花押の印があるはず。
仏教の寺院が圧政に苦しむ民を保護した話があるかは不明。
圧政に苦しむ民は運悪くキリシタン派の成立にために情報誘導された。
人情では大名で協力する者がいなかった。

日本最強とうたわれる剣豪。二刀を用いる円明流または二天一流兵法。
西国最強とうたわれる立花宗茂。
黒田官兵衛の孫。
黒田藩は黒田長政の頃から新陰流、宝蔵院流槍術、赤備えなどが成立していたのでいたはずである。

宮本武蔵。宮本伊織貞次は実子か養子かは不明。
立花宗茂。は高橋鎮種(紹運)の子。
立花忠茂。立花政俊。の2名の父である立花直次は立花宗茂の実弟。高橋鎮種(紹運)の次男で、初めは高橋姓を名乗った。
高田吉次(宝蔵院流槍術)
黒田忠之(黒田官兵衛の子の黒田長政の子)

柴任 三左衛門(しばとう さんざえもん、寛永3年(1626年)- 宝永7年閏8月20日(1710年10月12日))
江戸時代前期の武士、剣豪、兵法家。剣豪宮本武蔵の二天一流兵法第3代師範。
肥後熊本の黒田藩の細川忠利の頃の二天一流兵法第3代師範である。
細川忠利は島原の乱に参加してるので参陣した者達が幕府に確認される細川藩の体裁上では柴任 三左衛門も参加していた可能性がある。
このように実質は当時評判で腕が立つ者が参加していた可能性がある。
現代における「島原の乱」を扱った解説では有名な武将として名前が知られてないだけで扱ってないだけの様相であるため全容が把握し難い。

細川藩は明知光秀の娘、明知玉子ことキリシタンの細川ガラシャを妻としていた。細川忠利はその子である。
各地でも大名の妻でキリシタンは多かった。
次第に幕府の名目の行使力を振りかざして幕府の権力健在を誇示していた。

幕府にとっては外来文化による心理的洗脳支配という策略の情報工作による手口は十分見透かしていた。
ポルトガルが攻めてくるという噂話もあった。


松倉 重政(まつくら しげまさ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将、大名。
大和五条藩主、肥前日野江藩初代藩主。松倉重信の長男。
日野江に入封後は苛政と搾取を行い、子の勝家と共に島原の乱の主因を作った。

寛永2年(1625年)に将軍徳川家光にキリシタン対策の甘さを指摘されると発奮し、徹底的な弾圧を開始した。
顔に「吉利支丹」という文字の焼き鏝を押す、指を切り落とすなど種々の拷問を行い、
寛永4年(1627年)には雲仙地獄で熱湯を使ったキリシタンの拷問・処刑を行うなど、
キリシタンや年貢を納められない農民に対し残忍な拷問・処刑を行ったことがオランダ商館長やポルトガル船長の記録に残っている。

生誕
天正2年(1574年)?
死没
寛永7年11月16日(1630年12月19日)

松倉勝家
松倉 勝家(まつくら かついえ)は、江戸時代前期の大名。
肥前島原藩2代藩主。初代藩主・松倉重政の嫡男。領国に悪政を敷き、島原の乱を引き起こした。

生誕
慶長2年(1597年)
死没
寛永15年7月19日(1638年8月28日)

乱の鎮定後は江戸幕府に領国経営失敗と反乱惹起を問責され、大名としては異例の斬首刑に処された。

勝家は年貢を納められない農民や、村の責任者である庄屋から、妻や娘を人質に取るようになる。
前述のクーケバッケルや島原の乱の記録を残した長崎のポルトガル人ドアルテ・コレアは、
人質の若い娘や子供に藁蓑を着せて火をつけ、もがきながら焼死する姿を「蓑踊り」と呼んでいたという記録を残している。

キリシタンの暴動と主張。
過酷な収奪を行って領民を苦しめた。

『黒田長興一世之記』によれば、寛永14年(1637年)10月、口の津村の庄屋・与左衛門の妻は身重のまま人質にとられ、
冷たい水牢に裸で入れられた。村民は庄屋宅に集まり何とか年貢を納める方法を話し合ったが、もう出せるものは何もなかった。
庄屋の妻は6日間苦しみ、水中で出産した子供と共に絶命した。
たまりかねた領民は、10月25日ついに蜂起し、代官所を襲撃して代官を殺害した。これが島原の乱の始まりである。

寺沢 堅高(てらざわ かたたか)は、江戸時代前期の大名。
肥前国唐津藩2代藩主。寺沢広高の次男。島原の乱を発生させる原因の一部を作った。

生誕
慶長14年(1609年)
死没
正保4年11月18日(1647年12月14日)

島原の乱 - Wikipedia
宗教弾圧以外の側面が存在することから、反乱軍に参戦したキリシタンは現在に至るまで殉教者としては認められていない。

島原の乱
年月日:1637年12月11日 - 1638年4月12日
場所:原城

幕府軍
幕府派遣軍 上使 - 板倉重昌 800人 (従軍者:柳生清厳)
上使 - 松平信綱 1,500人
副使(目付)- 石谷貞清 ※出兵人数不明
副使 - 戸田氏鉄 2,500人

諸大名 備後福山藩 - 水野勝成・水野勝俊・水野勝貞 5,600人(九州以外からの唯一の参陣)
筑前福岡藩 - 黒田忠之 18,000人(従軍者:黒田一成)
筑後久留米藩 - 有馬豊氏 8,300人
同柳河藩 - 立花宗茂・立花忠茂 5,500人(従軍者:立花政俊、安東省菴)
肥前島原藩 - 松倉勝家 2,500人
同唐津藩 - 寺沢堅高 7,570人
同佐賀藩 - 鍋島勝茂 35,000人
肥後熊本藩 - 細川忠利 23,500人
日向延岡藩 - 有馬直純(有馬晴信の子) 3,300人
豊前小倉藩 - 小笠原忠真 6,000人 (従軍者:宮本伊織、高田吉次)
同中津藩 - 小笠原長次 2,500人 (従軍者:宮本武蔵)
豊後高田藩 - 松平重直 1,500人
薩摩鹿児島藩 - 山田有栄(島津家家臣) 1,000人
そのほか - 800人

総計 125,800人(「オランダ商館日記」によると士卒80,000)
幕府討伐軍側は13万近くの軍勢を動員、その死傷者は諸説あるが、
「島原記」によれば死者1,130人・負傷者6,960人、「有馬一件」によれば死者2,800人・負傷者7,700人、
「オランダ商館長日記」では死者5,712人とされている。

籠城軍
総大将 - 天草四郎時貞
原城本丸大将 - 有家監物入道休意(有馬氏旧臣)
評定衆 - 益田好次(小西氏旧臣)
評定衆 - 蘆塚忠右衛門(有馬氏旧臣)
評定衆 - 渡辺伝兵衛(天草 元庄屋)
評定衆 - 赤星内膳(加藤氏家臣の子)
惣奉行 - 森宗意軒(小西氏旧臣)
原城本丸番頭 - 山田右衛門作(有馬氏旧臣・松倉氏御用達南蛮絵師)
浮武者頭 - 大矢野松右衛門(小西氏旧臣?) 戦闘員 - 14,000人以上(推定)
非戦闘員(女・子供など) - 13,000人以上(推定)

総計 約37,000人(総攻撃を前に脱出した一揆勢を除き27,000人とするなど異説あり)。
幕府軍の攻撃とその後の処刑によって最終的に籠城した老若男女37,000人は全員が死亡し、
生き残ったのは内通者であった山田右衛門作(南蛮絵師)ただ一人であったと言われる[33]。

枠線下はWikipediaより。

立花道雪
生誕
永正10年3月17日(1513年4月22日)
死没
天正13年9月11日(1585年11月2日)
『大友興廃記』によると、
千鳥の太刀だが、雷に当たった印があった。これより千鳥を雷切と号するようになった、
『大友興廃記』によると、道雪は若い頃(35歳)に半身不随になったとされる。
時期に関してはおよそ天文17年(1548年)6月5日[3]、
道雪が故郷の藤北で炎天下の日、大木の下で涼んで昼寝をしていたが、その時に急な夕立で雷が落ちかかった。
枕元に立てかけていた千鳥の太刀を抜き合わせ、雷を斬って涼んでいたところを飛び退いた。
これより以降、道雪の左足は不具になったが、
『戸次道雪譲状』によると、
永禄5年(1562年)10月13日の対毛利軍の柳浦の戦いに、
毛利方三人の大将冷泉元豊、赤川元徳(赤川助右衛門)、桂元親(桂兵部大夫)を自ら討ち取った
『戸次軍談』や『九州諸将軍記』などの史料によると、
永禄10年(1567年)8月14日に秋月氏との甘水・長谷山合戦(瓜生野の戦いとも)と休松の戦いでは
「自ら太刀を振るい、よき武者7人を斬り倒したや騎馬で敵陣に乗り込んで戦った。」
『浅川聞書』によると
永禄11年(1568年)7月4日、立花鑑載討伐で立花山崖下の戦いにも
自分で槍を取って家臣と共に奮戦した、
『筑前国続風土記』にも
永禄12年(1569年)5月18日の多々良浜の戦いに自分で馬を乗出し敵の中へ縦横に突て廻りける、

立花道雪が輿に乗っていたという記述は無い。

あれ?
武将列伝を明記したコーエーは
どういうことですか?
コーエーはバカ決定。
立花道雪の腰に乗って戦場に出たという明記を大半の人が知ってるのは「信長の野望」シリーズの武将列伝のせいです。

上杉謙信は幼い時から左足は不具。

あれ?
ゲームソフトの上杉謙信は
全力で走ってますけどね。
コーエーはどういうことですか?
コーエーはバカ決定。

「戦国時代は病人まで戦争していた」

戦国マニアや歴女の貴殿らは
間違った資料を参考にした
戦国ブームの製品に
騙されてたな?

戦国時代はまさに地獄。

日本国民よ戦国時代の話まで真実を知れ。

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