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なにやつ・・・。 方々、曲者でござるぞ、出会え出会え〜い。 |
■登場が多いもの集 旅籠、蕎麦屋、団子屋、飯処、両替商、米問屋、呉服屋、鍛冶屋、籠屋、質屋、遊郭・岡場所、道場・塾、賭場、茶室、 番屋、城、関所、寺、街道、 町民、同心、藩主、藩の武士、姫、腰元、御傍要人、浪人、僧、虚無僧、山伏、忍者、芸子、太鼓持ち、露天商、荷物運び、船頭、盗賊、女衒、 ■登場が少しあるもの集 歌舞伎・見世物小屋、処刑場、牢屋、風呂、瓦版、本屋、小物屋(かんざし・匂い袋)、工房、窯元、 飛脚、農民、漁師、医者、薬売り、飴売り、傘・皿・器・笊篭・売り、南蛮人(男)、工夫(金山)、大工、祭り、丁稚奉公、太公望(釣れない)、傘貼り浪人、 ■滅多に登場しないもの集 豆腐屋、油売り(行燈)、ガマの油売り、魚屋、八百屋(果物)、酒屋、樽・桶屋、漬物屋、乾物屋、南蛮渡来・舶来品屋・交易所、能舞台、温泉(外風呂)、 散髪・髪結い、鉄漿売り(おはぐろ)、 関取、巫女、神主、ハゲ、絵師、書家、軍学者、易学者、測量隊、俳人、動物全般、団子と米と麺と焼き魚と漬物以外の食べ物、鵜飼い、道場破り、夜鷹、丁稚(でっち)、禿(かむろ)、 |
■風習集 火打ち送り、塩まき、神棚、 |
■あるある集 長屋暮らしの貧乏な傘貼り浪人。 長屋暮らしの病気で寝てる家族。 縄張り一家の借金取り。 辻斬りの正体は偉い人の刀試し。 夜道の辻斬りと提灯を持った商人。 空腹で倒れる(一宿一飯の恩義)。 娘さんの腹痛(狂言の小芝居)。 悪党の片棒を担がされる職人。 ご乱心。 お戯れ(色情)。 一揆(邪魔が入る)。 不義密通。 切腹。 百叩き。 御免なすって(見るに見かねて横槍でわざと邪魔する)。 御免なすって(ぶつかってきた場合スリ)。 病気で寝込み、大枚叩いて朝鮮人参。 亭主関白、かかぁ天下。 心中。 毒を盛るお抱え医者。 どざえもん・仏さんが上がる。 酒だ酒を買って来いと怒鳴る。 なぜか賭場は全員さらしとふんどし姿。 拷問でぐったりすると水をかける。 旗本の若様集団が不良。 饅頭の下に小判。袖の下に小判。 幽霊と妖怪と魔物の正体は悪党。 井戸の前で洗濯。 子がいない家庭が多い。 勧善懲悪の物語。 恋文代行。 権力で許婚没収。 生臭坊主。 籠の中の人物が襲われて籠屋が逃げる。 農民の身なりが著しく貧乏臭い。 鉄砲を持ち出しても当らない。 馬に乗った覆面の義賊。 男装した女侍。 性別が分からない覆面女盗賊。 仇討ち御免(母と息子のバージョンが多い)。 抜け荷。 飛脚レース。 升で計量。 公家の催促。 無銭飲食、ただ働き。 関所で旅芸人の芝居。 舞台で助っ人役者。 黄門様の偽者。お付の助さん格さんも偽者。 カラクリ屋敷。 竹光。 ガマの油。 曲者がいると思って障子を開けたら誰もいない。忍者が動物の鳴き声で誤魔化す。 曲者がいると思って天井を槍で突くが手応えがない。槍で傷ついた忍者が我慢する。 金山で金鉱を掘る労働者を生き埋めして隠蔽。 金で雇った悪党に美女を襲わせて助っ人登場のインチキ色男。 ここは俺が敵を防ぐ。逃げるんだ。と「しんがり」を務める勘違い野郎。 |
■ありそうで、やらない集(主に習慣や風習、描写に難あり) 厠(トイレ)、 姥捨て。 夜這い。 娘が売り飛ばされる(近年はやらないようになった)。 畑泥棒、お供え物を拾い食い。 簀巻きにして放り込む。 春画(たまにある)。 大衆浴場(影の軍団IV)。 乞食。 村八分。 川で体を洗う。 傘張りの内職をする浪人(飽きられて滅多に無いものになった)。 ナンパ。 駆け落ち。 いきなりムラムラ。 男色(逸話があり注視され易いが、とにかく卑猥なので無し、後にこの風習を改革したのは水戸黄門)。 見苦しい行動、怪しげな風習全般。 流行り病、疫病(小石川養生所の医師が仲間になっている大岡越前のみ)。 無礼討ち(止めに入る、もしくは回想シーンのみ)。 顔に墨(長七郎江戸日記)。 白い息・手をこする寒さの表現(必殺シリーズ)。 走りが多く、足の脛が目立つ。(70年代作品、主に高橋英樹・杉良太郎 出演) 晒し首。 かなり太ってる町娘、もしくは奥方・腰元衆。 天井裏の曲者に気付いて槍で突く(襖や畳と違って修復が大変)。 災害・天変地異。 おはぐろ(不気味、公家方面はお約束でマニアックな人気)。 キセル・煙草盆。(トーントンってやつです。すっかり映像作品まで禁煙の様子。フィルターが無いとキツそう)。 鮨屋。(テレビ番組で昔の寿司の説明は見かけますが、映像作品にはありません)。 あさり・しじみ売り。(すっかり声を聞かなくなった) 長屋には囲炉裏が無い。 一本締め。(伝七捕物帳)。 ![]() |
娯楽とは言え、見始めれば娯楽という先入観は念頭に無い。 古臭い喋り方や読みを要するかは製作側の判断。作風によって好みが分かれると思う。 大半の小説は劇作家好みである。 東北地方にしては主役にされてると口達者な人物にされてたりもする。 小説の伊達政宗は喋りすぎるくらいだ。 小説によっては描き方が教訓だったり出世だったり物欲だったり人情だったり勝てない相手だったりし、過去の争いで敵味方だった境目が後年に無くなる話もある。 人心を弄ぶと卑しい内容になる。 裏の裏まで知り尽くした相関図。 知性を感じさせる内容にのめり込むと美徳と勘違いする。 肉薄したり陰惨だったり。 返り血は出るが裸は出ない。それもおかしな話だ。 昔は水郷ということで深川が好んで描かれることもある。 メートルなどの用語を使うかといった判断を迫られる場合もある。 大名には叱責・教訓、豪胆、臆する事無く、発言を制すといった駆け引きが多い。 有り触れてしまってるので、やり取りを長々と楽しむのは無理がある。 作家がそうしないと満足に人物像が表現できない。未消化といった未熟さとも受け取れる。 当時は命を懸けた人物達であり仮想の人物ではない。 役職や主従関係によって家風や罰則も厳しい。主人の人柄によっては一寸先は闇。丁稚奉公人も辛いであろう。 史実においては監修や資料を集めるのが大変そうだが、原作を扱って主体に重点を置く描き方。 どちらにしても作り直しは利かない。 日本の作品を曲げたり、質を下げられたり、歪曲させられたり、衣類の貧乏臭さで暮らしを表現したり。 そのような羅列で侍や日本をアピールするのはもってのほか。 悪口陰口を言われないように、できるだけ質の良いものを着ようと努力した人達もいたはず。 お洒落な賑わいが流行した場合もあるだろう。 歴史小説は小説と呼ばれながらも大きな話まで扱う変な意味を持ってる。 小説ごとにタイトルは違うが、登場人物が同じ場面を迎えることもある。 順を追って登場した史跡と住所を明記して紹介してる小説もある。 小説やドラマでイメージが作られたため、残忍さについては計り知ることが出来ない。残忍な内容や手口は奉行所の文献に書かれてるはず。 小説では大名に数万石という石高で実力や褒美で、実力を表現することがある。 これには商業の収益は入ってないので実力の表現としては話半分としたほうが良いと思われる。 |
蔵書 戦国武将FILE 覇王伝など/光栄 三国志 全8巻 吉川栄治 講談社 上杉謙信 吉川栄治 講談社 黒田如水 吉川栄治 講談社 伊達政宗 全8巻 山岡荘八 講談社 柳生石舟斎 山岡荘八 講談社 柳生宗矩 全4巻 山岡荘八 講談社 毛利元就 全2巻 山岡荘八 講談社 伊東一刀斎 全上中下巻 戸部新十郎 光文社 卜伝最後の旅 池波正太郎 角川文庫 伊達政宗 歴史と史跡をたずねて 竹内勇太郎 成美文庫 別冊歴史読本 戦国・江戸 真田一族 名族真田一族の軌跡 編集・宮崎美友 新人物往来社 上田市、作家・池波正太郎真田太平記館にて購入。 三国志人物辞典 渡辺精一 講談社 永久保存版 日本の銅像完全名鑑/史上初!歴史人物銅像オールカラーガイド/全950体 かみゆ歴史編集部 編/廣済堂出版 別冊太陽 縄文の力/平凡社 江戸の食と暮らし 長屋の晩飯から将軍が好んだ豪華料理まで− 別冊歴史REAL 洋水社MOOK 江戸の風物詩と暮らし大図鑑 人生が豊かになる 和の暮らしの原点/洋水社MOOK 保存版 まるごとわかる 戦国時代最強図鑑/学研 世界の美しい教会/学研 日本の四季と暦 二十四節季、七十二候、四季を彩る旬や行事を楽しむ/学研 人に教えたくなる裏日本史/竹書房 歴史の授業で教えない 大日本帝国の謎/彩図社 『北斎漫画』出版200周年記念! 画狂人 北斎の世界/洋水社MOOK 保存版 いま見ておきたい国宝・名作 江戸絵画を知りたい。六大ジャンルで江戸のアートのすべてに触れる!/学研 |
姫と言うと良妻賢母、男勝りなど様々である。 嫁いだ後の立場の問題や実力が分かりやすい。北政所や淀君などは有名。 人質も同然の外交の道具として利用される話は多いが、本人が外交するなど実力もある。 伊達の義姫や武田の三条の方については分かりやすい。 |
コラム 時代劇の映画では馬や動物を駆使すると良いと思います。 山深い場所など水を飲む鹿の姿も必要です。亀でも良いです。 こうして風土と気候の景色が相まって、なんともいえぬ優雅さが醸し出されます。 侍や忍者が登場するアクションには出てこない場合も多いですから。 ハードワークが強いられる時代にあって、会話と移動と争いの数々。食事もしないのは変です。 手間を省くなら、一言かけてお膳を運び入れるシーンで次に切り替えると良いと思います。 ![]() |
元々はグルメブームの影響で、グルメ時代劇の小説のジャンルもあるようです。 モデルは細腕繁盛記やグルメ好きな若など。 まぁ昔の楽しみと言えば、娯楽は金がかかるものですし。 小物と反物や屋台の寿司さえお武家様や女中向けの高級品。 瓦版以外の冊子さえ高級品。 雑穀で我慢していた長屋の庶民には無理があります。 戦国時代の小荷駄隊による炊き出しや携帯食となると、もはやグルメとは言えませんが。 |
昔は何かと金がかかる。 両替商。 行灯のための油。 桶屋。 修繕費用のための勧進。 |
出陣の際の作法。 軍議。 陣形。 ”しんがり”は負け戦と分かっていて最初に決めるものではないが。 時代劇では本陣でも小荷駄隊は登場しない。小荷駄隊が襲撃されれば見苦しいだけだろうと思われる。 出陣日。 祈祷。生年月日による予定日などは占星術。吉日を選んでいたと。 兜に八角を入れる。 飲み干した杯を叩き割る。 三献の儀式−打ちア鮑、勝ち栗、のし昆布。 勝利−勝ち鬨をあげる。 首実検。いわゆる品の見分。首級(時代劇では”みしるし”と呼ばれる)そぎ落とした耳の場合もある。 首塚・耳塚に葬られた。古いものは盲塚、鼻塚ともいわれる。 ただし合戦中に大将首や耳を切り取ろうとしたり、それらを携帯しながら他の兵士を倒していくのは困難である。 合戦後の戦場で無名の庶民が首や耳を集めても意味は無い。 馬。ポニーと同等の品種といわれてる。それすら信憑性は不明だが。 現在よく見かける競馬馬のサラブレッド種ではない。時代劇で見かける馬などもサラブレッド種が多い。 細道や林の中など小回りが効く。 通常は小荷駄隊で消耗してしまう。 幌隊については諸説ある。 戦国時代の「なで斬り」は「皆殺し」の意味。 織田信長の比叡山での行いで僧侶・女子供まで追いやられたので良くない慣習であった。 合戦が起きた地域では民衆が崖や滝に身投げした話も諸説あるが誰が生き残ってそれを伝えたかも定かではない。 江戸時代の芝居や書籍などの話が過剰であるため混同しやすい原因もある。 |
戦国時代の連絡方法は狼煙や法螺貝が合図とされてます。 敵陣から見えてしまうようでは合図にもなりません。 ただし、偽報として使えば囮として誘き寄せて、遠距離で弓で狙った後に側面と背後から陣形で奇襲をして囲むほうが効率が良いです。 食事の準備さえ煙が出るので合戦では不向きです。 そこで常備してる携帯食「兵糧丸」などがもといられたとする説があります。 |
昔の史実は過酷。 年貢で百姓が困窮して人質にまでされた話は諸説あります。 ここで見知らぬ不特定多数を相手に悲惨な話を読ませるわけにはいかないので元から書くまでも無いでしょう。 天草四郎の原城一揆。 昔の毒まんじゅうの逸話。 時代劇を楽しむ人から見ればコメディですが、実際にそういった実話がある。 高幡村の藤治権現。(現在の東京都日野市高幡) 内と外も敵だらけのサイクル。誰かが英雄となっていても一時凌ぎ。 町では、お家再興を画策する者達が暗躍。藩では、懐柔して実権を支配する家老達。家督争いでお家騒動。当主が変われば、町もどうなるやら。 |
視点論点、活字の限界に妥協? 小説などの架空の物語は活躍することを重点にしてるので、いざこざも少なく退屈な終わりです。 それどころか有名な戦国武将の名前の文字を読んでるだけで楽しめますか? 小説に登場する戦国武将の名前の文字さえ変えれば描かれてる場面など、他の小説と大差が無いものです。 戦国を舞台にしたゲームソフトも登場する戦国武将の名前の文字さえ変えれば描かれてる場面など、他のゲームソフトと大差が無いものです。 何が売れるかは出版社次第となってます。 活字で作家の個性など分からないので作家の個性など皆無となってます。 その季節に見合ったタイトルで発売日を決めてるものや、ブームを見計らったような特徴のあるものもあります。 |
大和本草 江戸時代の本。 徳川綱吉が1月10日没後20日に生類憐れみの令廃止され翌年、福岡藩士、貝原益軒が1709年(宝永7年)に刊行。 植物、動物、魚介類、菌類、醸造など多種に及ぶ。 書物だけにとらわれず自分の足で歩き目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめる実証主義であったという。 ヒゴタイ(Echinops setifer)キク科ヒゴタイ属の多年生植物。 和名「平江帯」貝原益軒の大和本草。「肥後躰」肥後細川家写生帖。 熊本県ヒゴタイ公園。 このように江戸の書物から当時の文献により人々が何に関り何を見てきたのかが分かる。 建物や小道具や衣装などしか分からない時代劇の内容に振り回されるよりは、一見の価値あり。 |
家紋−五大紋 主に草花の模様が家紋に用いられてる。 家紋の全国平均の並びでは、上位から片喰・木瓜・鷹の羽・柏・藤、次に桐・蔦・梅・橘・目結の順となってる。日本家紋研究所調べによる。 このように、いかに日本で戦に明け暮れた武家が草花を愛でたかが分かる。子孫繁栄を意味する意味であったり縁起を担ぐ風習であった。 安倍晴明は家紋ではないが晴明神社やセーマンドーマンの魔除けなどの紋は意味が込められたものである。 古い時代から文字だけに頼らず、形状との組み合わせで意味を担っていた。 |
土葬と火葬 火葬の煙が一揆の合図と間違われ土葬にした地域があるようです。 「中野騒動」北信州。 |
激動の幕末−明治維新の改革に宗教の泥沼あり 神仏分離令が布かれた。神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させた。 寺請制度、邪宗門とされたキリシタンではないことを寺院に証明させる制度である。 寺請制度で寺院の腐敗に苦しめられていた民衆がこれに加わった。 戒名代が少ないことを理由に、僧侶から破門を仄めかされる(破門されると切支丹と見做される)ことなどがあったため。 仏教も外来宗教とみなされ廃仏毀釈の扱いになった。 明治元年1868年〜1869年の戊辰戦争の最中である。終結した数年後1873年まで。 |
蘇我入鹿暗殺 豪族の権勢は天皇家を凌ぐほどと見られてる見解は格好の材料だが、斬りつけられた蘇我入鹿は天皇に問い質しており、事態を理解してない。 『藤氏家伝』大織冠伝には蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、董卓に比肩する暴政としている。 後に「大化の改新」。 歴史に登場する暗殺劇としては蘇我入鹿は有名すぎる。 残された資料からでは事実の隠蔽が施されてるかもしれないので推測の域を出ない。 |
鉄砲伝来 種子島銃は有名だが、種子島氏が改良したものである。各地に広まった筒の種類は種子島銃ではないことが分かる。 島津藩が金儲けのために他の藩に武器の設計図や銃を売るのはありえない。他の勢力が強くなれば不利になる。同盟国だろうと無理がある。 堺衆。信長に対抗する包囲網で本願寺一向宗と組んだ雑賀の鈴木氏。稲富氏。この周辺は鉄砲を扱う人物が多い。 剣術指南、槍術指南、弓術指南の以後、鉄砲の普及により砲術指南といったお役目が藩に用いられる。 織田信長が長篠の戦いにおいて鉄砲隊の三段撃ちで武田騎馬隊に対抗した話はどういうわけか有名だが、三段撃ちがあったかは分かってない。 伊達の鉄砲隊は有名だが、真田も鉄砲隊を有してる。 伊達騎馬鉄砲隊は無理である。馬で走りながら狙いを定めると揺られて安定せず、なおかつ火縄が着火するまでの間に距離が進んでしまうからだ。 さらには合戦場が平野とは限らず山道では無理がある。 迅速な移動と運搬のために馬を使用していたとするのが現実的だろうと思われる。 種子島の鉄砲は種子島時尭がポルトガル人から鉄砲を購入し、制作を命じられた八坂金兵衛が国産火縄銃第1号を生産したと言われてるが、 ねじの製作法が分からず娘をポルトガル人にと継がせたとある。 鉄砲の使用は六角定頼が三好長慶との戦いで兵器として始めて使ったとされる。 大阪・堺。橘屋又三郎。 紀伊。根来寺の僧侶の津田監物。根来衆。雑賀衆。津田算長が種子島で種子島時尭から一丁の種子島銃を買い、芝辻清右衛門が製作。津田算長は後に「津田流砲術書」を制作。 なぜ紀伊からはるばる遠い種子島に行ったのかは不明だが『鉄炮記』ではもともと種子島の住人であったとしている。 近江。国友善兵衛。国友筒などはこれにあたるが銃身の長さなどがまるで異なる。 城壁や櫓から下方に向けて射撃すると弾が落ちる?かははてさて。 織田信長の鉄砲隊と雑賀の鉄砲隊。どちらが強いのでしょう。鉄砲の戦いだけでは勝敗にはならないだろうと思われます。 軍備と侵攻を整えた側だと思います。 織田信長の三段撃ちVS武田騎馬軍団。 両方ともありません。武田は馬から下りて戦ったと書かれてます。馬の保有率も少ない。 騎馬戦だと囲まれてしまいますし落馬の危険性もあります。 長旅の遠征で馬は疲れているので戦では使えない。 甲斐の周辺は山深い地域なので馬が頼りだったということです。 |
日本書紀の神武天皇の話は1つ1つの比喩が何を表してるか解釈しなければいい加減な話になってしまう。 戦国時代には伝承としては重用視されてないようだ。 謎多き人物と片付けたくない。 |
縄文時代・弥生時代 縄と土器と石器の文化。 日本の北海道と青森県が地続きで繋がっていた。その周りは海に侵食されてない範囲で太った日本の大陸があった時代。 民族はどこから来たのだろうか?大陸渡来説がある。 しかしながら、大勢が子供や高齢者までを引き連れて長距離を移動するのは無理がある。大きな川や運河もあるからだ。 1家族分では食料の確保が困難。そこで集団の団結力による生活。 向かい側にも住居。 対を成す。 体を洗うためにも、川がある付近、海がある付近が快適。土器を作る粘土が確保できる場所。 汚れのついた手や股間で不快な気分のまま子孫を増やしたとは思えない。 森の中だと毒草や毒蛇や毒虫がいる森の中で生活するには不快である。 岩山と茂みの中で長期間生活しながら各種の石を採取するには明りが不足。 火をつける。石を削る。石に穴を開ける。という労働だけでも用意にこなす。 現代人が縄文時代で行動するとなると縄文人の暮らし方より知識が無いばかりか生活に不快感を覚えるだろう。 粘土の確保の日数、土器作りの完成までの日数。 そのことから他の地域に移動してる暇が無いか。どの地域に移動しても全ての資源を確保できたか。 縄文人の精神力と心理。 サメや熊を恐れない縄文人が何を恐れたか。何を不快と思ったか。何に苦痛を覚えたか。 縄文人の文化の表現から内と外の概念を考察する。 四季に合わせた食の確保。春はノビルやアクのある野草。 秋は栗。冬はイノシシや鹿や熊など獣肉。夏から全般にかけて貝類や海の魚のイルカ、サメ。 それらは栗の木の支柱群。獣の土偶。獣の骨の装飾品。貝塚。などで生活の一端が判明してる。 農耕の生活は後の弥生時代からであるが農耕だけで賄うのは方法論の一部にすぎない。そのため漁業が通年行われていた形跡がある。 農耕の様子の図解で判断してしまうと全てが農耕で賄われていたと誤解しかねないものによるだろう。 太陽光が分かる位置に縦横の模様に敷き詰めたストーンサークルがあるが儀式の場に使われていた説があるが不明である。 土葬は壺に入れたり土器を顔に被せたりされていた。 身分がある者がいたという説があるが不明である。 仮面のようなものはどの国でも見られる原住民の風習だろうか。 一部の地域は江戸時代などに半分を侵食された形跡もある。 縄文時代の漆が入った壺や漆塗りの土器があるが、縄文時代の土器で江戸時代の人により漆塗りが施されたものがあるかは不明である。 土器作りの職人がいたか?という説には一部の学者は否定的である。 石刀。石斧。ナイフ。両側が刺突状の独鈷のような石槍。 土器を作るための粘土。 擂り鉢と棒。石皿、磨石。 穴つきの縄模様の石。 穴つきの瑪瑙。 黒曜石の価値観。 点の配列が施された土石。足し算と引き算の数の概念の知識があったという説がある。 鹿角の装飾品。 サメ、熊の牙の装飾品。 男性や女性の股間のような形をした珍?石器もあるが用途は不明である。 男性の股間はカリ首と先に尿道の穴がある。そのことから磨石や棒石ではない。 女性の股間は開いたような形がある。 若い頃の岡本太郎は写真家であり、縄文の土偶を撮影していた。 1952年2月号美術雑誌「みづゑ」「四次元との対話−縄文土器論」 岡本太朗作の1970年の「太陽の塔」は板状土偶の体と顔と腕がモデルである。 岡本太郎は1950年頃から1975年頃までカメラを手に活動していた。 武器の開発があるため縄文時代は侍の原型といえる。 縄文時代に呪術信仰があったとされる説も一部にあるが。飛鳥時代の役小角や平安時代の安倍晴明が台頭するまで方法論は明確ではない。 卑弥呼がいたとされる弥生時代から古墳時代まで古墳の風習がある。 卑弥呼がシャーマンや鬼道で民衆を惑わしていたとされる説は三国志の陳寿「魏志倭人伝」の中国の文化から当てはめた解釈。 後漢時代200年頃には于吉という者がいて道教に通じていたという話がある。 つまり中国の道教から鬼道と当てはめたのだろう。 「太平清領書」が于吉が書いたものとされ、張角が入手し太平道を創始したといわれてる。 後漢時代の左慈も妖術使いとされてるが不明である。 曹操と張魯の近辺で行われていた五斗米道も似た系統である。 「後漢書」は曹操が悪者にされてる解釈があるので真意が不明である。 コーエーの「三国無双」シリーズにはなぜか中国の世界で土偶を操る卑弥呼が登場する。 戦国時代の蜜柑と同じで、弥生時代のいくつかの食べられるものが美味しいとは知らなかったと「魏志倭人伝」に書かれてる。 弥生時代のものは暦の知識が無い。農耕の一巡で年を数えたと「魏志倭人伝」に書かれてる。 「日本書紀」では古墳時代553年に百済の元嘉暦が伝わり、再び602年に百済の僧から暦が伝わる。 弥生時代になると埴輪が登場するが、縄文時代に土偶に用いられていた縄の文様が使われてない。 これは何のためだろうか。効率化が進んだため廃止されたのだろうか。 しかし粘土から焼き物を作る文化という興味対象は変わってない。 縄文文化の発展系が弥生時代の卑弥呼などに用いられていたとするか。 卑弥呼は日本全土を支配していたわけではないので一部の資料では不明な所がある。 「魏志倭人伝」や「後漢書」に卑弥呼の内容が書かれてるとすれば、興味深いその内容だけが詳しく書かれる世の中であるが。 卑弥呼にしか興味が無く他の部族について調べ上げられない日本にされてるのは遺憾である。 「古事記」と「日本書紀」でさえ双方が一致してない箇所や記述されてない箇所が多い。 天照大神、スサノオノミコト、ヤマトタケルなど。 2つ3つの簡潔な名称が、なぜ後の世にこれほど長い呼称にされてるのだろうか不自然な点もある。 |
江戸時代の商品 喜田川守貞「守貞謾稿」−寿司・蕎麦・饂飩・鰻 貝原益軒「養生訓」 本朝食鑑−元禄10年−茶 東都歳時記−粽(ちまき)や柏餅 「扶桑百菊譜」元文1736年 歌川広重「東都名所・高輪廿六夜待遊興之図」「名所江戸百景・深川万年橋」「広重魚尽」 歌川豊重「日本橋初鰹」 歌川国貞五渡亭国貞「俳優見立夏商人 金魚売り」「出前蕎麦・助六 松本幸四郎」「夜そばうり宗兵衛 歌舞伎忠臣蔵」 歌川豊国「十二月の内・小春初雪」「十二月の内・師走餅つき」 「二五五四好今様美人・金魚好」「金魚玉を持つ女」「そば屋のかつぎ市村羽左衛門」 「十二月の内・卯月初時鳥」 「近世商賈尽狂歌合」 「職人尽絵詞」 水野廬朝「盲文画話」 安達吟光「大江戸しばゐねんぢうぎやうじ・風聞きゝ」 歌川国輝「当世菊見図」 「江戸名所道戯盡・三十六・浅草駒形堂」 勝川春亭「江戸大かばやき」 勇斎国芳−歌川国芳「縞揃女弁慶」 西川祐信1671〜1750「掛時計」 井原西鶴「日本永代蔵 櫓時計」 二代目歌川など同じ画を描いてるものがあるかもしれないので表記しても面倒ですが。 江戸庶民の様子は当時の江戸風俗画に描かれてる。 東京都立図書館「江戸 東京 - デジタルミュージアム」古きをたずねて、新しきを知る。 資料 江戸の外食文化 北伊醤油/しょうゆの豆知識 http://park11.wakwak.com/~kitai/Kitai_Shoyu/MAME/reference-1a.html にも分かりやすい説明が書かれてます。 江戸時代の商品価格 江戸は様々な職業の男が各地から集まるため男女比率が男2女1の割合になってる。 万葉集や俳句による花や動物の状態は暦の季語も表してる。 寺子屋、雛祭り、花見、花火、詣。多忙な江戸庶民が利用していた人気スポット。 富士山は人気だったが、各地で作られたミニチュアで済ませており登ることは無かった。 流行に使う言葉は当時の俳句や有名人などから1つ2つ引用し組み合わせており関心の度合いと洒落と小粋を感じさせる。 一膳飯屋を含めて料理飲食店の数は江戸後期文化元年1804年6165軒、天保6年1835年飢饉で5757軒に。 文政1818〜1830頃大阪の道頓堀戎橋南に江戸の握り鮨を売る店。 一説には屋台の蕎麦屋は寛文4年1664年の浅草と。 文化文政4000軒近くあったという。 焼き芋屋は寛政1789〜1801年。 相場があり、1文銭は1枚2文から4文の価値に変動し幕府から通達がなされたため、江戸時代の1文銭が1文とは限らない。 四文銭の頃なら4文で買える物は1枚で済む。 現在に換算して1文15円の場合。1文20円の場合があります。 白湯?文 お茶?文 冷水4文〜5文 井戸水が枯れることもあるため。江戸市中の井戸は七夕に井戸替えが行われていたが飲み水ではない。 現在のようなお寺に水が沸いてるのは人工ポンプ。 砂糖水8文 麦湯 ゆでたまご売り20文 塩辛売り?文 「寿し」の海苔巻きかんぴょう巻き「海老巻き」4文から〜40文。 高い物で現在に換算して60〜600円。他は高値。あまりに高い悪質な店は捕縛されたとある。捕縛された人数200名余。 「稲荷鮨」16文。半分8文。一切れ4文。 飯抜きの大判揚げ?文 江戸初期 押し鮨 のち握り鮨のみ。 京都・大阪 押し鮨 寿司8文 握り寿司6文 王子寿司16文 おむすび4文 団子4文団子1つ1文。5つで1串。1768年(明和5年)から四文銭が流通し団子4つになったと。 飛団子?文 いか焼き?文 ころ柿4文 「二八」蕎麦16文 現在に換算して240円〜300円。 レートが2倍の頃なら二八蕎麦16文は四文銭2枚で済む。 レートが4倍の頃なら二八蕎麦16文は四文銭1枚で済む。 1文銭。レートが2倍の頃なら二八蕎麦16文は1文銭8枚で済む。 レートが4倍の頃なら二八蕎麦16文は1文銭4枚で済む。 御膳大蒸籠48文 あられ24文 天ぷら32文 花まき24文 しっぽくそば(ちくわ入り)24文 温飩屋16文 しっぽくうどん24文 あんかけうどん16文 けいらんそば・玉子とじ32文 関西あんぺいうどん24文 関西けいらんうどん32文 小田巻うどん36文 上酒一合40文 天麩羅1串4文。 衣の天ぷらのことか薩摩揚げを天ぷらといったものかは不明。 天麩羅茶漬店24文。32文。48文。多くは屋台。料理専門店は無い。 歌舞伎、能で出回った幕の内弁当19文? 油20文 様々な種類の油があるが、庶民には高嶺の花なので夜になったら寝るといわれてる。 米20文 酒30文 蜜柑1文〜1000両 大暴落し紀伊国屋文左衛門が差額で財を築いた話はカッポレ節の歌にもなってる。 あやめ団子5つ4本4文 四文屋なんでも1つ4文 白酒「山川」8文 1升132文 甘酒8文 白玉?文 汁粉「志るこ」「正月屋」16文 現在に換算すると240円。 雑煮?文 虎屋の蒸し饅頭?文 「描かれてるのは大阪での虎屋」 現在でも東京で健在の老舗である虎屋は羊羹や江戸時代から製造してる和菓子の種類が人気だが、お取り寄せは東京23区内限定である。 藩のお得意先では年の売り上げの四分の一を売り上げたとある。 上燗おでん?文 夜店限定。 茶飯?文 夜店限定。 焼き芋「木戸番」「看板・栗よりうまい十三里」?文 お菓子屋?文 鰻の屋台16文。ただし「まずい」と書かれてるらしい。夏の土用の丑の屋台で魚料理は腐ってしまう可能性がある。 味付けは不明。京都や大阪での鱧(はも)料理の代用なら汁物や酢味噌や白焼きもありえるが定着して無いことが伺える。 初めは鰻を桶に入れて捌いて売っていた魚屋である。 料理が出てくるまで時間がかかるため「鰻は新香でも食べて待つ」と書かれてる。 鰻の蒲焼き料理100文〜200文。現在に換算して4000円。 庶民の高嶺の花である寿司より高い。客が大量の銭を数えるだけで時間が掛かるし、大量の銭を持ち運びしてるとは思えない。 庶民の年に1度の贅沢とはいえ好機があるはずである。 平賀源内などが食し流行を煽ったかは。 瓦版などで宣伝された内容か。 狂歌師・蜀山人の歌や万葉集の大伴家持の歌では調理法が分からないし万葉集を読まない庶民が参考するはずがない。 1文を現在に換算して15円の場合。 1文銭264枚? 1文銭が2倍の頃なら1文銭132枚。 1文銭が4倍の頃なら1文銭66枚。 4文銭66枚。 1文銭が2倍の頃なら4文銭33枚。 1文銭が4倍の頃なら4文銭16枚か17枚。 どうしても割に合わない。品数を増やしたほうが得であるし弁当2つでも十分であるはず。 1文を現在に換算して20円の場合、200文で4000円。 天明寛政に蒲焼き。 「茶湯献立指南」巻四、元禄9年1696年。背開き醤油調理方法が書かれてる。 「増補食物和歌本草」1723年山椒味噌醤油と書かれてる。 「料理網目調味抄」享保13年。1728年。蒲焼調理法。 「万宝料理秘密箱」寛政12年。1800年。蒲焼調理法。 天明2年(1782年)に刊行された『豆腐百珍』には、100種類の豆腐料理が記述されてる。 鎌倉時代末期ごろには民間へ伝わり、室町時代には日本各地へ広がった。 そして江戸時代には良く食べる通常の料理となったとされる。 この江戸時代の豆腐は、今日でいう木綿豆腐のみであった。 一般に豆腐は中国から日本へ伝えられたとされるが、空海によるという説、 鎌倉時代の帰化僧によるとする説もあるなど様々な説がありはっきりとしていない。 ゆばやこんにゃくなどとともに鎌倉時代に伝来したとみる説もある。 ただ、1183年(寿永2年)の奈良・春日神社の供物帖の中に「唐府」という記述がある。 Wikipedia 江戸時代初期、豆腐は将軍の食事に使われるようなぜいたく品。 江戸時代中期になるまでは、農民は特別な日にしか食べられることができず、製造も禁止されていたほどです。 日本豆腐協会 大きさは現在の4倍で「豆腐百珍」などの書物があった。 さつま揚げは、弘化3年(1846年)頃の薩摩と琉球(沖縄)との交流を通して渡来した琉球料理の「チキアーギ」が元祖と言われます。 納豆については諸説あり、様々な種類がある。平安時代の漢字が当て嵌まるかは不明である。 弥生時代とする一説は考証に過ぎず確認が出来てない。 つまりは現在の納豆と同等のものではなかったかもしれないので憶測の明記は避ける。 江戸時代から販売されていたものが現在の納豆と同等だろうと思われる。 不味くて臭いなら売れない。ところが売れるなら舌の肥えた江戸庶民に通用した食材である。 平安時代には村上天皇が梅干しと昆布茶で病を治したという。他には菅原道真が梅を詠んだ短歌がある。 戦国時代は陣中食。 Wikipedia 心太(ところてん)奈良時代から。 季節物。 雛壇 金魚「木戸番」 現在に換算して60万円〜1万円〜20円。3貫〜500文〜1文。 桶に入れた金魚とガラス製の入れ物に入れた金魚がある。江戸時代にガラス製の金魚鉢の原型が作られた。 羽子板?文 熊手(おかめ付き)?文 谷中生姜?文 芋ヤツガシラ?文 菊1両〜3両 鏡餅?文 引きずり餅?文 芒(すすき)?文 お蚕様 門松 風鈴 ほおずき 食用も江戸時代からで浮世絵に描かれてる。 秋の七草 梅の花 タンポポ 放生会 亀4文 鰻 鳥雀 ヨモギ セリ ツクシ ノビル フキノトウ 鶯餅−秀長と秀吉の茶会で職人が作ったもの。 はまぐり−日本書紀と播磨国風土記に記されてる。 鰆(さわら) 御萩と牡丹餅、春は牡丹餅、秋は御萩 桜餅− 江戸向島の長命寺桜餅、1717年。山本新六が売り出した。江戸風桜餅と呼ばれる。 大阪の道明寺桜餅。1830〜44年。大阪上方風桜餅、京風桜餅と呼ばれる。 まくわうり ウド ホタルイカ トビウオ めばる タラノメ 茶葉 カツオ 赤飯 柏餅 タケノコ イワナ ラッキョウ クルマエビ サクランボ 梅酒 レンコン 桃 スイカ32文 とうもろこし ブドウ サンマ 茄子 月見団子 まつたけ 柿 干し柿 さといも 栗 ゴボウ サツマイモ 亥の子餅 室町時代まで白、赤、黄、胡麻。栗の5色。江戸時代は小豆の牡丹餅。 はくさい 小松菜 ホウレンソウ 長ネギ ニラ カブ 大根 春菊 タラ−干しだら 柚子 かぼちゃ おせち料理 七草粥 小豆粥 恵方巻 高野豆腐 納豆・豆腐・菜・辛子付きで8文 沢庵大根13文 鮪1匹167文 米1石4167文、1升1合100文 塩1石1534文 大福餅4文 草履13文 木綿反物600文 百目蝋燭200文 旅籠(中級)250文 歌舞伎(桟敷)290文 髪結い23文 風呂屋6文8文10文12問 煙草1g357文 下り物 醤油100文、銚子産60文 味噌1kg35文 酢 海苔1分金、武士のお中元のような品物である。昭和からの「高級海苔」との名称もそうした流れから引用されたのではないかと思われるが。 彼岸 牡丹餅 御萩 のり巻き 五目寿司 吉原 甘露梅 二日酔いの丸薬−袖の梅 竹村伊勢の巻せんべい 増田半次郎のつるべ蕎麦 同、最中の月 扇の地紙売り 蚊帳売り?文 たばこ売り「服部屋」 現在に換算して30本分80円。 花火線香売り?文 扇地紙売り?文 湯屋?文 2階にも風呂があった。 髪結床?文 こたつ?文 江戸時代に「こたつ」が作られ流行した。 古着 蘭学者の間で流行。 けだけもの屋 ももんじ屋 山奥屋 小山田与清「松屋筆記」こうした料理やが増えて江戸では火事も多発。不浄充満し祝融の怒りに哀れみ嘆いてることが書かれてる。 この「祝融」は中国の神話に登場する火の神を表す人物であるが、 日本の青森県弘前ねぷた祭には「三国志 祝融夫人決戦の図」が使われてるものがある。 注記:「ねぶた」と「ねぷた」など地域によって呼び名は数種類がある。 テレビニュースだけの知識だと「ねぶた」の表記だけと思ってしまう原因である。 王子稲荷では古くから農民が狐火で占うことから火事の魔除けなどがある。 江戸時代にはオランダ医学が盛んで肉料理のお店が増えたが火災の原因にもなっていた。 神の技かのように肉を食べた患者が回復したという記述がある。 御典医、藩医、町医者、 文化文政−15匁(1匁=100文)銀1分から1分2朱。 薬代は3日分で銀1分7日分で銀2分。往診料が銀1分2朱。駕籠代が銀2分(1里=4キロ) 着物が多く流行していたことから染料の原料である各種の植物は多用されていた。 茶器の価格については記載を省く。 吉原 現在の価格にして40万円。 他は100文。 江戸の震災や火事の折にはさらに安くなった。 黄表紙上中下巻24文 読本銀15〜24匁 細判錦絵2枚16文 草双紙18文 浮世絵27文 貸本屋は文化5年(1808年)の江戸では656軒あった。売値の6〜10分の1大店、武家屋敷、吉原などが得意先。 徳川吉宗、田沼意次、以降の松平定信の幕府1787年、11代将軍・徳川家斉の老中、水野忠邦は「寛政の改革」を施行。 質素倹約で様々な職業や黄表紙などが洒落本の出版が取り締まられた。 改め印制度が開始され、版下画は職人に渡す前に検閲にかけられ、 地本問屋組合が内容を確認した版画は「改」でもって幕府の検閲を受けたことを示す。 違反者は絶版命令と財産の半分を没収。手鎖50日と自宅謹慎などを課せられたのである。 見世物20文 駕籠 日本橋から吉原166文 甲冑?文 しころ 皮革 組紐 仏胴 前立て 星兜 筋兜 頭形兜 桃形兜 烏帽子 面具・頬当て 額当て 物売り声は美声でなければ売れないとされていた。 もえぎのかや〜 ひゃっこい〜、ひゃっこい きんぎょ〜や、きんぎょ〜 三国一の富士のあまざけ、あまざけやぁ、あまざけー 正月やあー、おしるこー えー、笹や笹、笹や笹竹(笹竹屋−煤払い) 壹本が十六文、ヘイ〜〜ありがたひ、半ぶんが八文、ヘイ〜〜ありがたひ、一ト切が四文、サア〜あがれ〜、うまふて大きい〜〜、稲りさま〜〜 江戸のお多福のおかめの顔は祭りや品物に使われたが大きくて顔が太いものが使われてる。現在では建築の際に奉られてる。 稲荷鮨屋台では人が被る狐の面の顔が看板に描かれてる。 福助は見世物小屋の人気者で後に丁稚奉公になった。 蜜柑を蒔く行事 吉原では「ほたけ」 神田鍛冶町で蜜柑を播いて子供達に拾わせる行事 浮世絵20文前後 風呂屋10文 髪結い28文 鰻丼100文 長屋の家賃(1ヶ月)1000文 表店2000文〜4000文 日本橋と京橋は五倍。 佃煮の由来 歴史 江戸時代、徳川家康は名主・森孫右衛門に摂津国の佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の腕の立つ漁師を江戸に呼び寄せるよう言い、 隅田川河口・石川島南側の干潟を埋め立てて住まわせた(東京都中央区佃島。 佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていた。 雑魚がたくさん獲れると、佃煮を大量に作り多く売り出すようになったといわれ、保存性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及し、 さらには参勤交代の武士が江戸の名物・土産物として各地に持ち帰ったため全国に広まったとされる。 なお、以上の説に対しては異説もある。 1858年(安政5年)に青柳才助が創始したとする説。 1862年(文久2年)に鮒屋佐吉が創始したとする説。 日本橋の伊勢屋太兵衛が創始したとする説。 大阪・住吉明神を江戸・佃島に住吉神社として分霊したが、その祭礼では雑魚を煮詰めたものを供えていた (醤油煮説と塩煮説がある)。このことから、住吉神社に雑魚を煮詰めたものを「佃煮」として供えたことに由来するという説。 1877年(明治10年)の西南戦争の時には、政府軍から軍用食として多量の佃煮製造が命じられた。 1894年(明治27年)の日清戦争でも、多量の佃煮製造が命じられ、多量生産が行われるようになった。 戦後、帰宅した兵士は戦場で食べた江戸前佃煮になじんでおり、これは一般家庭の副食となり日常食となっていった。 現在の佃煮の代表はイカナゴ佃煮など。 Wikipedia 肥料 値がついたのは正徳〜享保1711年〜1736年 町肥 二桶 一ヶ月三十駄年間三百六十6両 「素人包丁」に「鋤焼」の板とを鉄板にして様々な材料を料理する様子が書かれてるが、 「獣肉屋」が既に出回っている時代であり、 料理人や店主が「素人包丁」を参考にしてたわけでは無く、語源だけが引用されたのではないか。 豆腐は高く、庶民では手が届かない品物であった。 牛肉が店で扱われたのは後期である。 現在のような「すき焼き」とされる材料は庶民では無理な品物であったと思われる。 江戸時代には「うなぎ」は川にも泳いでいたようです。 時代劇で「岩魚」や「山女」の塩焼きなどの演出は、 山深い場所で虫刺されもあるし釣れ難いために無理があると思いますが。 銭を数十枚数百枚も数えるのが面倒で、どうなってるんだと思うが、どのような方法があるのだろうか?紐で通した長さによるのだろうか? 96枚を1貫とした話がある。 宝永通宝 十文銭。宝永5年1708年発行。宝永6年1709年廃止。 天保通宝 百文銭。80文の運用。 江戸時代の三貨制度 文銭1000枚で1貫。 小判−両替−丁銀−豆板銀−両替−文銭 大判(恩賞・もしくは金塊に相当) 小判 二分金 一分金 二朱金 一朱金 丁銀 豆板銀 五匁銀 一分銀 二朱銀 一朱銀 五両判 粗悪なため流通は短かった。天保8年8月(1837年)鋳造開始。安政3年10月末(1856年)通用停止。 |
すき焼き 鋤で焼いたことから語源があるが、現在のような牛肉ではなく、雁や鴨の肉である。 献上品にされてる雁の肉や狩が禁止されている雁を農民や庶民が食べるのは経緯が不明だが。 江戸は贅沢禁止令さえ通用しなかった。 「すき焼き」がどのように変貌したかのルーツを辿れば暮らしの密度と食文化が垣間見えるだろう。 「素人包丁」に「鋤焼」の板とを鉄板にして様々な材料を料理する様子が書かれてるが、現在の「すき焼き」とはまるで違います。 「獣肉」を扱う店が既に出回っている時代であり、 料理人や店主が「素人包丁」を参考にしてたわけでは無く、語源だけが引用されたのではないか。 豆腐は高く、庶民では手が届かない品物であった。 牛肉が店で扱われたのは後期である。 現在のような「すき焼き」とされる材料は庶民では無理な品物であったと思われる。 |
伊達家の支倉常長が担当した天正遺欧少年使節 スペイン、マドリードのエル・エスコリアル修道院に訪れたという記録が残ってる。 スペインでは無敵艦隊を擁しているが、 長崎の切支丹弾圧に抵抗できなかった背景は外交問題の思案による問題であろう。 湾岸から大砲を使って援護しても大部隊ではない。 当時の藩主は伊達政宗。伊達政宗自体は仏教の話が多い。 切支丹の分布は家臣や女子に多い。 政宗の正室の 愛姫の五郎八姫はキリシタンで徳川の松平忠輝に嫁いでいたが家康没後の改易により離縁してる。 政宗と常長の没後に支倉家は断絶した後に再興してる。 下手すれば伊達家が幕府に問い質され改易させられた可能性も出てくるはずであるが、そういう話は・・・無いようである。 高山右近、細川ガラシャ、小西行長、明石全登、黒田如水、大友宗麟の名だたる諸侯も切支丹だったとして有名である。 キリシタンである高山右近を前田利家が庇護していたが、後に追放令により国外追放されてる。 内藤如安と高山右近は追放されて他国では歓迎された様子で済んでるが、後に天草四郎らの原城で島原の乱。後に支倉家の当主は処刑されてる。 統制下でも処罰は激化してる。 南蛮寺が目立ってきた以降は寺は廃止された。仏教と政治による利権の柵もある。 対立構図の全てが陰謀に。疑惑を離間の計として邪魔者を淘汰していたなら戦が無い間でも一手とし熾烈を極めていたか。 万民が藩主に逆らうにしても相当な覚悟。なぜ他所の藩主に話が漏れないか。 一揆の策謀が横行してから、検地や見分がなされてるはずである。 素人の農民がにわか仕込みの訓練と武士の真似をさせられた一揆では勝敗は分かりきってるはずである。 一向一揆という元は本願寺による仏教が一揆に加担していたが、それは信長に対してである。であるからして他所の地域では一向宗は一揆を行えない。 一向宗の本多正信と正純は信長と同盟を組んでいた徳川家康の配下。堺衆の地域は後の本願寺。越前の御坊。配下の下間。隣接は雑賀衆の鈴木家。松永久秀。百地三太夫。 島左近と柳生や蒲生も近辺だが。 ルイス・フロイスと織田信長。徳川家康にも南蛮人がいた。 立場上難を逃れてる人は多い。 祖先から幼名まで仏門に関係がある戦国大名。群雄割拠といえど戦が無ければ便乗できない。 南蛮人は何しに日本へ来たのだろうか。 ローク帝国やムスリムやプロテスタントやオスマントルコ帝国などと激しい争いを繰り広げ要塞となった教会の数々。 戦ばかりしてる日本では南蛮人には何のメリットも無い。日本に駐留した経緯は情報集めが発端。貿易など二の次だろう。 南蛮の物が優れているのなら日本の物など必要が無いわけである。 長崎攻めは大規模というか過去に恩賞加増を得てる大名やその次代に後始末をさせたかのようである。 数々の名だたるキリシタン大名。東北から九州までの版図。 神仏の加護に頼る風習が故だろう。 有馬や大村などの大名にしても、強制的に改宗させるメリットはあったのだろうか。その周辺の大名は傍若無人ぶりを見過ごしていたか。 関が原の戦いや大阪の陣の怨恨は無さそうだが。 幕府の実権は凄まじいものがある。 なぜ悲劇にしかならないのか。 徳川家康治世の下、日光東照宮で大権現としたのも仏教の南光天海。 柳生宗矩や金地院崇伝を説き伏せるのは相当なものだ。 秀忠の治世においては、神社仏閣さえ厳しく統制し、外様大名は用済み。親族さえ用済み。領地さえ没収して幕府の直轄ぶりを発揮してる。 幕府が全てであり。仏教が切支丹を排除したというものではなさそうだ。 |
ツチノコ。 江戸時代に賑わったかはさておき。 『和漢三才図会』(わかんさんさいずえ)大坂の医師漢方医、寺島良安による。江戸時代中期正徳2年(1712年) 明の王圻による類書『三才図会』を範とした絵入りの百科事典の内容もある。 空想上のものや、荒唐無稽なものもある。これがツチノコに当てはまるかは定かではない。 「野槌蛇」の名称。 岐阜県飛騨縄文遺跡出土縄文時代の石器にツチノコに酷似する蛇型の石器。 長野県で出土した縄文土器の壺の縁にツチノコらしき姿が描かれている。 奈良時代の『古事記』、『日本書紀』にはカヤノヒメ神の別名であり野の神、主と書かれてある。 絵からすると極普通のヘビ。短くなく腹は膨れてない。 『今昔画図続百鬼』(こんじゃくがずぞくひゃっき)1779年(安永8年)鳥山石燕の妖怪画集。『画図百鬼夜行』の続編にも描かれてる。 黄表紙(きびょうし)は、江戸時代中期の1775年(安永4年)『妖怪仕内評判記』(ばけものしうちひょうばんき) 奇異雑談集。江戸初期の怪談集。1687年(貞享4)〜1573年(天正1)頃。6巻。 『沙石集』(しゃせきしゅう / させきしゅう)鎌倉時代中期、仏教説話集。十巻、説話150話前後。無住道暁が編纂。弘安2年(1279年〜1283年) 野槌は口だけの妖怪と書かれてる。 『古事記』や『日本書紀』では草の女神カヤノヒメの別名。奇形と解釈されてるようでもあるが定かではない。 上記の資料でツチノコを区別しようとするのは所詮無理である。 写本の一環や大衆の娯楽なら幕府が参考にした資料では無さそうである。縁起の悪いものを蔵に入れるわけがない。 ヘビやトカゲか。 捕食したものが腹に入っていて膨れてる場合。 死骸がガスを含むと腹が膨れてる場合。 案外そのようなものだろう。 未確認生物や新種にしておきたいとする学者もいるだろうから、それらについてはよくよく見定めることが肝要である。 懸賞金ブームなども。懸賞金の広告などからしても客寄せや村興しの口実。 未確認生物の本では日本の逸話などがろくに掲載されてない。 大昔から人々を惑わしてきたものでしかないが。 大昔からの迷信。 神社で奉られてる場合はさておき。 鬼や人魚についてなど逸話が多いのは神話から引用したため元が元だからだろう。 解釈が幕府に対する風刺という類もあったとされるが幕府から検閲されたのだろう。 人魚のミイラにしても各部のDNAが異なる。ということは寄せ集めの人形ということだろう。 |
蜜柑 植物学上の特徴 中国の温州にちなんでウンシュウミカンと命名されたが、温州原産ではなく日本の不知火海沿岸が原産と推定される。 農学博士の田中長三郎は文献調査および現地調査から鹿児島県長島(現鹿児島県出水郡長島町)がウンシュウミカンの原生地との説を唱えた。 鹿児島県長島は小ミカンが伝来した八代にも近く、戦国期以前は八代と同じく肥後国であったこと、 1936年に当地で推定樹齢300年の古木(太平洋戦争中に枯死)が発見されたことから、この説で疑いないとされるようになった。 発見された木は接ぎ木されており、最初の原木は400 - 500年前に発生したと推察される。 中国から伝わった柑橘の中から突然変異して生まれたとされ、親は明らかではないが、近年のゲノム解析の結果クネンボと構造が似ているとの研究がある。 ミカンの歴史−柑橘の伝来 柑橘の原種は3000万年前のインド東北部のアッサム地方近辺を発祥とし、様々な種に分化しながらミャンマー、タイ、中国等へ広まったとされる。 中国においては古くから栽培が行われており、戦国時代に完成したとされる文献『晏子春秋』には「橘化為枳」(橘、化して枳と為る。境遇によって元の性質が変化するという意)との故事が記されている 日本の様子が書かれた『魏志倭人伝』には(中国語省略)(生薑、橘、山椒、茗荷があるが、それらを食用とすることを知らない)と記されている。 日本の文献で最初に柑橘が登場するのは『古事記』『日本書紀』であり、 「垂仁天皇の命を受け常世の国に遣わされた田道間守が非時香菓(ときじくのかくのみ)の実と枝を持ち帰った(中略)非時香菓とは今の橘である」(日本書紀の訳)との記述がある。 ここでの「橘」はタチバナであるともダイダイであるとも小ミカン(キシュウミカン)であるとも言われており、定かではない。 その後も中国からキンカンやコウジ(ウスカワミカン)といった様々な柑橘が伝来したが、当時の柑橘は食用としてよりもむしろ薬用として用いられていた。 日本の「ミカン」 ミカンとして最初に日本に広まったのはキシュウミカンである。 中国との交易港として古くから栄えていた肥後国八代(現熊本県八代市)に中国浙江省から小ミカンが伝り、高田(こうだ)みかんとして栽培され肥後国司より朝廷にも献上されていた、 それが15 - 16世紀ごろ紀州有田(現和歌山県有田郡)に移植され一大産業に発展したことから「紀州」の名が付けられた。 また江戸時代の豪商である紀伊国屋文左衛門が、当時江戸で高騰していたミカンを紀州から運搬し富を得た伝説でも有名である(史実ではないとされる。 詳細は紀伊国屋文左衛門の項目を参照)。 また江戸時代初期、徳川家康が駿府城に隠居したとき、紀州からキシュウミカン(ホンミカン)が献上され、家康が植えたこの木が静岡地方のみかんの起源とされている。 静岡のみかんの起源には富士市(旧富士川町)の農夫が外国から移植した経緯もあり、家康が起源のみかんとは歴史も古く品種も異なる。 ウンシュウミカンは当初「長島蜜柑」「唐蜜柑」等と呼ばれていたが、種子を生じない性質から武士の世にあっては縁起が悪いとされ、ほとんど栽培されることはなかった。 しかし江戸時代後期よりその美味と種なしの利便性から栽培が行われるようになり、明治27年(1894年)頃から生産を増やして徐々にキシュウミカンに取って代わるようになった。 「温州蜜柑」との呼称が一般的になったのもこの頃である。 Wikipwdia 『魏志倭人伝』 蜜柑について書かれてるのは縄文時代頃の様子である。 江戸時代における蜜柑。 蜜柑を蒔く行事 吉原では「ほたけ」 神田鍛冶町で蜜柑を播いて子供達に拾わせる行事 旧暦小雪末候−橘初黄 古くから家紋にも使われてる。 食用には向かない。 古事記、日本書紀の非事香果の説がある。 紀伊国屋文左衛門 蜜柑の差額で儲けた話は史実ではないとされる。豪遊で散財した話があるかは不明である。儲けたなら他の商人にもいたと思われるが。 富岡八幡宮に金張りの3基の御輿を奉納したとされてる。 現在出版されてる本には唐突に紀伊国屋文左衛門の名前を書いてるものが多く、詳しく書かれてない。 |
忍者と隠密 実在したのか疑問がある。 時代劇で見るような理想の忍者ではない。 忍術はあったのかでは創作が多い。怨恨の差が激しいだけでも大名に利用されてしまうだけであるため創作の域を出ない。 両者は異なるが。 覆面は武士でも使われるが。 他言無用を守れるかでは重用できないであろう。 武士の枕元には刀。壁には槍があるため忍者は接近戦では戦えないだろう。 忍者の武具は軽量で小型。つまり武士や庶民でも使える小型の武器であり、忍者装束で武器を使う必要が無い。 忍者装束に鎖帷子でも音が出るし弓矢に弱い。 武器に塗る毒にしても知識などがなければ無理がある。古くからは弓矢が多用された合戦時代の塗る毒のものしか知識が無いだろうし。 武士や庶民など情報収集する者は多いので忍者の立場はそれほど無いのではと思われる。 伊賀・甲賀の里ではいくら訓練しても地の利や情勢情報が得意ではない者が多い。 服部半蔵でさえ大名である。1人でバサバサ倒すわけがない。また忍者衆が部下にいたとしても、服部半蔵だけに任せると、何をしてるか分からない者として他の大名達の嫉妬になるはずである。 柳生や僧侶のほうが幅広い情報収集に長けてる。つまり忍者に任せてない大名のほうが情報収集に長けてる。 伊達家黒脛巾組(くろはばきぐみ)は信憑性が高い。一部の資料にしか残されてない。伊達家部外の資料に残されてるのでは隠密の妨げになるからだ。 小荷駄隊も兼ねていた様だが足軽と同じ下級身分であることからなので、忍者というものとは無関係な任務まで行っていたのだろうと推測できるものである。 通常「何々組」というと藩の詰め所の集まりを示す物だが。 |
返し 城には石作りの城壁の下方に窓がついて開閉できるようになってる。鼠返しの兵士返しのようなものであるが。 城まで囲まれたら敗戦が濃厚なので、上ってきた兵士を落とすために石落としなどに使われるかは実際のところ実戦向きではない。野外配置のほうが効率が良い。鉄砲を通しても角度は無理がある。 |
祟り 大半は創作です。歌舞伎役者を庶民の内容のシリーズにしたり、戦国武将を祟りの内容のシリーズにしたり。そのためどの内容も同じです。だから丸裸に蛇の刑罰などどれも同じでしょう。 浮世絵が無ければ大半は幕府や藩の検閲で処分されたり、大戦で消失したのでしょう。 或いは藩の策略で敵方にとって都合の悪い流布として風刺が利用されていたかもしれません。 徳川吉宗、田沼意次、以降の松平定信の幕府1787年寛政の改革、質素倹約で様々な職業や黄表紙などが洒落本の出版が取り締まられた。 版画は「改」でもって幕府の検閲を受けたことを示す。 |
土着信仰 あまりに特殊で書いても意味が無さそうです。 |
時代劇とはいかに? 元はチャンバラ時代劇から印象付けられたものが大半を占めるが。 なにも戦国時代や江戸時代ではなくても良いわけである。そうした内容だと武器や争いごとばかりになってしまうからだ。 |
戦国時代の具足と兜 着て戦うには無理がある。高齢で特殊な兜だと重さで倒れてしまうので使えないのが史実だろう。本陣で勝敗を待つだけ。 |
コラム 人が死ななくて済む時代劇は。それともそうした考えは身を滅ぼすか虫が良すぎるか。 元気な日本。サムライジャパン。 刀で心の弱さを隠し横柄な武士では衰退していくでしょうし。 現代は武士が滅んだ町民の世の中ですし。 人を活かす剣「活人剣」というのも柳生新陰流などを扱った創作や一部の時代劇にありますが。 刀の背で叩くと刀が反り返ってしまうので使える方法ではありませんが。 1つがモデルでも限度があります。 時代劇というと「侍」。そればかりだと人間模様に限度があります。 合戦の戦後処理だと有名な人が亡くなった後なので人間模様は退屈でしょうし。 医学や職人などを題材にした時代劇もテレビドラマ化や映画化されてますが。 「一心太助」だと魚屋さんですし。 「北斎漫画」や「写楽」だと画家ですし。 「天下御免の向こう傷」と「旗本退屈男」 嵐寛寿郎や大河内伝次郎やマキノ映画が先駆けた「国定忠次」「忠臣蔵」「丹下左膳」「雲霧仁左衛門」「怪盗白頭巾」「鞍馬天狗」から「眠狂四郎」など。 「銭形平次」などの捕物などから多彩な時代劇が娯楽化しましたが。 時代劇にも何の職業を主人公にしてるかで人間模様の幅と系統があるものです。 |
毒味 運ばれた際には食事が冷えているという話だけが有名だが、全てがそうではないのでは。 参考にされた将軍家に関する1種類の書物たけなのか、数冊に及ぶのか歴史の本ではその明記が定かではない。 鍋物やお茶なら温かいままのはずである。 夏なら食事が冷めるはずも無い。 冬なら毒味に時間をかけなくても、食事が冷めてしまうものである。 毒味の三河武士は将軍家の以前の松平元康、後の徳川家康のお膝元の武士集団である。 つまり信用できない者には毒味さえ許されない仕組みにしていた。 |
田沼意次 大飢饉では失脚させられたとあるが民衆曰く田沼時代は良かったとする説もある。 |
戦国時代の逸品 蘭奢待 南蛮時計 九十九髪茄子 古天明平蜘蛛 「平蜘蛛茶釜」 静岡県浜松市西区舘山寺町の浜名湖舘山寺美術博物館には「平蜘蛛釜」と伝わる茶釜があり、その由来によれば、信貴山城跡を掘り起こした際にこの茶釜が出土しており、信長の手に渡り愛されたものだという。 松永久秀と親交のあった柳生家の家譜『玉栄拾遺』には、久秀が砕いた平蜘蛛は偽物で、本物は友である柳生松吟庵に譲ったという記述がある。 |
兵法書 二天一流「五輪書」を参考にした武将がいないのか定かではない。 兵法を重んじる者は立花宗茂に問うたほどであるが。立花宗茂は兵法さえ用いてないとしてる。 島左近さえ諸侯を退けて軍議で有力さを語るには計り知れぬものがある。 各地での他流試合では後に不審な死を遂げてる者も少なくないが一分は芝居物との区別が判明してないものもあるかもしれないが。 宮本武蔵が合戦に参加したのは数回。「五輪書」を書き上げた頃には既に戦乱の世は終わっていた。 他流が「五輪書」を参考にするはずも無い。 徳川家康や豊臣秀吉の出世と同等に「五輪書」を現代に例えて何か学べるとうたってるものは度が過ぎてるだけでしか無い。 戦国乱世を生き抜いてきた当時の門徒である弟子などが学ぶものであり、無縁な現代人には学べない代物だろう。 |
戦国時代の刑罰や祟り 諸説あるが不気味なものを調達するのは数からすると無理がある。 石田三成に同様の内容が書かれてる物がある。石田三成の役職は多忙なため無作為な行為を趣味にして暇を潰してる暇が無い。そのため創作である可能性が高い。 ヨーロッパで羽柴秀次の横暴な逸話とされてるものは創作である可能性が高い。 江戸時代には既に怪談物の浮世絵などがあった。 真壁氏幹の同門、斎藤伝鬼房は桜井霞之助を試合で討ち取った。後に怪異とされる噂が立つが実話かどうかは不明である。 他流から挑まれた試合であるため真壁氏幹の流派であろうと師の面子に関るので普通なら喧嘩両成敗であるが。 |
戦国時代には人質という制度 内通の手段としての人質は戦乱を生き延びるための1つの懐柔策であったのではと思われる。 これは捕縛された際の人質とは異なる。 かの徳川家康が松平元康の幼少の頃にも今川義元へ人質として送られており、 真田幸村(信繁)は元服の数年後に上杉景勝に人質として送られており、 黒田官兵衛さえ織田信長に幼少の頃の黒田長政を人質として送られており、 |
後に堅牢な築城は禁止する制度が行われ幕府方の多種に渡る改革により戦乱の慟哭は遠のいた。 仏教さえ重んじる人々がなぜ戦乱の世に明け暮れたのかは定かではない。 |
上杉謙信は毘沙門天を崇めた。 毛利元就は「摩利支天の旗」を旗印として用いた。山本勘助や前田利や楠木正成は摩利支天を崇めた。 楠木正成と上杉謙信は軍神としても後に有名であるが。 陰陽道もあるが定かではない。 神仏信仰と吉兆占いがあったのは平和を望む戦乱の時代ならでは。 よほど世の中の平和というものが絶望視されていたのではと。 甲斐親直こと甲斐宗運は天下を統一する者が現われるまでとされているが。 天下を統一する覇者の群れは百鬼夜行そのものでもあったため、なんともいえないが。 |
様々な逸話 生き延びた伝説。 将軍家での演舞の披露。 猛獣との武勇伝。 影武者説。 御落胤説。 これらに信憑性を得ることは無理だが当時の民衆らの錯綜そのものではないかと思われる。 幕府方においても、虚偽の申告や流布は嫌うところであるため、幕府隠密の調査により調べ上げられたのではと思われるが。 |
嫌がる武将 明智光秀の桔梗紋を嫌った武将たち。 織田 賤ヶ岳の七本槍と呼ばれるのを嫌った武将たち。 |
戦国の逸話には後世の作り話が多い。 天正元年(1573年)8月28日浅井長政が没。 後に薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)をした浅井長政の頭蓋骨を器にした宴席が開かれたとあるが、 神仏信仰をしてる武将らが行うものではないはずである。それらの行いを市姫が知ったらどうなるだろうかということでは武将らはただでは済むまい。 ましてや死臭がするものでは縁起が悪いはずである。 浅井長政と織田信長は市姫のことで縁が深かったが、 織田信長の家臣団の配下だった太田牛一の作、「信長公記」の一部は他の大名家が読めば織田信長に対する印象が噴出しそうな内容である。 咎められてないのは、それだけ織田信長に対して配慮されたものに仕上がってるのだろうか。 浅井長政がもう少し利口であれば自業自得に陥らずに済んだという教育ぶったものだろうか。 太田牛一は斯波義統、織田信長、丹羽長秀、豊臣秀吉、豊臣秀頼に仕えたとされるが。 |
織田信長エピソード 古くからは灰を投げる若い頃の信長が知られてるが。 またそれを諌める家臣。 |
豊臣秀頼エピソード 二条城での徳川家康と豊臣秀頼の緊張した会談を見守る役目を加藤清正が任をおこなった。 |
大名と浮世絵師の名前は授与制 葛飾北斎が弟子に名前を授与していたとされる。金に困れば使い古した名前を売っていたとされ困った弟子もいたとされるが。 豊臣秀吉が諸大名に豊臣姓を授与していたとされるが、多くの武将は豊臣の名を使わなかったとされる。 Wikipediaでは 豊臣氏 豊臣姓下賜一覧表 を参照の事。 |
時代劇に多い名前 兵庫 兵衛 ○○守 外記 主膳 ○之介 ○之丞 左衛門 ○馬 ○○斎 弾正 秀 |
幕府の裏方、柳生宗矩の人気は微妙? 剣術家としての柳生が人気で、人気も十兵衛。 幕府の政治を担っていたとされる柳生宗矩はいかほどなのか。 |
お餅の謎 昔の時代は百姓は稗・粟(ひえあわ)しか無くて米などは食べられなかったという話。 当時の百姓は米以外にも年貢を納めた話。 米も無いなら餅が食えないはずじゃないか?となってしまいますが、 これだけだと、まるで時代劇の原作ですし。 昔の時代は百姓は稗・粟(ひえあわ)しか無くて米などは食べられなかったという話は広まっただけの嘘話です。 当時の百姓は米以外にも年貢を納めるので稗も粟も年貢にあるはずです。 関係資料の一部からの学説だと信憑性は実際の少数の事実でも価値があるので。 時代劇は原作の内容が過剰であるほどなので。 話を元に戻しますが、 七輪に金網で餅という簡単な作り方というのは推測できますが、 ですが、「古来から縁起が重視された正月に餅つき」が基本だと、軟らかい餅のはずで、七輪の上の金網に乗せると穴から落ちてしまいます。 硬くなった餅などは数日間では保存食にならず黴も生えるので残飯かお供え物です。 現在において餅の袋は脱酸素にしてありますので開封したままにしておくと数日間で黴が生えます。 寒い季節に餅を作ってお店に運ぶ間に硬くなるが餅を販売する餅屋が出来たのは後のお話です。 江戸っ子は出来立てを楽しむ風習です。 |
大将首の鑑定の謎 髷・耳・鼻 首は顔が分かる大名。 大半の武将は元々敵国で対談した相手でも無いならお互い誰なのか知らないわけで。 さらには影武者がいれば大名なのかさえ鑑定が不明。 手柄欲しさに偽者かの見分は困難だった。 倒した足軽の数では報酬にならない。 侍大将 家老 大名 これらにつき、報酬はいかほどだったか?も勝利した大名家の資産によって様々でしょうし。 鎧と刀は大半が大量生産品で戦場で傷物になった品物なので、拾ってもお店では刀鍛冶から卸される新品に詳しく確かな鑑定がされていたので価値が無い。 お家断絶ほどの結果なら民間伝承では生存説だけが蔓延するだけで実際は不明。詮索するだけ労をこうする。 |
江戸絵画の謎 数々の露店が立ち並ぶ絵には客が殆ど描かれてません。 作業をする人と出入りする人が描かれてる場面が大半です。 |
戦国用語集 下剋上(げこくじょう) 世の中を支配するためには手段を選ばない意味。 謀反(むほん) 謀(はかりごと)で反旗を翻す意味。 家臣が企てたり陰謀説などがある。 離間(りかん) 目的の相手を元の士官先をほ辞めさせて離れさせる。 内通(ないつう) 他大名家との密談の意味。 不義密通(ふぎみっつう) 男女関係で不倫の意味。 人質(ひとじち) 元大名家の有力な武将の子などを幼少時から人質の意味で大名の支配下に置かれる身の上の意味。 輿入れ(こしいれ) 他家の大名などへの嫁入りの意味。 鉄砲三段撃ち 実際は書物にも書き記されてない。 忍(しのび) 忍者の意味。 手裏剣(しゅりけん) 苦無(くない) これらの飛び道具は忍者以外も使用していた。 束帯(そくたい) 主に公家などが着る正装。 具足(ぐそく) 兵士が着る甲冑。 将軍家(しょぅぐんけ) 足利幕府や徳川幕府などの意味。 奥州(おうしゅう) 陸奥国の別称。 畿内(きない) 大和国、河内国、山城国、摂津国、和泉国 近国(きんごく) 伊勢国、近江国、播磨国、尾張国、三河国、美濃国、備前国、美作国、但馬国、因幡国、丹波国、紀伊国、若狭国、丹後国、伊賀国、志摩国、淡路国 中国(ちゅうごく) 越前国、遠江国、駿河国、甲斐国、信濃国、加賀国、越中国、伯耆国、出雲国、備中国、備後国、阿波国、讃岐国、能登国、伊豆国、飛騨国 遠国(おんごく、えんごく) 武蔵国、上総国、下総国、常陸国、上野国、陸奥国、肥後国、相模国、下野国、出羽国、越後国、安芸国、周防国、伊予国、筑前国、筑後国、豊前国、豊後国、肥前国、安房国、佐渡国、長門国、石見国、土佐国、日向国、大隅国、薩摩国、壱岐国、対馬国、隠岐国 大国(たいこく、たいごく)とは、律令国の等級区分。 延喜式による。 大和国 河内国 伊勢国 武蔵国 上総国(親王任国) 下総国 常陸国(親王任国) 近江国 上野国(親王任国) 陸奥国 越前国 播磨国 肥後国 上国(じょうこく、じょうごく)とは、律令国の等級区分の一つ。 延喜式による。 山城国 摂津国 尾張国 三河国 遠江国 駿河国 甲斐国 相模国 美濃国 信濃国 下野国 出羽国 加賀国 越中国 越後国 丹波国 但馬国 因幡国 伯耆国 出雲国 美作国 備前国 備中国 備後国 安芸国 周防国 紀伊国 阿波国 讃岐国 伊予国 豊前国 豊後国 筑前国 筑後国 肥前国 中国(ちゅうごく)とは、律令国の等級区分の一つ。 国力基準 延喜式によれば、国力によって中国に分類される国は11ヶ国ある。 安房国 若狭国 能登国 佐渡国 丹後国 石見国 長門国 土佐国 日向国 大隅国 薩摩国 距離基準 畿内からの距離によって中国に分類される国は16ヶ国ある。 遠江国 駿河国 伊豆国 甲斐国 飛騨国 信濃国 越前国 加賀国 能登国 越中国 伯耆国 出雲国 備中国 備後国 阿波国 讃岐国 下国(げこく)とは、律令国の等級区分の一つ。小国(おぐに)とも言う。 延喜式による。 和泉国 伊賀国 志摩国(半島国) 伊豆国(半島国) 飛騨国 隠岐国(島国) 淡路国(島国) 壱岐国(島国) 対馬国(島国) |
江戸時代の寿司・鮨の「わさび」実は抗菌作用が追い付かず町医者では寿司は下痢の原因だった? 「寿司が不味い」というのは当時の文献に記されてる。その後のことについては野暮なので明記されてるものは無いが。 現在の寿司はわさびの量も控えて鼻にツーンとしないように工夫されてる。 外国だとパンの黴が病気の原因などもあったが抗菌作用のために西洋わさびのホースラディッシュはパン作りに使用されてない。 |
加藤清正の虎退治は本当は黒田長政の家臣の逸話。 黒田長政二十四騎の井口吉次が朝鮮出兵での虎斬りの異名を持つ。 動物の虎。 虎の登場は「三國志」で有名。 明は現在における中華人民共和国で「三國志」の地図とほぼ同じ。 その後、国に蔓延していた虎がどう駆逐されたかの文献は日本では知られてない。 黒田長政家臣 井口吉次 宝蔵院流槍術 赤備え 黒田長政家臣 菅正利 新陰流 赤備え |
大坂の陣の冬と夏は戦場だけではなかった。 徳川方の九州勢の島津忠恒は関ヶ原を突破した島津義弘の子で島津家の当主だが冬と夏は参陣できず。 他の藩も合戦には参加せず何かしてたらしい。 東北と九州の藩は大坂から一番遠いので疲れた兵では役に立たないので大半が呼ばれてない。 |
真田丸の正面の徳川方は前田利常の陣。 |
陣形 大江維時による。 横陣、魚鱗、鶴翼、雁行、彎月(偃月)、鋒矢、衡軛、長蛇、方円、車掛、丸備 |
「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」の俳句を残し、その後焼き討ちで焼死した僧侶。 快川紹喜。文亀2年(1502年) - 天正10年4月3日(1582年4月25日) 寺の焼き討ちと言う方法は戦国時代では常用手段。 しかし皮肉なことに知人に残した僧侶の俳句が自ずからの死の予言になってました。 織田信長の甲州征伐(武田征伐) 年月日:1582年2月3日 - 3月11日 織田信忠 vs 武田勝頼 この頃戦いで領内が混乱。 天正10年6月2日(1582年6月21日)に織田信長が死亡。 運が悪い僧侶です。 |
口は禍の元という皮肉。 家臣が勝手なことをすると駄目な世界のようです。 宝蔵院流槍術の武将は粗暴な武将が多い。 反射条件の神経が発達してるせいなのではという推測が成り立つが。 宝蔵院の僧侶の教えではない。 宝蔵院流は槍をどう扱うかを考えで槍を振うものではないという教えがある。 武将の世界には「口実」が災いの原因となることが多い。 可児才蔵を歳と言った長刀持ちの部下は長刀で斬られたそうです。なんのジョークなんでしょうね・・・。 織田信長家臣 可児才蔵 宝蔵院流槍術 井口吉次の家臣が「暇乞い」で休暇を得ようとすると牢屋行き。 責任者である大将は家臣がどこで何をしてるか分からないと困るためか。 嫌いな家臣を口実を理由に虐めていたのではと。 黒田長政家臣 井口吉次 宝蔵院流槍術 赤備え |
伊達政宗の弟、伊達小次郎は兄の政宗に斬られてない? 政宗の母親の義姫・または保春院が政宗に毒を飲ませたという説があるが、 文献は後の時代の江戸時代の書物『治家記録』しかない。 現在の東京都あきる野市横沢にある大悲願寺の古文書では、同寺の住職となった秀雄は伊達輝宗の末子とされており、これが伊達政道であるともされている。 それが事実であると、寛永19年7月26日(1642年)8月21日に没している。 伊達輝宗 系譜[ 正室:義姫(最上義守の娘。保春院) 伊達政宗 伊達政道(小次郎) 千子姫 女子 妾:不詳 秀雄(大悲願寺15世住職、江戸中野宝仙寺14世法印) 養女:彦姫(伊達晴宗の四女。蘆名盛興室→蘆名盛隆室。) 出典:Wikipediaより。 |
『信長公記』には、天正2年(1574年)の正月、内輪の宴席において薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にした義景・久政・長政の首級を御肴として白木の台に据え置き、皆で謡い遊び酒宴を催したとある。 『信長公記』全16巻(16冊)著者は信長旧臣の太田牛一。 生誕 大永7年(1527年) 死没 慶長18年(1613年) 主君 斯波義統、柴田勝家、織田信長、丹羽長秀、丹羽長重、豊臣秀吉、豊臣秀頼 出典:Wikipediaより。 自害してるものでは大将首を取った「首級」とは言えない。 正月祝いで長政親子もという意味かは不明。 正月祝いに敵将の髑髏で花見をしていては縁起が悪いはずである。 民間伝承の作り話かは不明。 江戸時代 多くの娯楽作品では信長が倒した浅井長政の頭部の髑髏を盃にして酒を飲んだりするシーンが描かれてる。 |
奇行 織田信長は死没した父・信秀の位牌に灰を投げつけた。 前田慶次郎利益 前田利家を冷たい風呂に入れて驚かした。 馬の松風とともにのちに出奔。 大根のようにむさいが噛めば噛むほど味のある男と売り込み上杉家の直江兼続に居候。 江戸時代後期の随筆集「翁草」 江戸時代の書物に書かれてる内容は信憑性は薄いとされてる。 発覚したらすぐに去るという手際の良さは落語のようなパターンだが。 馬上から尻を出してコケにしたという話はない。 浪人時代 穀蔵院飄戸斎(こくぞういん ひょっとこさい) 穀蔵院忽之斎(こくぞういん ひょつとさい) 龍砕軒不便斎(りゅうさいけん ふべんさい) 「似生」と号したのは連歌会にて。 ゲームソフトなどの武将キャラクター前田慶次郎利益は武力が一番高い数値を誇る。 「三方ヶ原の戦い」で逃げ帰った徳川家康・・・糞が出たのを家臣に知られたとき味噌だと言ったことが書かれた書物は存在しない。 内容が類似してるのは三河後風土記の一言坂の戦い後の話。 著者不詳。全45巻 42巻本『改正三河後風土記』 50巻本『三河後風土記正説大全』 どうも江戸時代の書物にはこういう落語のような話があるが。 木下藤吉郎(秀吉) 信長の草履を温めていた。 家臣の勝手な行動なので本来は咎められる内容である。 立志伝という側面での人物大辞典相当のものにはこの逸話が明記されてることが多い。 石田三成 天正15年(1587年)、大坂城で開かれた茶会にて大谷吉継の膿が落ちた茶を飲んでさらにもう一杯所望したという。 大谷吉継の後から茶碗が回ってくる他の出席者は皆が嫌がったらしい。 この逸話が石田三成と大谷吉継の友情エピソードとの印象だが娯楽作品では描かれてないことが多い。 病人を治せない大勢の大名が集まって呑気に茶会とは滑稽だ。 |
罪人は生きたまま藩の武将が処断するというのは戦国時代では当たり前です。 俗にいう「刀の錆」 |
名武将の楠木正成は「京都は守りが難しい」という説が残ってる。 将軍足利家滅亡。足利義輝は剣豪に学んだ剣術だが。足利義昭の頃の細川・和田・一色・朝倉・本願寺などは大勢力だったが連合軍の弱さ。 織田信長が滞在していた本能寺。 どれも京都での出来事である。 将軍家は今川・上杉・武田などの上楽が1つも達成できなかった。 何から何まで将軍足利家は不運。 武家の末裔の衰退を意味していた。 一方は武家の子孫で戦国の世において文化人の平和ボケ。一方は戦争に特化した部隊。これじゃ戦いにならないわけです。 |
本能寺の織田信長の生死は誰も確認しておらず不明。 本能寺は火に包まれ灰しか残らなかったため織田信長の死体は見つけられなかったとされる。 火が発生すれば逃げる者が続出するため明智家の配下は逃げる者を斬ったはずである。 本能寺の僧侶などが死んだという話は残ってるが死んだ僧侶の名前も明記されてない話が後世の資料に多い。 本能寺系列の寺院に死んだ僧侶達の名前が明記されているかまでも大半の資料では不明である。 大坂の陣後の真田幸村。 これについても生死は不明である。 合戦中での負け組は遺骸を戦場にさらすか敗走または捕縛である。 首級を取ったと報告したものは多いが。そのうちの1人は手柄として認められなかったが真田幸村の墓まで作った話がある。 真田幸村が死ぬなら戦国の習わしとして切腹で殉死する家臣も多いはずである。 勝手に死ねば徳川の残党が死体を荒らすだろうというのは戦国では予測できる内容であったはず。 大坂方の寺院なら豊臣家に縁が深いので語られずに処理した可能性もあると推定できるが。 何があったかを後世に残るようにせず語らない寺院というものは昔からあったが。 徳川で確認できるのは兄の真田信之や武将になって大坂の陣に参陣していたその子達である。 |
豊臣秀吉の子という逸話がある武将は多いが後世の作り話。 |
傷を負わなかったという話の武将は多い。 とくに大将などは傷を負ったら家臣を統率できなくなるので隠居。 矢や鉄砲で傷を負った武将の話は戦国や三國志でも多い。 三國志では夏侯惇の矢の傷は有名だが甘寧も矢の傷を負った。 |
戦国のデタラメ話は後世では数多い。事実確認では不明瞭な話がモデルとなってる傾向である。 子ではない説。 生存説。 茶器が偽物という話はない。 |
赤備え 山県昌景も武田家。 井伊直正も武田家で徳川家の家臣となった。 真田幸村も武田家だが真田昌幸が大名。 総じて武田家の赤備えが有名。 他の武家で赤備えが常用された意味は特別な部隊という意味で配備されたもので武勲に秀でた猛将に多い。 赤井直正 天正3年(1575年)10月丹波攻略の明智光秀軍を囲んであと一歩で明智光秀を死に追いやり勝利していた猛将。 天正6年(1578年)3月、赤井直正は50歳で病死。 1982年に明智光秀が織田信長に対して謀反。 なんと皮肉なものである。黒田長政家臣 黒田長政家臣 井口吉次 宝蔵院流槍術 赤備え 黒田長政家臣 菅正利 新陰流 赤備え 新陰流や宝蔵院流槍術などが名声を得た背景もこういう理由にある。 他の流派の武術も採用されていたが。 |
稲姫 徳川家の名将、本多忠勝の娘。 真田信之の妻。 真田信之は息子らと徳川方の東軍側についた。 真田家を懐柔させる戦略結婚。真田信之は真田家の家名存続と安泰と解していた。 しかし後に前々から予測していた真田家と真田家の戦いの事態が発生したのである。 徳川家は「大坂の陣」では西軍の大坂方の身内の始末を東軍の徳川方にいた関係者に処断を任せる皮肉な手段をとっていた。 その方法でもって徳川家の忠臣たるるかの証としていた。 真田幸村は若武者だからキャラクターデザインでは人気。 ただし当時の戦国武将というものは髭があるのが当たり前。 若武者の真田幸村ばかりのキャラクターデザインの印象の商品広告紛いに騙された人は多いだろう。 ゲームソフトの真田は弱いし武将が少ないし海津城の一角だけで国力が無い。 コーエーの歴史シュミレーションゲーム「信長の野望」シリーズでは織田家と徳川家は毎シリーズで特化してるため数値上の美化と勢力図の版図から配された武将数では差がある。 「信長の野望 創造」以前のシリーズは「関ヶ原の戦い」と「大坂の陣」には向いてないシステムであったため、それらのシナリオがない。 徳川家康と本多忠勝という武力・知力のタッグの海津城の戦いに困るが。 武田家家臣の井伊直正も武田家滅亡後は徳川郡の配下。 真田家は武将の人数と国力が足りない憂き目に遭う。 真田幸村は知力での戦いが徳川の武将の知力に通用しないので真田昌幸の知力で時間稼ぎするしか方法が無い。 真田家プレイは「結局苦労する」という実感しか得られない。 |
地名は武将から名づけられた。 有楽町。東京都千代田区。織田有楽斎から。 半蔵門。東京都千代田区麹町。服部半蔵から。 |
実在したか不明の「果心居士」 果心居士には奈良県大和の松永久秀が会ったことがあり幻を見せてもらったという逸話がある。 当時の芥子の麻薬を使用したかは不明。 織田信長、豊臣秀吉、明智光秀も果心居士に会って幻術を見たという逸話がある。 にしては身分が当時の権力者。 有名な茶人や僧侶からの紹介が無ければ参じないようだが。 いくつかの娯楽作品では仙人や忍者の棟梁のような扱いがされてる。 |
本能寺の変では周辺が灰になったので織田信長の死体は見つからなかったと明記されてる。 信長生存説には程遠いが娯楽作品にはある。 信長が1982年前に死亡していた説は少ない。 |
大名が死亡したという流言は民を惑わせて民の心が離反してしまい、尚且つ敵国から戦争の好機と誤解されるため不用意な策はできないはずである。 |
武田甲賀くのいち棟梁、望月千代女。 伊賀忍者と違い甲賀忍者は主君を持つ。 巫女は神社の神事以外は暇であるため活動しやすい。 男だと怪しまれるが女だと男から情報を入手する方法でも都合が良い。 同業者でなければ情報が得られない内容が多い。 武田信繁の長男、武田義勝。後の望月信頼に嫁ぐ。 上忍の甲賀忍者の甲賀五十三家は望月が筆頭。 各大名家の所属が多い。 情勢によっては他の大名家に所属していた甲賀忍者と甲賀くのいちのほうが情報収集が上回っていた可能性もありえる。 甲斐・信濃の巫女の統帥「甲斐信濃二国巫女頭領」を任され、「歩き巫女」の養成を行うため、信州小県郡祢津村(現長野県東御市祢津)の古御館に「甲斐信濃巫女道」の修練道場を開いた。 巫女達は「ののう」という呼称。 孤児や捨て子となった少女達数百人で200 - 300人と推測されてる。 巫女の修行の呪術、祈祷。主に戦国時代では天候を予言する役目を若い娘などの女がしていた。 忍術、護身術は限界があるので敵方に情報が漏れないよう封じるには遺骸の痕跡も残らないよう滝や海などで身投げして自分の身を処すると思われる。 男性相手には性行を兼ねて情報収集する方法だが性の技の能力ということではない。 裃姿の武士にとっては男を誘う女など曲者・狼藉者に相当するので接近は無理と思われる。 |
伊賀忍者 甲賀忍者と違い伊賀忍者は主君は持たない。 裏切者は抜忍として成敗する掟がある。 |
■ 日本は侍や忍者の子孫が多いからね。舐めてるんでしょうか。 金の力で情報を集める必要がありません。 アメリカの忍者映画(NINJA MOVIE)からすると日本の昔の忍者の棟梁の種類を知らない人が多いのでは? コスプレやフィギュアやグッズで満足ですか? NINJA OTAKUは忍者の資料を全部調べてしっかり忍者映画を作ってください。 忍者は国人という村一帯の農民が多いので今でいう村民や市民のようなものです。武器のモデルは大半が農具でした。 戦国時代は一族の風潮を重んじるため「抜け忍」には罰則の風潮がありますが、 実際は自由で利点がありますしケースバイケースでしょう。 伊賀出身の服部 半蔵が「伊賀の乱」を止められなかったのはなぜか?という疑問もあります。 伊賀を攻めた織田は徳川と同盟だったので結局は情けが無かったということです。 織田 信長は侍、農民、僧侶、忍者など全ての職業を「撫で斬り」(Nadegiri)にしてましたので、 どの職業でも問答無用で切り殺していたんですよ。 忍者の種類を英文にしておけば、アメリカではわかりやすいでしょう。 アメリカで日本の歴史の戦国ジャンルの雑誌とか発売されてますか? 中国のアンティークと勘違いした人はいませんか? 「戦国」は(SENGOKU)で戦いの国という時代を意味するものです。 軍団制度というのはアメリカならメジャーリーグのチーム対抗戦のようなものです。 服部 半蔵(Hattori Hanzo) 伊賀(IGA) 徳川(tokugawa)服部半蔵は忍者という役目の娯楽作品が多いが、史実は武家の武士。 百地 丹波(Momochi tanba) 伊賀(IGA) 百地 三大夫(Momochi sandayu) 伊賀(IGA) 望月千代女(Mochizuki chiyome) 武田・甲賀(Takada kouga) 風魔 小太郎(Fuma kotaro) 北条・風魔(Hojo fuma) 伊達黒脛巾組(Date kurohabakigumi) or (Date kurohabaki team) or (Date Black habaki team)この説は疑問視されてる。 藤林 長門守正保(Fuzibayashi nagatonokami masayasu) 伊賀崎 道順(Igazaki doujun) 伊賀(IGA) 加藤 段蔵(Kato danzo)上杉家。武田家。 etc... アメリカの映画産業は日本の侍や忍者を中国人に演技させるんですか?バカか。とならないように。 日本ではあまり知られてないようですが中国や韓国やフィリピンにも昔は忍者がいたそうです。 甘っちょろい歴女では知らなかったようですな。 これでアメリカの映画産業が忍者映画を製作しても大丈夫ですね。 |
柳生新陰流 足の小指と親指を宙に上げて立てる作法。 刀を持つ指を小指から中指まで三本しっかり握る作法。「龍ノ口」という。 |
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