描き直し、改修・増補で60年

『国語漢文参考図録』〜『新国語図録』で70万7千おまけ


 前回紹介した『新訂 国語漢文学修参考図鑑』の中で書かれた、「類書の二三」の一つと思われる『改修 国語漢文参考図録』(右文書院)が古本屋から届く。


『改修 国語漢文参考図録』(以下『改修』)


 届いたのは昭和11年3月1日発行の11版(昭和9年6月5日改修版の増刷)である。
 古書目録を見るといくつか版がある。何がどう変わっているかは現物にあたるしか無いので、別な本屋からも一冊取り寄せる。


『改修増補 国語漢文参図録』(以下『増補』)

 「増補」版は昭和15年4月20日発行(12年2月25日増補版発行)の50版である。
 「改修」から「増補」になるにあたり、廃藩置県以前の国名、文語・口語の動詞/助動詞活用形、日本文学略年表が加わえられている。「兵器生活」のネタとして紹介して面白いモノではない。
 と云うわけで、以下「改修」「増補」を区別する必要がない場合は「図録」と表記する。

 「図録」共通の「序」を見てみよう。例によって縦書きをヨコにし、漢字仮名遣い等改めている。


 百聞に勝るという、その一見もこれを教授の上に移して見れば、国漢科、歴史科等に出て来る動植物器具等の一切を悉く教場に持ち込むことは出来ないという所に難点がある。ここに於いて図解の応用が大切になって来る。今の科学の進歩は、写真と印刷の至便を来たさしめているから、広い意味での図解は、極めて有効に使用されるのである。
 昔の和漢三才図絵(ママ)のおぼつかない図などでも、いかに学ぶものを益したかを思えば、今日の教職にあるものも、又学ぶものも、いかに科学文明の進歩に感謝すべきであろうか。国語でも、歴史でも、口から耳への方法のみでは、十分の教授は出来ない。目に依る教授の便を知りながらも、資料教具の不足の為に迂遠不十分な教授に満足させられている教授者も少なくないと思う。
 小野教孝君の国語漢文参考図録は、蓋しこの点に於いて教育界の不備を補う為に著されたものである。絵画と写真と、それに精巧な印刷とを以てした本書は、今日の教授者の悩みと、生徒の労苦を除去し、その上に知識を確実ならしめる上に貢献する所が多大であると信じる。
 小野君は大学に於いては、国語漢文を専攻し画壇の大家に就いては絵画を学んだ人であり、又現に中等学校の国語教師の任に当たっている人である。この人にしてこの著ある。洵にその人を得たもので、本書の我が教育界の歓迎を受けて大貢献をなし得べきことは余の信じて疑わない所である。
昭和九年五月
東京帝国大学教授
文学博士 藤村作

 今も本屋さんに置いてある『定本 新国語図録』(小野教孝著、共文社、以下『定本』)の序を書いている藤村作が一文を寄せている(こちらがオリジナルになるわけだ)。文の内容は似たようなものだが、漢字が多い分格調高く感じられる。「定本」の肩書き「東京大学名誉教授」が「東京帝国大学教授」なのも有難味を覚える。
 戦後では「荒木十畝画伯について」とあるのが単に「画壇の大家に就いて」と記されているのは、名前を出すのが憚られた事情があったのだろうか?
 中身は『新訂 国語漢文参考図鑑』(以下『図鑑』)と似たり寄ったりであるが、


中古女装着用次第

 男女ともに装束「着装次第」があるなど、総じてこちらの方が詳しく見える。袴を着ける前から描いてあれば完璧なのだが、教育上よろしく無いのだろう。


 「古式」「現代」ともに描かれた「鳳輦」はこんな感じだ。


古式



「現代の鳳輦」

 「古式」には担ぎ手が描かれ、「現代」のものは写真である。
 前回は気づかなかったが、改めて良く見れば屋根に鳳凰が載っているので、「鳳輦」と称するのは間違いとは云えないのに気づく。

 現代の礼服と、各種の被り物の図。

 大礼服、デコルテのとなりに股旅者、蓑笠スタイルの画があるのが面白い。
 髪型、被り物(『ナポレオン帽』まである)などこちらの方が多く収録されている。

 著者による「例言」もついている。

 例言
 一、本図録は曩に国漢文科の学習上、直観教授の資料に供せんが為に編纂せる図録の不備なる点あるに鑑み、資料を撰び欠を補い改修発行せし所のものなり。

 一、此度採録したる図は各中等学校に使用せられつつある国漢教科書三十数種及び教材となるべき中古以来の諸書中より渉猟擢出せる物名凡そ一万余を本とし、(一)人々の熟知すべしと思わるるもの、(二)描き出し難きもの、(三)形状の不明なるもの、(四)想像又は不完全なる図を許さざる精巧緻密なる機械器具等は之を除き、(一)人々のややもすれば気づかざるもの、(二)故実によるものにしてその研究資料の得難きもの、(三)同種類にても必要と認めたるもの、(四)参考資料として必要なりと認めらるるもの 以上筆者自らその実物に徴し、不明なるものは権威ある書籍とその道々の大家の指導とにまち力めて之を図示せり。

 一、使用者の便をはかり、初めに当たりて略目次を、更に図後には索引を付したるも、索引使用の際には注意書を一読するを要す。

 一、編纂に当たりて、先輩朋友諸彦の多大なる御援助を蒙りしことを謝すると共に、監修せられし藤村先生はもとより、史料編纂官山本信哉博士、風俗研究会長江馬務両先生の特別なる御指導の賜あることに著者の深く感銘する所、併せて今後大方の御指教を得ば亦以て望外の仕合せとす。
 昭和九年五月
 著者識

 話は変わるが、先に世に出た「図鑑」について、『あきた』(昭和40年4月号)と云う冊子に、版元の開體ー社長のインタビュー記事が掲載されているのを見つけたのだが(http://common3.pref.akita.lg.jp/koholib/search/html/035/035_050_002.html)、そこには「一部二十五銭でしたが、五銭割引いて売ってなお十銭儲かるといった具合で、十万部以上」売れ、「三千五百円ほどで自分の家を」建てたとある。刷数の多さ(『新訂』の時点で320版)だけでなく、実際に売れて少なくとも版元は潤ったのである(その一方で考案者を『ある英語の先生』としている)。

 その「図鑑」の「新訂に際して」では、最初の版を作る際に「国語漢文それぞれ数種」を参照して「必要図約八百」を選び、今回の新訂では「約一千五百」に増やしていると記されているのだが、後発の「図録」は教科書「三十数種」プラス「中古以来の諸書」にある事項「一万余」から図を選んでいると、その材料の多さを誇らしげに綴っている(ただし何件収録したかの記述はない)。
 さらには史料編纂官、風俗研究会長の指導も受けていることを明かし、東京帝大教授の「序」まで寄せてもらって権威づけをしている。
 「図鑑」よりも詳しい図、「図鑑」には無い図も載せ、「重色」「裂地」「絵画」と見た目華やかなページを入れて差別化を図っているのだ。


「裂地」の一部

 それだけではない。白黒の写真版で「仏像」なども掲載し、「図鑑」を圧倒すべく「図録」が編纂された様子が伺えるのだ。


仏像ではないが「平和女神コロンビヤ」


 「四神」など想像上の動物も色刷りで載せてある。


白虎・青龍・玄武・朱雀


 新訂の「図鑑」には、通俗軍事の特設ページが設けられていて、その面白さで前回ネタにしたわけだが、「改修」はそこまで時局におもねってはいない。軍艦はあくまで舟の一部として掲載されており、軍用機含め航空機の類は載っていないのである。


舟のページ

 左上から「戦闘艦(伊勢)、「巡洋艦」(加古)、「潜水艦」(伊号)、「汽船」(浅間丸)ときて、航空母艦はない。これも含め図版の内容は昭和15年刊の「増補」になっても殆ど変わらない。新訂「図鑑」に見られた通俗軍事ページの増強は、あくまでも編者・版元独自の工夫と見るべきなのだろう。
 こうなると、昭和16年の「図鑑」新訂もまた「図録」への対抗措置である図式が見えてくる。
 さきにあげた「図録」例言には、「曩に国漢文科の学習上、直観教授の資料に供せんが為に編纂せる図録の不備なる点あるに鑑み、」の一文がある。「改修」の奥付は「昭和九年五月三十日印刷」「昭和九年六月五日発行」で始まっているので、これはライバルの「図鑑」を指しているのだろうと思ったのだが、あとで届いた「増補」奥付を見ると、「昭和四年六月十日印刷」「昭和九年六月五日改修発行」とあり、「改修される前の『図録』」の存在が確実になってしまう。

 改修前の「図録」の存在は、ネット検索でたちどころに明らかになる。「図録」をネタにする以上スットボケるわけには行かない。問題は現物が青森県立図書館にあると云う所だが、新幹線を使えば朝に東京を出て昼過ぎには青森には着ける。カネと時間だけで解決する話ぢゃあないか。
 と云うわけで新青森駅に出、そこからタクシーを2千円ちょいばかし飛ばして(駅から遠いのが難点だ)県立図書館に行く。


青森県立図書館

 千円たらずの「図鑑」をネタ化するにあたり、なんとなく現行の国語便覧の類を買い込み、その一冊がたまたま戦前に出ていたものを引き継いだ事を知ってしまったがために「図録」を買い、その最初期の版本まで見に行くハメに陥ってしまった。
 「本は本を呼ぶ」なあ…としみじみ思う(笑)。

 モノがモノなので、禁帯出なのは当然、禁複写も止むを得ないと腹は括っていたのだが、参考図書室に拘禁される事もなく、複写もセルフで行うことが出来る扱い―さすがに貸し出しはしない―に拍子抜けしてしまう。しかしはるばる出張った緊張で表紙をコピーし忘れたので、この下に載せるべき表紙画像はありません(涙)。

 ノートを見返すと、現物は「昭和四年十月五日六版発行」で、「御審査用見本」の印がある。また「工藤祐○(一文字不明)殿寄贈」「工藤文庫」の印もある。調べてみると「元柴田女子高等学校長の工藤祐司氏(1887-1984)より寄贈」された一冊のようだ。
 要はウチの図録を使って下さい、と版元が寄贈したものである。採用されたかどうかは調べようがないが、裏表紙にはご子息のものと思われる記名が三つもあり、「御審査用見本」の文字がエンピツでラクガキされているなど、それなりに「活用」はされたようだ。

 この「図録」(以下『旧版図録』)での例言は以下の通り。

 例言
 一、本図録は、国漢文科の学習上、直観教授の資料に供せんが為に編纂せるものなり。

 一、採録したる図は中等各種の学校に使用せられつつある国漢の教科書十数種より擢出せる物名凡そ八千余を本として左の如き条件を以て取捨し、二千百数十の名称を図示し得たり。

 (1)採録せざるものは、(一)人々の熟知せるものならんと思わるるもの、(二)描写するを得難きもの、(三)名称に対して形状の不明なるもの、(四)想像又は不完全なる図を許さざる精巧緻密なる機械類の如きもの、(五)同種類にして代表的一例にて足るべしと思わるるものは、その代表物以外のもの。

 (2)採録したるものは、(一)一般人のややもすれば気づかざるもの、(二)類似のものにて比較せんとする上に必要なりと認めたるもの、(三)故実によるものにしてその研究資料の得難きもの、(四)同種類にても必要と認めたるもの、(五)教科書中に見えざるものなりとも参考上必要なりと認めらるるもの、(六)色彩そのもの、及び色彩によるもの、(但し第二頁の図の如きは三色版を利用したるを以て原色を失いたるは編者の甚だ遺憾とする所にして同時に大方に対して陳謝する次第なり)

 一、斯くて編し了れる図き、印刷上の都合に由り蕪雑の観無しとせず、依りて図後に五十音と字画との索引を附して索むべきものの便をはかれり。

 一、右は、編者が久しく教授上に不便を感じ来れるの結果編纂の挙に出たるものなれば、この道の参考資料として貢献するところあらば幸甚の至りなり。

 一、最後に本図録編纂に当り、先輩朋友諸彦の多大なる御援助と、右文書院主人の犠牲的御同情とに預かりたるは編者の深く感銘する所、併せて今後大方の御指教を得ば亦以て望外の仕合せなり。
 昭和四年六月
 編者識

 「図鑑」の最初が「約八百」なのに対し、「旧版図録」は倍以上の「二千百数十」あると云う。やはり当初から「図鑑」を凌駕しようとする心意気はあったのだ。「改修」の時点で権威付けに走ったと云うことは、期待したほど売れなかったと思うしかない。版元の「犠牲的御同情」は報われなかったのだ。
 なお、細かいところだが、「旧版図録」では「編者」、「改修」以降は「著者」を自称している。

 旧版と云ったところで、「改修」にあるいくつかのページを取り除いたくらいのモノだろうと思いつつ現物を見て驚愕する(以下図版はカラーコピーしたものなので原本と色合いが相当異なる事をお断りする)。

 やっぱり最初は「鳳輦」から行きたい。


「鳳輦」



「現代の鳳輦」

 画が違う!
 新幹線代(と宿代)を使い、現地でこれを見た驚きの程を読者諸氏に伝える術が無いのが悔しくてならぬ。

 男子の洋装として掲載された図も異なる。


 「山高帽/タキシード」「鳥打帽/運動服」は、「改修」の際に取り除かれている(残ったものも色も無くなっている)。

 製版屋の技術か、絵師(編者)が「画壇の大家に就」く前なのか、「改修」に比べて描き方に素朴な所も見られる。


 下に見える現代女性の装束―と云っても和装だ―も「改修」では消えたものだ。「現代娘姿」の髪型「七三耳かくし」が面白い。

 仏像類も写真ではなく画で描かれており、見た感じは手許の「図鑑」(『改訂』の折り本)と似たり寄ったりである。
 それでも後発の意地を出し、口絵にある主要国国旗は、「ペルシャ」「イスパニヤ」など36カ国を挙げ、「図鑑」では新訂になって掲載された「ソヴィエト」が最初から入っている(『満洲国』は出来上がる前なので無い)。ところが、国旗のページは「改修」の際にはずされてしまうのである。

 「旧版図録」には現代軍艦の写真は載っていない。これはやはり「一九三五、三六年危機」説の影響と見てよさそうだ。軍艦写真は無い替わりに、こんなモノが掲載されている。


 扱いとしては、文官・武官礼装の一つに含まれるようだ。海軍軍装で1段まるまる使用しているのは、教育的配慮があると見るべきだろう。図右下に帽子だけ見えているのは「陸軍将校略装」だ。陸軍の兵隊サンは「人々の熟知せるものならんと思わるるもの」(誰でも知っているでしょ?)なのだ。

 「改修」で消えた「現代娘姿」は、昭和の初めでは「一般人のややもすれば気づかざるもの」だったのが、昭和9年には人々の熟知する所となったと云える。
 その上にあった「現代婚礼姿」はどうかと「改修」を見れば、


現代花嫁姿(『改修』)

 毎日見かけるモノではないからか、気合いを入れての描き直しである。「画壇の大家に就い」たの理由が「図録」改修のためかどうかは解らない。

 ともかく交通費と宿代を投じた分の感動はあった。感動のあまりコピーを取り終え、図書館にノートとエンピツ忘れて図書館から出てしまったくらいなのだ。バス停まで10分弱歩きバスを10分待ち、ようやく着いたバスに乗り込む時間をメモしようとしたところで初めて忘れ物に気づく有様だ。
 戻ってみると、閲覧席には拡げたままのノート、エンピツがそのまま置いてあった。

 こうして現行の『定本 新国語図録』の前身の姿は知ることが出来た。そうなると敗戦を挟んで「定本」に至る間の姿も知りたくなるのが人情と云うものだろう。

 と云うわけで、「定本」になる前、戦後の復興の中で初めて姿を現した『新国語図録』も古本屋から取り寄せてみる。「昭和27年4月20日第十刷発行」(一刷は27年1月15日発行)のもの。


『新国語図録』(白楊社)

 現行のもの同様、藤村作の「序」、著者「例言」は健在だが、「序」の年月が「昭和二十七年一月」、「例言」は「昭和二十六年十二月」の和暦表記になっている。

 「序」は「時代の線にそうて」と云い、「例言」冒頭が「古典文学研究のうえの直観資料として」と記すように、戦前の「図録」にあった「現代」の事物(支那のものも)は排除されている。


「鳳輦」

 「鳳輦」など輿を描いたページにもはや「現代」のものは無い。敗戦からの復興を境に古代・中世・近世と現代の連続性は断ち切られたのである。教育がそうなった以上、それは失われたのである。

 この「鳳輦」、戦前の「改修」掲載のものと同じに見えるが、従う人々の顔、鳳凰の尾などが違っており、実は描き直されている。

 描き直されたのはそれだけではない。


女子装束

 唐衣、小桂も同様である。この画は、恐ろしいことに現行の「定本」に掲載されているものとも異なっているのだ。


 戦後版で増補されたものの一つが髪型だ。


女子髪型

 ここに挙げた女子髪型のうち、戦前「増補」に載っているのは「尼そぎ」「高島田(現代)」(戦前版は『島田髷』)、「丸髷(徳川時代)」(『丸髷』)「稚児髷」まで。もっとも戦前あった「おかっぱ」「おさげ」「束髪(そくはつ)」は削除されている。
 「定本」になるまでに髪型は少し増え、「稚児髷」の画が直されている。人の顔について編者に求めるものがあったのだろうか。


 「改修」では色刷りだった「四神」は、戦後復興の途上につきモノクロ掲載である。


 「定本」では下にある鳥類ともどもカラーに戻っている。
 自分の高校生時代、学校で指定された副読本は、これらの図鑑・図録の類ではなく、文学史の概略や文章表現のやり方に重きを置いた「便覧」だった。これはこれで(授業とは別な所で)役に立ったわけだが、現行の「便覧」をいくつか見ると、復元された平安時代の装束・調度から「国民服」まで現物のカラー写真を使って紹介されており、歴史副読本の生活・文化領域をも補完するものとなっている。

 しかし、それらは文学史的な時代区分ごとにキッチリ分割されており、「便覧」のページ数の多さもあって手許に置いて「ちょっと引いてみる」には正直不便な所がある。
 この点で「定本 新国語図録」は、髪型から帯の結び目の呼び方まで(簡単ではあるが)記載されており、版元の共文社が「今では、その質の高さから、学校のみならず、放送、映画、舞台などの時代劇製作スタッフの必携の書ともなっており、伝統文化に興味を持つ多くの方からご注文をいただいております。」とウェヴサイトに記すだけの、取り回しのしやすさはある(云うまでもないが、業務上これを使用する人は、これに留まらず専門書にも目を通すべきである)。


「明治期花嫁姿」(『定本』)、実は「改修」の「現代花嫁姿」に相当する

 「明治百年」はとうに過ぎて「大正百年」となり、遠からず「昭和百年」を迎える今、明治・大正・昭和を中心とする、新しい国語参考図鑑・図録の登場を、中高生のみならず全国民が待望してやまぬものであると信ずる次第だ。
 今日「熟知せるもの」も、明日明後日には「気づかざるもの」となり、やがては文学作品の中に言葉だけが痕跡として残るだけになる事を思うべきであろう。

(おまけのおまけ)
 もともと10月の更新時に『新訂 国語漢文学修参考図鑑』と『改修 国語漢文参考図録』をあわせて一本の記事にする予定であったのだが、諸般の事情で「図鑑」「図録」を分けることとなり、これを中軸にと目論んでいたネタが使えなくなってしまったのである。
 使わずにいるのはあまりにも惜しく、かと云ってそれ一つでネタ一本にするには微妙な所なので、「おまけのおまけ」としてでご紹介する次第。


 「魑魅魍魎」の言葉は今でも目にするものだが、改訂の「図鑑」にはなぜか「魑魅」しか掲載されていない。「改修」前の「図録」がどうだったのかは失念してしまったのだが、「改修」の「図録」には「魑魅」「魍魎」ともに現れている。この「魍魎」の画を集めて見ると、意外な発見があったのだ(『魑魅』の画は見て面白いモノではないので無視する)。

 まずは「改修」掲載のもの。

『改修』

 「改修」に載った図版はそのまま「増補」に引き継がれているのだが、製版の関係か原画にあるはずの濃淡がなくなり、一見すると別物に見えるものになっている。


『増補』

 「改修」された「図録」に「魑魅魍魎」が揃っている以上、「魑魅」だけを載せていた「図鑑」も対抗上「魍魎」を載せないわけには行かない。
 これがそれだ。


『図鑑』(新訂)

 ご覧の通り、「図録」は裸体なのに対して、こちらは袴か腰巻きか良く解らぬものを着けている。「ウサ耳」の形状も大分異なる。誰も指摘しないだろうが、昭和16年以降の日本には二種類の「魍魎」が現役の書籍中にいた事になる。

 「改修」の「序」に、「昔の和漢三才図絵(ママ)のおぼつかない図」云々とある。これらの元はそこから来ているのだろうと、国会図書館のデジタル資料から『和漢三才図会』に掲載された画を探してみる。

 最初に見つけたのが、明治時代に刊行されたものである。


中近堂版の画(a)

 どことなく栄養不足で元気がなさそうだが、立派な「ウサ耳」だ。

 時代を遡り、「江戸時代」としか解らない(自分の書誌情報の読み方が甘いのか?)ものでは、また微妙に異なる画が出て来る。


江戸時代のもの(b)

 下に着けているものは、腰巻きではなく袴(ズボン)に見える。こちらの方が血色が良さそうだ。「ウサ耳」感はあまり感じられない。

 もう一つ挙げる。

文政7年刊行のもの(c)

 顔つきが(b)とは異なって見えるが、他の部分は極めて似通っている。本文含めて見比べれば良いのだが、「魍魎」の図ばかりに気を取られ、周りの画像を押さえ損なったので、これ以上の推測はやめる。

 川辺の木のそばに座っている構図、「ウサ耳」、上半身は裸体であるのは同じで、アゴの下のシワの数から見ても(a)(b)(c)は同じ画に基づいているのが明白だが、受ける印象は大きく異なる。それをまた別な描き手が「より良くしようと」独自の解釈を入れて、まったくの別物が出来上がる事になる。
 明治の(a)が「図鑑」の元ネタ、江戸時代の(b)(c)が「図録」の元ネタになったようだ。
 とは云うものの、「図録」の画は完全な裸体であり手のポーズも大きく違っている。これは絵描きでもある「図録」著者が、三才図会の意図不明の手のあり方が面白く無いと描き直してしまったに違いない。なるほど生徒に「何をしているところなのですか?」と尋ねられても、あの手では答えようがない。

 戦争が終わって『新国語図録』(昭和27年)になるとこうなる。


『新国語図録』

 前の持ち主が縞模様をラクガキしているが裸体のままだ。戦前の「図録」に比べ、顔が面長になり人間に近い印象を与えている。こんなモノまで描き直しをしているのですね。

 そして現行の「定本」(平成元年)に至ると、


『定本』

 もはや「魍魎」の名前で呼ぶのがためらわれる、艶めかしい別物に変貌しているのだ。「定本」中、人の顔(コレは人に非ざる存在ですが)はいくつも描かれているが、これだけが異質なのである。
 著者の奥さんか娘さんか、それとも昔の教え子か、はたまた接待先で垣間見た「バニーガール」の面影なのか、品の良い色気漂うお姿なのだ。

 「魍魎」の画をまじまじと見るような、奇特な生徒も教師も、そうそういるとは思えない(時代劇製作スタッフならなおのこと)が、こう云う楽しみ方もある。