モダン買物術

今でも有効な? 80万8千おまけ


 『婦人公論』200号記念附録「モダン手ほどき」(1932―昭和7年)が面白い。


あえて裏表紙を載せる

 内容は以前の記事に載せたので詳細は略す。社交・美容・健康から、ダンス・映画・新聞の読み方などの趣味までミョーに幅が広い。「誘惑撃退術」のような未婚者向け記事と、「夫婦円満術」「不妊症治療術」など既婚者向け記事が、「婦人」のひとくくりで載っているトコロがユニークだ。

 昭和7年の春!
 前年の満洲事変勃発に「満洲国」成立。のちの世から見れば、日本は歴史の曲がり角に立っていた。翌年には国際連盟脱退宣言、「非常時」を冠した本が多く出ることになる。
 世間には貧富の差があり、農村の困窮も報じられてはいるが、この婦人雑誌の附録に、その深刻さは見えてこない。
 そんな時代の「モダン買物術」を紹介する。例の如くタテのものをヨコにして、仮名遣いなどを改めてある。

 モダン買物術
 例えば、お刺身を買う場合、一人前二十五銭として、「二人前だけ下さいな」と注文して五十銭払うよりも、最初から「五十銭下さいな」と金高で注文する方が、三人前位の分量になって大変に御徳用である―というようなことは、一家の主婦たるものの、夙(とう)の昔から御存知のことです。
 また例えば、牛屋へ二人で上がったとします。お代わりを注文する場合、二人前一度にするのと、一人前ずつ二度にするのと、その勘定についてはまったく同様であるに関わらず、皿の上を比べると、一人前二度の方が二片(きれ)ほど多く、従ってまた大変にお徳用である―ということなども、一家の主人たるもの、多分学生時代から御承知のことだと思います。

 のっけからスゴいことが書いてある。
 主筆は一人暮らしなので、これが現代でも有効かを確かめることが出来ない。牛屋は牛鍋屋。現代のすき焼きと思っておけばよいでしょう(しゃぶしゃぶがお好みなら、そちらで試してみてもよろしい)。中華料理屋の定食で喰うマーボードーフと、一品料理で頼んだモノの量が全然違うのは、値段がまったく違うから、この原則とは関係がない。

 買物ということは、すべてコツです。取るは難く、散ずるは易しと金言ではあるが、このコツに従って散じようとすると仲々に難しい。―最少を以て最大を購う法、つまりコツというのはこれですが、ここに仮にあなたがアパートの一人暮らしであったとします。オフィスに毎日タイプライターを叩いて月給二十五円、では中々パンとバタと両方が、滞りなく買えるものではありません。そのような時、如何(どう)します?

 「タイピスト」という技能職でありながら、月給わずか25円。
 大正15年の高等官の初任給(基本給)75円、安月給と云われた巡査は大正9年45円。おなじく薄給の小学校教員が昭和6年45〜55円の由(『値段史年表』より)。
 最近読んだ、『夜の銀座史 明治・大正・昭和を生きた女給たち』(小関孝子、ミネルヴァ書房)―面白い読み物です―には、東京市社会局が大正14年に発行した、『婦人自立の道』から、
 「経済的独立の出来る階級を中の部とし、それ以上を上の部とし六十円以下を下の部」
 と云う記述が引かれている。「25円」を当時の給与水準と捉えるのは、ちょっと怪しくなってしまうが、本論では、パンとバターを一緒に買うのもままならぬ薄給なのだ、くらいに見ておく。電気冷蔵庫のない時代とは云え、バターは都度買わねばならぬものなのか…?
 本文に戻る。

 あなたは先ず正確な時計を持つべきです。次にデパートの閉店時間を調べる。午後六時、だとするとあなたは、恰度(ちょうど)その五分位前に―いや、その前にあなたは、あなたに好意を持つところの男性の友人―必ず男性でなくてはいけない。―を探して、彼と楽しく散歩します。そして―二人でそのデパートに入って行く。そして真直ぐに食料品部の方へ行く。そして恰度六時一分前というときに、「パンを半斤下さいな」とゆっくり、極めて鷹揚に注文する。「毎度有難うございます」と 店員がその半斤を手にとって―と この瞬間に、ヂリヂリと時計のベルが鳴る。

 デパートの閉店間際に買い物に行く。なるほど、割引になるのを待つのだな。ならば男性―好意を持っている―と同行しなくても良さそうなものではないか。

 この時だ。あなたは俄に周章(あわ)てて、しかし勿論パンを包む店員君の方へは充分落ち着きながら、同行の彼氏に向かって、
 「あなた!向こうでバタを買っといて下さいな!
 すると、平常よりして好意を持っている彼ならば、彼女の周章て方に応じて彼もまた周章てながら、
 「バタ…どんなのがいいですか?」
 「チェコスロバキヤ!」
 とか、或いはまた「ポルトガル製の」とか、―と これが肝腎な点ですが―何でもいい、とにかく有りそうもない名前を並べて置いて、それから、
 「それがもし無かったら、何でもいいわよ!」
 そこで、彼がバタ部の方へ駆け出して往ってしまえば、それでもうあなたはよろしい。悠然として再び以前の落ち着きを取り戻し、しずかにパンの包みを受け取って、―しかしこの時に、すぐさま彼のいるバタ部の方へ近寄ってしまっては何にもならない。しばしば物陰から彼の方を覗(うかが)い、彼がバタの代金を払ってしまったのを見済まして、そこでそそくさと駈け寄るという具合にする。

 パンの値段のことは書いてない。閉店5分前だから、すでに割引されているのがアタリマエなので割愛しているのか、割引なんかやってないのか、この文章から読み取ることは不可能である。何が「買物術」なのか?
 「彼がバタの代金を払ってしまったのを見済まして」
 ここだ! 「好意を持つ」男と同行しなければならぬ理由は、オトコの下心につけ込んで、バタを無代獲得するためにあるのだ。なるほど、これは確かに一つの術ですよ。

 「如何(どう)? あって?」
 「チェッコ物は扱ってないそうですよ。ですから、仕方ないからカナダ物にしてしまいました」
 と彼は、誠に相済まぬ気(げ)に詫びてこれをいうのだが、こういう場合、即ち彼は、彼女の言うままに「チェコスロバキヤ・バタ」を探して、それが無い限り、ではというので、そこにある色々の中から最上の品を選んで買うことになるものである。そこで―というような事はそれとして、彼女はやがて彼と一緒に外へ出る。そして、そのバタ包を受け取って、
 「ぢゃ、またね!」
 と快活に別れて行く。
 もしもキリストが、今の世のバイブルを書くとするならば、「バタを得んとせば、先ずパンを求めよ!」と こういう風に出るだろうと思われる。この種のモダン買い物術について、なお詳しきを知らんと欲せば、―(以下略)

 上等なバターを買ってあげて、「またね!」と云われては、彼氏にしてもれば「ダァ」となるしか無い。
 主筆がサラリーマンになるかならないかの頃、「いい女」には
 「アッシー君」(足、クルマで送迎してくれる)
 「メッシー君」(飯・メシ、おしゃれなレストランで食事をおごってくれる)
 「ミツグ君」(貢ぐ、アクセサリーなど色々プレゼントしてくれる)
 と、三人の彼氏を持っている―それ以外に「本命」があるのは云うまでもない―モノだと喧伝されていた。遡ること何十年、同じヨーな話が書かれて(実際にあったかは解らぬ)いたと思うと、味わい深いモノがある。
 毎日毎週、こんなモダン買い物をやれるものとはとても思えぬ―いつか貞操の危機を迎えるぞ―が、それくらいの意気で世間を渡って行け、と職業婦人を励ましているんだと、好意的に読んでおこう。

 「(以下略)」とあるが、内容のバカバカしさに呆れた主筆が、以下を略したわけではない。原文ママである(縦書きを横書きにはしましたが)。
 「モダン買物術」を書くように云われた編集者が、締切間際になんとか書き上げた、出来の悪い都会コントのようだ。

(おまけの知らないことばかり)
 戦前の百貨店を語る読み物は、当時のカタログなど織り交ぜたものなどいくつか出ていて、文化史上の役割・位置づけは、「兵器生活」でことさら語らずとも、広く知られている。しかし、その食料品売場がどんな構造をしていたのか、何が売られていたのか、そのへんを読んだ記憶がない。
(おまけのおまけ)
 「雪印北海道バターの歴史」に、1925(大正14)年に製造開始、26年に東京進出とある。27年に上海・大連に輸出、35年には英国にも進出、高い評価を受けたなんて事が記されている。