学費は国家負担とする

『大学及高等専門学校卒業生早婚の国家的重要性』その3で82万4百おまけ


 前々回から紹介している「大学及高等専門学校卒業生早婚の国家的重要性」(西野入徳、早稲田大学出版部)の続きである。
 この論文(大東亜戦争中に発表された)、日本人が、大東亜の盟主となることを前提に、該地域の指導と国家の繁栄を永遠に保つべく働く「指導階級」の量、つまり人数が足らない事を指摘した上で、その対策「四、優秀人物の不足と高等学府卒業者早婚の急務」を語る。
 提言は二つ。ひとつは指導階級としての素質がありながら、高等教育を受けられず社会に埋もれるしかない、現代の青少年に教育機会を与える。もう一つが、論文の本旨「高等学府卒業者早婚」による、将来の「指導階級」の増産だ。今回は一つめのトコロだけを、例によって手を加えて紹介する次第。

 四、優秀人物の不足と高等学府卒業者早婚の急務

 上述の如き実情下に在る 我邦の指導階級人物の質低下を防止し、進んで之を向上せしめんが為めに 直ぐに実行に着手せねばならぬ事が二つある。其の第一は 生来優秀なる頭脳と素質とを具備しながら 経済的其の他の理由により高等教育の機会を与えられず、天与の英才を空しく巷間に浪費しつつある青年十数万に対し、高等教育の道を開き、彼等各人の有つ 優秀なる特徴を充分に発揮せしめ 之を邦家の為め最も有効に用いる事是である。
 其の方法は元より種々あらんも 一試案として提唱する処を簡記する事如次(つぎのごとし)

 次に入る前に割り込む。
 小学校で成績優秀だった人が、実家に学資がないため、成功した親類縁者・地域名望家から支援を受ける、学費の要らぬ、陸軍士官学校・海軍兵学校に進む話はよく聞く。また、偉人伝では、進学を諦め一旦は地位の低い使用人(小僧・給仕)になった者が、働きぶりを重役に認められ社員に登用、頭角を現すエピソードもある。そう云う「地頭の良い」若者に高等教育を受けさせれば、裕福な家庭に生まれただけで、上級学校に行くことが決まっている人より、優れた指導者になり得るわけで、能力ある者を、スケールの小さい仕事で終わらせるのは、国家の視点から惜しいと云うわけだ。

 「天与の英才を空しく巷間に浪費」は、世を拗ねて、ふて腐れているわけでは無い。教育が受けられないからと、道を踏み外してしまうヨーでは人間として弱い。指導者となる素質に欠けると云われてしまうだろう。こう云う大袈裟な表現は好きだ。
 本文に戻る。

 国家の生命は永遠である。従って百年千年の大計を立てる事は勿論重要である。併し目まぐるしき変転の途上に在る日本国は、同時に手近の数年に亘る短期間に対し 現実に即したる具体的政策を樹立実践する事も亦 甚だ肝要の事に属する。
 依て此指導階級の質向上の問題も十ヶ年を一期となし 該期間に対し 日本全体各方面の国家生活を総合的に計画樹立し、各種業務運行に対し必要なる高等学府出身人員を計量し、それに基づき年々補給を要する人数を算出する。生命表に基づき一定の死亡率を考慮の上 七年(高専の場合)乃至九年(大学部の場合)後に右人数に達し得る丈、国民学校卒業者(男子)中、成績、性行及体格等優良なる者を順次選抜し是を中学に入学せしむる。此の中四万人は既述せる如く 高等教育不適格者なるも、後段に述ぶる方法により 優秀者の出生増加を以て之を補給する迄は、不満足ながら忍耐を要する。


 小学生のうちに、智力・体力あり、性行の良い少年を選び、彼らを全員、高等教育を受ける下地を作るため、中学校に入れて学ばせる。前回言及したA級B級の割合を考えると、うち4万人は高等教育について行けない事になるのだが、そこは忍ぶとする。教える時間がムダになるのが惜しいか、社会でそれなりに働ける人を何年か「遊ばせる」のが惜しいのか、立場によって微妙な話と云える。
 この方策を行うために、「日本全体各方面の国家生活を総合的に計画樹立」して、指導者の所要人数を算出しておくとしているトコロが興味深い。これってドー見ても社会主義ぢゃあありませんか(笑)。


 中学卒業に際しては 其の成績と国家所要人員の内訳とを考慮の上、一部は高等専門学校に 一部は高等学校より大学部に進学せしむる。
 是等の選抜学徒は、中学、高専、高校、大学の全期間を通し全部寮舎に止宿せしめ、高潔なる人格者指導の下に精神鍛錬を積ましめ、教室の授業と相俟って 真に憂国の志士たる風格と実力とを兼備する優秀なる指導的人物に仕上げるのである。
 各校への学徒割当は官公私立を通し、一方其の位置、設備、内容、特徴、収容力等を考慮し、他方学徒の希望を参酌して之を決定する。勿論現存する官公私立大学及専門学校にしては 著しく不足なるが故に、是が増設及新設を必要とする。而して新設校は原則として大都市を避け、山間海浜等学徒の心身修練に好都合なる田舎を撰ぶ事が肝要である。而して学徒が必要とする修学費は 総て之を国家の負担となし、家庭の事情如何に論なく総て平等の取扱をなす事とする。国費の負担を軽減する必要ありとせば 卒業後一定年数経過後年賦返還せしめても宜しい。

 将来の指導階級の育成費用は、国家負担と云う太っ腹である。私立学校の授業料にも国費を投入するのなら、いっそ総ての高等教育機関を国営にして良いんぢゃあないかと思ってしまう。しかし、書いているのは早稲田大学の人なので、「私学」は絶対維持されねばならぬようだ。新設される学校は、公立になるんだろう。
 「選抜学徒」は大学卒業まで寄宿舎に入れ、精神鍛錬で「憂国の志士」に仕上げる。月並みな空想科学小説の世界では、智力・体力に秀でた「新人類」は、地球の未来を憂い、世の建て直しを実行するため、現生人類を亡ぼすべく行動―わざわざ「宣戦」までして―するのがお約束だが、世俗から離れて成長する彼らが、今の世の中は間違っておる、大人はなっちょらん! と叛乱を起こすとは考えてない。「高潔なる人格者」が指導するから大丈夫と云う事なのだろう。
 さて、この構想を実現するには、十数万の学徒が学べるだけの学校が必要となる。現代の中学生の数は2024年で314万人、中学校の数は9882校。そこから大ざっぱに計算すれば、1千校程度は欲しい。さて、「高潔なる人格者」って、世の中に何人いるものなのだろうか? 学校ひとつあたり最低一人は居なければならぬが、各学級の担任もそうあってもらいたい。1校千人1クラス40人で25クラスと見れば、1校25人の1千校で2万5千人。学校にこれくらい「高潔なる人格者」を配置するには、当時の役所や会社から、「高潔なる人格者」を引き抜く必要がある。少なくとも、これだけの人的資源があるのなら、負ける戦争に乗り出すヨーな社会にはならなかったのではないだろうか(笑)?。

(おまけの所感)
 出来そうなヤツは全員中学校へ、と云う論者の考えは、敗戦後、中学校が義務教育化される事で、この構想より斜め上を行くカタチで実現してしまう。今日の教育制度だ。それが「指導階級」の増大をもたらしたかドーかは解らない。
 本屋に並んでいた『学校の戦後史 新版』(木村元、岩波新書)を読むと、「『国家のための教育』から、民主主義国家の礎となるべき個人の『権利としての教育』へ」と教育理念が転換されたとある。「学校に行くことが「当たり前のこと」になっている社会」と云う指摘は、現代人からみれば当たり前の話なのだが、感銘を受ける。
 教育史の本など読む機会がなかったので、「日本の学校」がどのように形成され、学校・学校教育のあり方が、戦後から現在とドー変わってきているのか、ドー変わろうとしているのかを、この本で少しばかり知ることが出来たのは余得だったと思う。