授業あれこれ  
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その1: 定期テスト
 テスト問題というのは、教師にとってなかなか作るのが大変なものです。地歴・公民科の場合、覚えた用語を答えさせたり、選択させる問題が多くなってしまい、そのあたりから「地歴・公民科は暗記科目」「できる人=よく覚えられる人」という大きな誤解が生まれてきてしまうんですね。そこで近年は、「考えさせる問題」を作成すべきだとの声が強まっています。私も今まで、いろいろな試行錯誤を繰り返してきました。例えば、
@あるキーワードを与えてある問題について論じさせる(それによってある程度内容の大枠に制限を加える)。
A自分自身で問題をつくらせ、それについて答えさせる(単なる用語ではなく、答えが文になるようなものという条件付き)
B「環境保護に関しあなたが実行していることを3つ書きなさい」など、実践の状況を問う。
C時事的な問題を必ず入れ、ニュースに関心をもたせる。
などなどです。最近、教えている短大では、教えていない内容を出しています。その場ではじめて題材を与え、判断してもらうものです。こうすれば、暗記は役に立ちません。歴史的な判断力を問うことができると考えています。
 いずれにしても、次のようなことは確実に言えると思います。すなわち
定期テストは、生徒が最も真剣に取り組む学習の1形態であるこのことを念頭に置いて、今後とも考えさせる、よりよい問題(生徒にとってはかえってきついかも)づくりに取り組んでいきたいと思います。

その2: 実践上の小さな技術(1)
 研究授業などを見ていると、発問の時、生徒を指名してから質問する先生がいます。でもこれだと、質問している間他の生徒は(とりあえず自分にきかれているんじゃない)と安心してしまい、質問の内容も聞かないような生徒も出てくると思います。そうではなくて、まず質問を先にすれば、(私が指されるかも)という緊張から、少なくとも先生が誰か指名するまでの時間は多くの者が答えを考えようとするのではないでしょうか?…とまぁこんなことは多くの先生方が気づかれている他愛もないことかもしれません。でも、同じ内容をやるにしても、より効果的なやり方でやった方がいいに決まっています。笑われるのを覚悟でまず1つ提示してみました。これを読んでいらっしゃる先生方、「他にもこんなコツがあるよ」というのがありましたら、どしどしお寄せ下さい!お願いします。

その3: ルーティーンだからできること
 教師になりたての頃、よく林竹二さんの授業記録を読みました。また10年くらい前、小学校教育の実践研究者有田和正さんや向山洋一さんのものもずいぶん読んだものです。いずれにも共通するのは、いわゆる「飛び入り授業」であるということです。初対面の定時制の高校生たちがみるみるうちに林さんの授業に引き込まれていくさまは、本当に見事なものですが、これはいわゆる名人芸的な授業であり、私には一生かかっても到底できないものだと感じました。
 普通の教師は1年間に数十回も同じクラスで教えているので、飛び入り授業のような新鮮さを生徒に与えることはできません。しかし、逆にルーティーンだからこそできることがあるのではないでしょうか?たとえばディベートを行うにしても、1回目はルールどおりにやるということで精一杯でしょう。しかし、1年後に再びやったとすれば、1回目よりは内容的に盛り上がることが期待できるでしょうし、3回目ともなれば、相当テーマに皆が集中できるようになっているはずです。こうした
いい意味での「慣れ」をうまく利用して、数ヶ月後、1年後、2年後の成長を期待できる点は、飛び入り授業にはない良さと言えましょう。

その4: 実践上の小さな技術(2)
 これだけ進んだ世の中でも、未だに教室ではチョークと黒板です。パソコン画面がスクリーンに映し出されるような設備が整うことは、きっと何年経っても無理でしょう。いろいろな点から、結局チョークと黒板をしのぐやり方がまだないのだと思います(主に経済的理由が大きいか?)。
 チョークは何色くらい使うのが適当なのでしょうか?私は、初めの頃から白(普通の文字)・黄(題や重要語句)・赤(題やアンダーライン)の3色を使っています。私の高校時代、十色近く使っていた先生がいました。紫色が出たときには参りました。

 板書は、順を追って書くのが普通ですが、私はかつてその授業の結論になるような語句を、授業の終わりに、黒板の最初に戻って書いたことがあります。つまらぬことですが、これも1つの工夫と言えましょうか?
 あと、これもつまらぬことですが、黒板の下1〜2行分は、わざと書かないようにしています。下から見上げる形となる生徒には、教卓が邪魔になって、その部分が見えにくいからです。


その5: 教材研究と発問との関係
 教師が授業のテーマに関わる重要な発問をした時、生徒がわからなかったり、こちらが予測もしなかったような返答をする場合がよくあります。そんな時、求めるような答えに導くために、補助的な質問をするようにしています。その際、次のようなことが言えると思います。すなわち、「教材研究がなされていればいるほど、うまく補助質問をすることができる」。つまり、この問いと答えについて、豊かな周辺知識を身につけていれば、その中から適当と判断される内容を利用して、2次的な質問をすることができる、というわけです。

その6: 究極の教材研究
 私が思い描く理想の教材研究とは、そのテーマに関するありとあらゆる文献に目を通し、必要があれば現地に赴いて自分の目で確認した上で、独自の授業案を作成する、というものです。かつて小学校教育の実践研究者有田和正先生(当時筑波大付属小教諭、現教材・授業開発研究所代表)は、日本の伝統的な民家の優れた点を児童に教えるため、そうした古い民家の残る徳島の祖谷(いや)地方に御自身で行かれ、大変効率的な取材活動をなさったという記事を読み、「自分もいつかこんな教材研究をしてみたい」と思ったものです。平成4年と6年にそのチャンスが到来しました。いつか行ってみたいと思っていた長篠の古戦場を踏査できたのです。平成4年の時はついでに立ち寄ったので半日しか見られませんでしたが、6年の時には2日間地元の方の案内でやや詳しく取材することができ、またビデオ撮影もしました。
 この時の取材が私の
「長篠の戦い」の授業に必ずしも十分に生かされてはいないのですが、それでもあの時の体験は大変貴重なものだったと思っています。教員になって20年も経つのに、満足のいく教材研究がこれ1つ、とはお恥ずかしい限りです。 


その7: つまらぬ独り言1
 教員を20年もやっていると、「他の先生もそう思っていないかなぁ」という、マーフィーの法則のようなものがあります。その1つに、学校も年代もだいぶ違うのに「こいつ何年前の○○高校の時の××とそっくりだなぁ」というのがあります。あれってホントに不思議ですが親戚でもないし苗字も全然違うのに、そっくり、あるいはそこまでいかなくても雰囲気がすごく似ている生徒っているんですよね。「世界には自分とそっくりな人間が3人いる」ということを聞いたことがありますが、あれが本当のことに思えてくるのです。

その8:実践上の小さな技術(3)
 定期テスト後の何となく中途半端な時間、1時間ビデオを見せてすます、ということを私もたまにしてしまいます。確かに社会科の場合、「百聞は一見に如かず」でそのものズバリを見せた方が生徒も理解しやすいということはあると思います。しかし一方で、今の生徒はビデオを見慣れていますから、注意して見るということはうまくできませんし、関心がないとすぐ机に突っ伏してしまいます。ある視聴覚教育の先進校の先生に聞いたのですが、ビデオを見せたいところを短く、3分か5分、長くて7分見せれば十分だというのです。これを「七五三の原則」と言うとか言わないとか。確かに自分の授業の流れの中でここはビデオで見せたい、というところだけ見せるというのは効果的でしょう。ただし、リモコンをうまく使い、パッと切り換えて授業に戻れるようにしないと流れが途絶えてしまう心配があります。

 
その9:実践上の小さな技術(4)
 
歴史を教えていると、例えば荘園制とか、鎌倉幕府の地頭制度とか、抽象的な概念に出くわします。こういったものは正直自分でもよくわかっていないのに、これをさらに生徒に伝えようと言うのですから、大変なことなのです。そこで、ある例えを使うと言う方法が考えられます。例えば、鎌倉幕府は本来私企業で出発したけれども、政府から準公営企業として認められ云々と言う風にです。でもこうやると、ちょっと本質とずれてしまうのでは?という批判が聞こえてきそうです。私自身は、今のところ、歴史の概念を忠実に説明しようとしてほとんど理解されないよりは、多少のズレがあっても、例えを用いてある程度わかってもらった方がいいのではないか、と考えています。

 その10:調査学習をやってみました
 
地理で2学期に世界の主な特徴のある諸地域を教師主導で学習した後、3学期はアメリカのみをとりあげました。そして最初に共通理解として概説的なことを学習し、その後アメリカに関して自由にテーマを設定し、レポートを作成させるいわば主体的学習をさせてみました。アメリカにしたのは、最も親しみと関心のある外国ではないかと判断したためです。最初はできるかなぁと正直不安でしたが、数時間学校の図書室で調査をさせてみました。結果は取り組みに関しては、予想以上に熱心にやってくれました。おそらくこれほど本を探してまとめるという作業は彼らは初めてだったのではないでしょうか。最終的にまとまらず、十分なレポートとならなかった者もいましたが、まずは最初ですからとにかく取り組むことが大事ととらえ、自分ではやってよかったのではないかと思っています。ふだんあまりやる気のない者が熱心に本を探し、読んでいる姿を見ることは楽しいものです。

 
その11:実践上の小さな技術(5)
 授業の中で、発問の中身、仕方が非常に重要なのは言うまでもありません。前にも紹介した有田和正先生は、小学生の
授業(バスの運転手さんの仕事を教えるところ)で「バスの運転手さんはどのようなところに気を付けていますか?」と発問するよりも「バスの運転手さんは、運転中どこを見ていますか?」と発問したほうがいい、と言っておられます。
後者の方がより具体的で、児童の考える焦点がよりしぼりやすくなっていることにお気づきでしょう。前者は、教師は答がわかっているからよいが、児童には考える幅がありすぎて困ってしまう内容です。この発問のコツは、高校の場合でも十分に参考になるものと思います。

 
その12:生徒に感想を書いてもらう勇気 
 
最近は大学でも学生の方が教授の講義を評価するところがあるそうですが、私も教員なりたての頃から、年度末には生徒に授業の感想を書いてもらうようにしています(但し今の高校ではいろいろな理由でやっていませんが)。
 考えてみれば、生徒は「授業を聞くベテラン」であり、そう言う意味で教員を見る目は確かだと言えます。もちろん、評点を気にしてお世辞を書く者もいますが、多くの生徒は忌憚のない所を書いてくれます。中にはかなり手厳しいものもありますが、とても嬉しくなるような内容もあります。実際、この感想にヒントを得て、授業のやり方を変えた部分が幾つもあります。もちろん指摘の全てが正しいとは思いませんが、
常に生徒の眼から見た自分、というものを忘れないようにしたいと考えます。
 過去に書いてもらった生徒の感想は、私の大切な宝物になっています。パソコンに打ち込んでおこうかとも思いますが、生徒1人1人の自筆のものも捨てがたいのです。

 
その13:大人相手の世界史授業(?)
 
もう十数年前になりますが、県内のある市の市民の勉強サークルに呼ばれたことがあります。毎回講師をつとめている知り合いの先生に呼ばれたのですが、珍しいのは「世界史」の勉強会だと言うことです。私も郷土史、つまり日本史の講師として呼ばれて話すことは時々(たまに)ありますが、世界史というのはこの時だけでした。このページの世界史のところで紹介しているような内容をクイズ形式でやったのですが、いやぁその反応のよいこと!こちらが驚き感動してしまいました。終わってからも質問が相次いで、本当にやってよかったと思いました。考えてみれば世界の歴史を学ぶ機会というのは本当に高校ぐらいでしかない、しかも今は選択制で、やらないで終わってしまう人も多いわけです。生涯学習で歴史というと、地域の歴史がほとんどですが、もっと世界の歴史、文化を楽しく学ぶ機会を設けてもいいのではないでしょうか?

 その14:資料集の功罪
 
社会の授業では教科書の他、資料集や地図などを使うことが多いのですが、その資料集についていつも思うことがあります。それは限られたスペースの中であれもこれもとつめこむものだから、総花的で焦点が絞れていないこと、それと例えば図とか絵、グラフがあるのはいいのですが、脇に解説なるものがついていて、生徒に考える余地を与えない、つまり「この資料はこう読むのだ」と押しつけられてしまうのです。あれでは考える喜びは味わえず、生徒が主体的に学習内容や授業に関わろうとする意欲はほとんどそがれてしまうのではないでしょうか?そうではなくて、考えるための素材を載せるだけにして、判断を生徒に迫るようなつくりにしてほしいものです。私の授業プリントは、この点が不満なので始まったようなものなのです。至れりつくせりは、旅館・ホテルではありがたいものですが、資料集の場合、少なくとも私にとっては「ありがた迷惑」の部分が少なくないのです。関連出版社の皆さん、ご一考を!

 その15:アメリカの高校生
 
1993年(平成5年)、大変ラッキーなことに、アメリカ研修の機会を与えられました。ワシントンに1週間、東部コネチカット州に1週間滞在しました。私が参観したのは州都ハートフォード郊外の白人の子弟が多く通う恵まれた高校でした(アメリカでは地元の教育予算の割合が多く、白人の多く住むまちは財政も豊かで、高校も立派です)。生徒たちはよく質問をしたのには驚きました。ただ、英語で言っているからすごいように聞こえますが、内容はそれほどのものではないものが多かったようです。でも、この姿勢は日本の高校生には全くと言っていいほどなく、手を挙げるのは大人げないとでも思っているかのようです。何とかこういう姿勢を少しでも身につけさせたいものです。一方、アメリカの高校生は、日本の高校生がみんな受験勉強に忙しいものと「勘違い」しているらしく、先生方もこの点を見習わせたいと思っているようでした。「他人の芝生はよく見える」とはこのことでしょうか?

 その16:アメリカの自動車道路
 アメリカで私のパートナーの先生の車(ホンダ車でした)に乗っているときのことでした。三車線だったのですが、そのうち二車線だけが混んでいて、残り一車線はすいすいと進んでいるのです。あれは何かと尋ねたら、1台に2人以上乗っている車のみが利用できる車線なのだそうです。でも1人しか乗っていなくてもずるをして利用したらどうなるかと再び尋ねたら、その時は捕まって罰金を払わなければならないそうです。日本以上に車無しではやっていけないアメリカ社会、1台に1人という場合は非常に多い、だからこその措置で、非常に合理的だなぁと感じました。日本も三車線の道路は増えているから、見習えないものですかねぇ。

 その17:現代社会という科目
 現代社会という科目ができてだいぶ経ちますが、私は当初から政治・経済の分野はともかく、文化や青年期の問題を扱う分野を教えるのがとても難しいと感じていました。特に倫理的な内容は、今の生徒とは1番かけ離れた部分ではないでしょうか?何か、学問としての、抽象的なものが重んじられている一方、実際に役立つ知識というのがあまりにも軽んじられているような気がしてなりません(これはアメリカの高校をみてきて特に強く感じるようになりました)。私は、現代社会で対人関係をよくするためには、といった特設授業をやったりしています。ノウハウものだけになってもいけないでしょうが、実際に役立つ知識をもう少し重視して、授業にとり入れていくべきではないでしょうか。

 
その18:歴史教科書問題と現場
 現在、高校の歴史教科諸問題が起こっています。戦争を起こしたことに対し肯定的な立場をとるグループがつくった教科書が300カ所くらいの修正を加えた上で検定に合格しました。しかしこれに対し中国や韓国が抗議し、再度の検定を求めている問題です。たしか10年以上前にも「侵略」か「進出」かでもめた問題がありました。
 しかし、この問題、現場の立場で言いますと、さして大きな問題ではないのではないでしょうか。教科書を一字一句違えずにそのまま教えている歴史教師はいないでしょうから。そして、これは情けない理由なのですが、戦争まで授業が進まずに終わってしまった、という話もよく聞きます(これは教師の計画性のなさによるもので、自分を含め非難されても仕方ありません)。
重要なのはどちらかがまったく悪く、他方がまったく正しいということではない、ということだと考えます。複眼的な視点から、つとめて冷静に事実を生徒に提示し、生徒自身に判断してもらうことがよいのではないでしょうか?
 ついでに言いますと、こうした立場の違う教科書を複数使って同じ事実をどのように異なって記述しているか、なぜそのような記述になっているのか、を検討する授業なども面白いのではないでしょうか?これはちょっと高校では無理かと思いますが、大学あたりでできそうです。あるいはもうどなたかがやっていらっしゃるのでしょうか?だとすれば学生の反応に興味があります。


 その19:「歴史のタブー」をやぶった授業
 この間、NHKテレビで「もし〜していたら」という歴史番組を放映していました。「もし信長が本能寺で討たれなかったら」とか各時代の大きな転換となった問題を取り上げて、作家が持論を述べていました。歴史にもしもはタブーと言われてきましたが、これは授業でも取り上げることは出来ないかと思いました。しかし、これには欠点もあります。たとえばその問題に対し相当な関連知識がないと、その後に予想される歴史の流れが単純なものしかでてこない、ということがあります。だから、正規の学習をした上で、もしそうならなくてこうなったらどうなっていたかを、正解を求めるのではなく(もちろん、もしもですから正解などはありえませんが)こういう理由からこうも考えられる、いやこのようにも考えられる、と意見を出させて皆で最も可能性の高そうな流れを求めていく、などというやり方がいいかもしれません。もし実践されている方がおられましたらぜひ御教示下さい。

 その20:お金の換算
 掲示板にも書き込みましたが、日本史・世界史を問わず、当時のお金がそのままの単位で教科書に記されていることがあります。これは、現在のお金にしていくらくらいか、是非生徒に示したいものです。そうすれば実感としてとらえられるからです。例えば日清戦争の賠償金は2億両(テール)とありますが、今のお金にしてどれくらいかを示すことで、戦争の規模、その後の日本経済に与えた影響などを実感できるはずです。日本史の場合、米価を基準にして換算する方法がありますが、昔は米の価値が今よりはるかに高かったことを考慮に入れなければならないでしょう。
 時代を通してこうした例の換算表をつくることが遠い(?)夢です。どなたか御教示を(よい資料、参考書など)!
 あ、それからお金以外の度量衡についても、例えば校舎の高さや、校庭の面積などと比較して説明するようにすればわかりやすいのではないでしょうか?


 その21:実践上の小さな技術(6) 騒いでいるクラスを静かにするには?
 
「こら、うるさい!!」と大声を出すのが最もよくやられる方法でしょう。私は声が小さくあまり効き目がないので、10年くらい前は黙って出席簿を教卓に叩きつけました。「バチン!!!」とものすごい音がするので、最初はすごく効き目がありました。しかし、あまり濫発すると効果が薄れてきます。
 わざと小さい声でこそこそと話したこともあります。「何だろう??」と思って次第に静まります。けっこう通用する方法かもしれません。
 
でも、内容・方法的に自信のある授業をしているときは、(絶対とは言えませんが)ふだんうるさいクラスでも聞いてくれることが多いのです。やはり、中身と方法で勝負したいものです(理想論過ぎますか?)

 その22:実践上の小さな技術(7) クラスに討論をさせるには?
 発問は、そのなかみをよく検討しておくことと同時に、その仕方も工夫した方がいいと思います。普通は、発問する教師と答える生徒との1対1の関わりになり、他の生徒は傍観者の立場に終始してしまいます(もちろん、今答えている生徒が答えられなかったり、不十分だったりした場合は、次に回ってくる可能性があるのでそれなりに真剣に聞いているとは思いますが)。しかしそれでは何十名かの学習集団としての意味はほとんどありません。
 そこで、ある答を引き出しておいて、「今のに反対する意見を言える者いないかな?」とあらためて問いかけ、生徒どうしで討論するような状況にもちこむ、という方法をとればどうでしょうか?なかなか「討論をします」と言ってやり始めても、うまくいかないことが多いと思いますが、こうすれば自然にそのような状況になることが期待できます。ただ、そのためには、生徒によって複数の答がそれぞれ説得力を以て発表されるような発問を準備しておかなければなりません。

 その23:学習集団とは
30名とか40名で学習している意味とは何でしょうか?私は最近このことに関して貴重な(?)経験をしました。定時制高校で、今まで対外試合のなかった運動部をもっていますが、今年度から対外試合が始まり、生徒たちが初めて熱を入れて部活動を始めたのです。今までまったくと言っていいほど関心を示さなかった部員どうしが、初めてクラスや学年の枠を越えて関わりあい始めたのです(全日制のクラスでも、3年間でほとんど話もしない、名前も知らないなどということもあります)。先輩への敬意や、後輩への思いやり、そういった感情をお互いに示し出しました。中でも感動したのは、ちょっといじめられやすいタイプのある生徒に対し、それ以前はクラス内外でからかっていたようなところがあったのですが、部のリーダー格のある生徒が「○○くん、悪いなぁ、今度の試合ではちょっと出られないかもしれないけど、勘弁してくれよな」という、配慮のある言葉をかけたことです。私は少し大げさかもしれませんが、ここに部活動をやる原点を見いだしたような気持ちになりました。部活動が対外試合をきっかけに初めて本格的に動き出す、その中で部員同士がお互いの長所や欠点に気づき、チームワークを考えて皆が高まりあうような行動をとったのです。その際このスポーツに門外漢の私は何もできませんでしたが、そのスポーツを皆が大好きだということが、私の無能と怠慢を補ってくれたのです。門外漢とは決して言えない授業の場合は、生徒に興味がなくても、教師がこうしたお互いを高めあう集団にしていくことが大切だと思います。

 その24:外見だけではわからない生徒の反応

私はある授業で、終わりに毎回感想を書かせていますが、ほとんど発言をしないでずっと下を向いたままという生徒の感想を読んで、びっくりしました。「とても面白く、わかりやすい」というようなことが書いてあったからです。反対に、けっこう授業には反応していた生徒が、「むずかしかった」「よくわからなかった」というような感想で、がっかりすることもあります。教員をやっていらっしゃる方は、後者の経験は多いのではないでしょうか(よくうん、うん、と頷いている生徒にも「だまされやすい」ものです)。生徒の評価は、ふだんの授業はもちろん大切ですが、それ以外も含めて総合的になされるべきことをつくづく感じます。

 その25:授業の進度と生徒の理解
先日、久しぶりに研究授業をみる機会がありました。終了後の検討会で、ある参観者が、「発問をして、なかなか答が返ってこない場合が多い。そういうときは今日そうだったように、クラスの中の活発な子を利用すると、授業がスムースに進む」と発言されました。私も確かにそのとおりだと思いましたが、一方で、その活発な子が能力的に高く、教師の求めるような答を出してしまった場合、教師は「そうですね、では次に…」と先へ進んでしまう、そうするとその時点でまだ理解できていない子はどうなるのだろう?などと考えてしまいました。むしろ、その活発な子が適度に(?)間違えている方がいいのではないか?もちろん年間の計画があり、ましてや受験などの理由で進度は遅らせることはできない、こういう事情の中で、先へ進んでしまうことは○○科嫌いを増やしてしまうだけなのではないか。ティームティーチングなどはその1つの解決策だとは思うのですが、まだ日本では本格的に導入されていません。 

 
その26:「NHKスペシャル学校を変える@問われる教師の力」を見て 
学校改革の軸となるような指導力のある教師が、やや指導力に問題のある教師にアドバイスをしたり、直接その
教師のクラスに乗り込んでいって、てこ入れをする、というような内容でした。さすがに2人の指導力のある先生の
児童への接し方は素晴らしく、大変参考になりました。
共通するのは、子供の目線と教師の目線、両方を持ってい
る、
ということでしょうか。そして一番感じたのは、この指導を受ける先生は、さぞかし大変だったろうな、ということ
です。そしてそれを受け入れたお2人に心から敬意を表します。高校の場合、(あくまで一般論ですが)教師1人1
人のプライドがきわめて高く、例えば私が自分の専門外の科目を専門とする教師に、その授業についていろいろ
指摘する、なんていうことはおよそ不可能だと思います。逆に日本史を専門とする私が、そうでない教師から何か
言われたら、果たして素直に受け入れられるだろうか?正直不安です。でも、それではだめだと思います。そもそ
も、高校教師の「専門」って何でしょうか?大学で専攻したもの?それとも長年受け持ってきた科目?受験指導に
自信のある科目?
私は結局、「へぇ、○○って案外面白いんだねぇ」と一番生徒たちに思わせることができる、つ
まり本当の意味で生徒のためになる授業ができる科目だと考えます。どれだけ広く深く知っているか、つまり学問
としての重要性も無視はできませんが、それよりもその内容をどう工夫して生徒に提供できるか、その点での専
門性をもつことこそ最も大事なことではないでしょうか?


 その27:「NHKスペシャル学校を変えるA平等から競争へ」を見て
品川区が児童に学校を選択させる、そして学校はより多くの児童を獲得するために独自の特色を持とうと奮闘する、といった内容でした。確かに生き残り、という点からこうした試みには意義があるとは思います。しかし、その中
身を拝見すると、(一生懸命やっておられる校長先生には申し訳ないのですが)「この程度のことで特色といえる
のか?」というものばかりで教育長さんの熱意が空回りしている感じがしました。もっとも、微々たる予算では大き
な改革をしようとしても土台無理な面もあるのでしょう(英語講師の費用捻出のため、地域振興券を校内の教師に
買い取ってもらっている場面には哀れささえ感じました)。
個室だの単に教師数を増やす、といういわばハード面で
はなく、どういった魅力ある中身を持つ授業、学習活動ができるのか,そういったソフト面に力を入れるべきではな
いでしょうか?そこにこそ教師の専門性があるわけですから。

 その28:基礎学力と総合学習
15年度からの指導要領で、いよいよ高校でも「総合学習」が始まります。生きる力をつける、というのが大きな眼
目で、そのために自らが興味をもったテーマに関して、自らが調べて主体的に学んでいくように指導することがポ
イントになっています。しかし、ここにはいろいろな問題点が考えられます。その1つが、「基礎学力の方がおろそ
かにならないか?」という心配です。特に受験校には切実なことと推察されます。それに対しては「そうした学びの
中でついた基礎学力こそ本当に身につくものだ」という反論もあり、私もそれが理想的だとは思う一方、現実には
そう簡単なことではないとも考えています。まず、
興味を持つためには、ある程度の基礎的な知識がないと、こち
らの「揺さぶり」が効かず、したがって「あれ、不思議だなぁ、よしこのことを調べてみよう」という動機付けにならな
いのです。
このことを一番よく示しているのが、授業中教師が使う言葉が理解不能になっているという事実です。
極端な語彙不足です。また、「わかる」というのはバラバラになっていた既有の知識を結びつくことだ、と聞いた
ことがあります。だとすると、
その「既有の知識」がない、あるいは極端に少ないという今の生徒の現状は、非常に
問題が多いということになります。

私は、やはり、それこそ読み書き算盤ではないですが、これ位は最低身に付いていない、という内容をドリル的に
学習する部分は必要ではないかと考えます。私が信頼する、ある(小・中学校の社会科教育に詳しい)大学教授
も、「小・中では徹底的に基礎をたたき込む。その上で高校では、比較的に自由にやるっていうのがいいんじゃあ
ないかなぁ」と仰っていたのを記憶しています。

 その29:総合学習の問題点その2
もう1つ、この総合学習では、学習の内容、プログラミング、調査学習への導入の技術、など様々な面で教師の
専門性が問われる、ということです。そしてそれもかなり高度なものです。しかし、カリフォルニアではこうした点が
問題点の1つで、生徒主体の教育は失敗した、と言います。つまり、高度な専門性が問われるような教育方法を
普遍化させたことによる失敗です。情けないとお思いになるかもしれませんが、全ての教師にそのような専門性
はないというのが現状です(負け惜しみではありませんが、それはどこの業界でも多かれ少なかれ同様ではない
でしょうか?)。柔道で言えば、4段、5段というそれこそプロ中のプロは僅かです。
私は、プロである以上、全員が
このレベルまで到達することを目指すべきだと思いますが、現実には黒帯(初段)に全員が達することさえ難しい
のではないでしょうか。ですから、初段でも実行可能な方法を考えないと、普遍化は難しいでしょう。

 その30:生徒の「つぶやき」を大切に
授業中、生徒に指名して答えさせた内容は、いわば公式上の発言であって、「本当はこうだと思うけど、まぁこう
答えておいた方が先生は授業やりやすいだろう」と思って言うことさえ少なくありません。特に研究授業の多い
国立大学の付属小・中学校の児童・生徒や高校でも進学校の生徒に多いものです(自分自身の経験からも)。
ところが、意外に大事なのは、授業中こちらが何か話したり、問いかけたりしたときに、そこここで聞かれる生徒の
ささやきです。
これは文字通り、生徒の本音だからです。これは教師の方はご経験有ると思いますが、意外と後ろ
の生徒の声まで聞こえるものです。こちらが関心を持って聞き耳を立てているということもあるからでしょう。それで
この、ささやきの中には、もちろんこちらの意図通りの反応もありますが、
思ってもみなかった誤解、勘違いからの
それも少なくありません。これらをとりあげて、ささやいた者のプライドを傷つけないように、その考えがどうして誤っ
ているかを説明していくことは、ささやかなかった他の多くの者をも正しい認識に導く、またとない方法だと考えま
す。
実際はなかなかうまくいきませんが。ところで、わが栃木県出身の「つぶやきシロー」私意外に面白くて好き
だったんですが、今どうしているんでしょうかねぇ。

 
その31:教師の一言が生徒の「運命」を左右する!?
私が最初に担任をしたときのことです。3年生のときでしたか、ある、ひらめきはないが努力型の、クラスでずっと
2番の成績だった生徒と面接しました。非常に頭のいい、別の生徒がずっと1番を維持していました。そこで何の
気なしに「君は、おそらくずっと○○(1番の生徒)を追い抜けないな。」と言ったそうです。そこで2番君は「何くそ、
絶対卒業までに1番になってやる!」と思ったそうです。そして見事、後半には本当に1番になってしまったのです。
彼は東京へ出て、電気会社に勤めながら夜間、大学に行き、そして何と私の仲間、すなわち高校教諭(工業)に
なったのです。実はこの話、私自身はすっかり忘れており、後年の同窓会の折に、彼から聞かされたのです。
何の気無しにいったことが、
この場合はたまたま彼の発奮を促して、いい結果になったからよかったのですが、
もしここでくさってしまっていたら、と思うと、教師の一言は本当に重いものだ、とつくづく感じました。

「やぁ、あれは君が発奮すると思ってわざと言ったんだよ」って言えるような「教師」ではないんです。私は。

 その32:実践上の小さな技術(8) 生徒を授業に「巻き込む」!?
いい授業をするためには、なるべく多くの生徒が授業に参加している、という参加意識をもつように配慮すること
が大切だと思います。グループ学習という発言競争はそこから思いついたのですが、毎回この形式でできるわけ
ではありません。普段の教師の説明中心の授業の中でも、生徒の発言があったら(それこそつぶやきでも)、「今
○○君が言ってくれたように〜」という形で説明を進めると、○○君は「あ、僕の発言が授業に生かされているん
だ」と思ってくれるのではないでしょうか?つまり自分がこの授業に出ている意義を見いだすことができるわけで
す。私は極力こういう言い回しを使うようにしています。それがたとえこちらの意図と反対のことを言ったとしても、
「今××君はこういったけど〜」というように使うことが出来ます。もっともこの場合は彼の意見を否定する形でとり
あげるわけですから、そこには十分な配慮が必要です。
要は、どんな発言をしても、それをなるべく無理なく自分
の意図する授業内容に結びつけていくことの出来る背景知識の習得ととっさの機転のきかせ方を磨くことが大事
だと思います。

 その33:ほめることの難しさ
自分自身のことをふりかえってもそう思えますが、人間は誉められることで大変な自信がつき、大きく伸びるきっ
かけを得ることが出来るものです。もちろん、注意してくれる人がいることも(年をとればとるほど)貴重なことです
が、何と言ってもそのためには注意を受ける側に相当な心構えができていることが必要でしょう。子供の場合、
それは一般に期待できません。その意味でも、誉めることは本当に大切なのだと思います。
しかし、一般的に言って日本人は誉めることが下手ではないでしょうか?(ひょっとして私だけ?)誉めることが
自然に出来る人を見ると、私など本当にうらやましくなります。
生徒を誉めるのに、ただやたら誉めてもいけません。高校生ともなると誉められるのも怒られるのもベテランです。
いい加減に誉めてもすぐ見抜かれます。
どういう点が、あるいは何をしたから誉めているのか、ちゃんと事実に
即した、他人も納得するようなことを指摘した上で誉めなければ本人も本当には嬉しくありません。そしてそのた
めには教師は1人1人の生徒を、よく観察し、良さを見抜く力をつけなければなりません。

 その34:小テストの効用
今、学習指導要領の改訂により、基礎学力の低下が心配される、との声があがっています。小学校でも、総合
学習の展開とともに漢字・計算などのドリルを採り入れている所が多いと聞きます。そこで翻って私自身の授業
について考えてみました。私は基本的にあまりテストというものが好きではなく、かつて受験生がいる高校にいた
時だけ、基礎学力テストというのをやったにすぎません。今の学校は受験とは無縁ですが、やはりそれとは関係
なく、
「このあたりのことは、社会に出て最低限必要なことではないか?」と思えるようなことを出題して小テストを
やってみようと考えました。
1回目をやってみて、授業中「ちょっとわかっている生徒は少ないかなぁ」と思った
内容を出題してみて、やはりほとんどの者が理解していないことを確認できました。今までですと定期テストで
これがわかったのですが、テストを返却して解説しても、生徒は点数だけに関心があって説明などはほとんど
聞いていないのです。しかし進度の問題もあって、次の時間からは先に進まなければならない。多くの生徒が
わからないまま次にいってしまっていたのです。
それが定期テストのはるか前の段階でわかったのですから、
時間を調節して、再度説明することができ、その結果理解できるようになる生徒が少しでも増えるのではないか、
と期待しています。

 その35:子供から見た週5日制
現代社会のテストで、時事問題をいつも入れているのですが、今回「ペイ=オフ」の意味をきいてみてのです。
もちろん、正解もあったのですが、中に(笑わないでやって下さい)「学校週5日制とそれにそれにともなう学習
内容の変化」といったような迷答(?)が複数見られたのです。これでハタと思ったのですが、生徒は教師が
思っている以上に、新指導要領にともなう学習内容の変更に関心をもっているのではないか?と。生徒に例え
ば総合学習や5日制は、どのように受け取られているのでしょうか?
これまで教師側・保護者側の意見ばかり
でこの問題を論議しすぎてきたように感じるのは私だけでしょうか?肝心の生徒たちの本音はどうなのか?

もちろん、生徒の意見が最も正しいとは限らないのですが、やはりわれわれは真摯にその声をきき、受け止める
べきなのではないでしょうか?

 
その36:イチローが受けてきた野球教育 
 今、私の最も気になる天才はイチローです。遅ればせながら、この人のことに非常に興味を持ち、その試合は
なるべく見るようにしています。いったい、どのような野球教育を彼は受けてきたのか?最近、小川勝『イチロー
は「天才」ではない』(角川書店、2002年)・佐藤建『新編イチロー物語』(中公文庫、2001年)を立て続けに
読みました。その結果、彼は愛工大名電高の中村監督、オリックスの河村コーチという、いずれも型にはめずに
個性を尊重する素晴らしい指導者に教えを受けていることがわかりました。特に河村コーチはイチローと苦闘
しながら、例の「振り子打法」を編み出した人です。オリックスの当時の1軍首脳陣は、この個性的な打法を嫌い、
直させようとして、入団2年目のイチローを何度も2軍に落としました。その度に打撃フォームは崩れていたそう
ですが、イチローと河村コーチのすごい所は、決して自分たちで編み出した打法を変えようとはしなかったことで
す。また、
コーチはストライクゾーンを9分割して、イチローがどうしても苦手な「内角高め」「内角真ん中」の練習
はさせず、ヒットの可能性がある他の7つのゾーンの練習を繰り返させたと言うことです
(意識してこの2コースに
投げ続けられる投手などほとんどいない、そんなところを無理して練習することはない)。
徹底したプラス思考、
短所を矯正するより長所を大きく伸ばすやり方、私はこれこそ教育の神髄だと思いました。

 現実に私たちがやっている教育は、何十人もいる生徒をある一定のレベルまで引き上げようとする、画一化
教育です。もちろん、個の重視ということは言われて久しいのですが、これを同時にやることは非常に困難です。
でも、いずれ生徒は1人1人別の方向へ巣立っていくのですから、それぞれ違った個性を伸ばしてやることが
理想でしょうね。
 ところでイチローは中学時代、数学を除いて非常に優秀で、頑張れば東大も夢ではないと言われていたそう
です。でもそのイチローが、「社会などは暗記ものなので楽なんですが」と言っていたのは少し残念でした!

 
その37:佐々木賢『親と教師が少し楽になる本』(北斗出版、2002年)を読んで
 
かなり衝撃的な本でした。「学校の荒れた状態と学力低下は日本に限らず、発展途上国をも含めた世界中の
問題」「今、日本で行われている教育改革は既に欧米で実行済みであり、ことごとく失敗している」「生徒の荒れ、
学力低下を教育の改革のみで改善することはできない」などなど、内容のほとんどが現状に対するネガティブな
指摘に終始しているのですが、優れているのは、著者が今の私と同じように定時制高校に長年勤めていただけ
に、
非常に現実を直視した指摘であるという点であり、「うん、そうそう」と思わず納得しながら読み進めてしまい
ました。ただ、では、
この現状の中でどうすればいいか?ということに関しては、現実の世界で大人が困っている
ことについて、若者たちにその解決を頼む
(例えばイギリスでは自然保護の仕事を若者たちに依頼、アメリカでは
公害調査を州政府が高校生に依頼など)ということがあげられているのみなので、正直少し淋しい気がしました。
しかし、
とおり一辺倒の理想論的なものとは大きく異なり、深く考えさせられる本です。

 
その38:教材化のためによく使う本
 
ある授業をつくる際に、最も大切なのは当然ながらそのテーマに関する、できるだけたくさんの本にあたる、と
いうことだろうと思います。そして理想は、専門書も含めて全ての本を読破することですが、現実問題としてそれ
は不可能です。そこで私が重宝しているのは(歴史の場合、通史ものは当然ですが)、新書です。
新書はその
テーマに関しての第1人者が自分の専門研究を比較的わかりやすく紹介する内容のものが多く、なおかつ専門
書と大きく異なり、安価で求められますし、またたいていの図書館には所蔵しています。
私の授業案には、この
新書のおかげでできたものが、かなりたくさんあります。

 
その39:教材の「新鮮さ」について
 
オリジナリティーの高い授業案を作ろうと思えば、1つについてかなりの時間を費やしてしまいます。したがっ
て、いったん「完成」すると、どうしてもそれを多年にわたって使い続けることになるのです。そうすると、それを
受ける生徒たちにとっては初めての教材ではあっても、
教員自身はだんだんマンネリになってしまうのです。
実際の授業は、何回も実践し、生徒の反応がある程度把握できた上で行った方が、より完成度は高まり、まと
まりのよいものになるのですが、何と言うか、
教員の「この教材を生徒にぶつけてみよう!」という覇気が失わ
れていき、
何となく生徒たちに悪いなぁと思ってしまうのです。
 やはり
教材も「鮮度」が大切なのでしょうか?しかしそうは言っても、実際にはそのテーマを考え直すより、ま
だ教材化していないテーマを採り上げてみたいという気持ちの方が強く、しかもそうした
オリジナル教材はなる
べくたくさん持っていた方がいい
に決まっていますから…。ほんと、つらいところです。

 
その40:マスメディアの威力
 
現代社会のテストでは、もう何年も前から「テレビや新聞のニュースに関心を持ってもらいたい」という願いを
こめて、時事問題を採り入れています。先日の定期テストでは、当然ながら北朝鮮の問題を出しました。ここで
私はマスメディアの威力の大きさをあらためて思い知らされたのです。なぜなら、答えに出した「拉致」という
漢字を正確に書けた生徒が何人もいたからです。正直言って、私自身もこの報道がなければ書けなかったで
しょう。生徒たちが関心をもって見てくれたというよりは、
普通にテレビを見ていてもそれだけ北朝鮮問題の
報道が繰り返しなされ、彼らの目や耳にも自然に定着してしまった、
というのが本当のところかもしれません。

 
その41:「みのもんた、思いっきりテレビ」に学ぶこと
 授業で「てづくりプリント」を使うことは多いと思いますが、問題を考えていくことで、学習目標に到達するように
順を追ってつくっていくと、
途中で生徒に気づかせたいことを前提にさらに話を進めていきたいことがよくあります。
そんな時、もし同じ1枚のプリントの後半部分にその答が出てしまっていたら、興ざめで、勘のいい生徒であれば
すぐ気づいてしまいます。こうした場合、あの「みのもんた」さんがやっている「思いっきりテレビ」の、パネルで隠
してある部分をぺらぺらとめくる、ということで次の答が出てくる、というあの方法はとても効果的だと思います。
この方法をとっているテレビ番組が他にも多いのは、少なくとも制作現場ではこれが視聴者にとって非常にわ
かりやすいと判断しているからでしょう。しかし、授業では、この方法をとることは困難です。そこで、私の場合、
例えばB4、1枚でプリントをつくった場合、右側半分の方に左側で考えさせる問題の答をもっていくようにして、
半分に切って、授業の流れに沿って後半部分はあらためて配る方法をとっています
。ただ、この方法の欠点は、
少し配るのに手間取ると、間延びして授業の流れがいったん止まってしまうことです。

 
その42:2学期制について
 私の住んでいる市の小学校は、近い将来、2学期制に移行することを決めたようです。学期末の雑務(?)を
減らして、授業時間を確保することがねらいのようです。確かに、
終業式や始業式だけに1日をとられるのは、
5日制の今日、もう時代遅れではないかと思われます
(もっとも小学校では、式の日も授業はあるそうです、た
だし中身はお楽しみ会とか行事だそうですが)。ある高校では、既に実施され、生徒の反応も概ねいいようです。
ただ、高校や中学の場合、一般的に言って、定期テストの後の授業は、学習意欲が低下し、なかなかやりづら
いものです。2学期制になって、冬休み前後にテストがなくなっても、生徒は何となく落ち着かなくなることが
予想されます。まぁ全体でそうなれば、落ち着くかも知れませんが、やってみないとわかりませんね。

 
その43:第2回日韓歴史教育者シンポに参加して
 
昨日(2003年1月12日)、東京の明治大学で開かれました。日本側の主催は歴史教育者協議会と日韓歴史
教育者交流会です。内容は日韓双方から小・中・高と1本ずつ計6本の授業実践報告があり、それについての
討論が行われました。結論から言いますと、
まだまだ双方の間のみぞは深いというのが実感でした。それは韓国
のある先生からの
「日本では今でも天皇を神として教えているのか?」という質問にも示されていました。全体と
して日本側の実践は、大日本帝国と日本軍の行為を非難し反省する、韓国側のそれは(こうした会に参加されて
いる開明的な先生方だからでしょうが)日本の非道を指摘する一方、一部日本人には日韓平和に努力した人々も
いた、というようなものでした。
はたしてこうしたやり方で本当の理解は進むのか?少なからず疑問に思って会場
を後にしました。もちろん両者の間の溝は、少しずつでも埋めていかなければなりません(
私は急がば回れだと
思っています
)。

 
その44:既有知識と歴史授業
 
今年度、私が短大で行った「日本史概説」の講義をとった学生の中に、帰国子女がいました。彼女は最初の
アンケートに「日本史はよくわからない」と書いていたので、大丈夫かなぁと思っていましたが、いざ発問競争に
よる授業が始まると、他の日本で生まれ育った学生よりも適切な判断をして発表していたので、とても驚きまし
た。この例から考えると、
必ずしも既有知識というのは必要なものではなく(あればそれにこしたことはないのか
?それについても今の時点では断言できません)、
教師が適切な情報(資料)を提示していけば、歴史の授業は
十分に成り立ちうるのではないか
と思うようになってきました。そしてもし、既有知識のない(あるいは少ない)
生徒がとんでもない判断をした場合、
そこにはかえって歴史を考えるということの本質的なことが潜んでいるかも
しれません
(例えば「魏志倭人伝」から邪馬台国の位置を考えさせる場合など)。

 
その45:荒木肇『静かに語れ歴史教育』を読む
 何気なく買ったこの本は、かなり私見と近いものがありました。一つ引用します。「
自分なりの考え方にたどりつこ
うと努力する子どもの姿勢を認め、励ましてやればよい。…歴史の授業には完全な正解はない。出てくるのは事
実を元にした推論であり、教師も子どももそこでは対等な関係になる。
」確かに短大の学生を教えていると、彼女
たちは教科書を絶対正しいものと信じ切っています。一生懸命暗記した(させられた?)内容だからよくわかります
が、これが最大公約数的な一つの考え方だと知ると、大変驚きます。でも実は、そういうより確からしいことにたど
りつこうとする姿勢、そしてその過程が大事だと私も思います(出窓社、1998年刊、1600円)。

 
その46:お釈迦様の手
 
45で「歴史の授業に正解はなく、大切なのはいろいろな根拠をもとに真剣に考えていく過程」ということに同意
する旨を書きましたが、実際もし受験校などでこうした授業を続けていたら、親や本人からクレームがきてしまうで
しょうね。ではやはり、一見生徒に自由に考えさせながらも、実際の所は教師が用意してきた答えにたどりつくよう
に誘導していくべきなのでしょうか?折衷案として、やりやすい部分では生徒主体で、そうでない所は教師主導で、
という方法もあるでしょう。
しかし、間違いないのは、仮に「一見…」のやり方でやる場合には、教師はその手の中
で生徒が相当自由に活動していると感じさせるほどの、つまりはお釈迦様になれるような事前勉強が必要だという
ことです。

 その47:それ以上でも以下でもない
 
46と矛盾するようですが、いくら努力しても、お釈迦様の域には達することは出来ません。「私は私以上のもの
ではなく、また以下のものでもない」
のです。しかし、この言葉は決してネガティブな意味で使っているわけでは
ありません。今現在の「私」の力を少しでも向上させる努力はできるはずですし、またそれをしなかったら教員とは
言えないでしょう。授業を行っていく上で、生徒たちに尊敬されるような人間になることは、大変有効です。しかし、
どんな質問にもたちどころに詳しく答えられるわけではありません。私など、質問にうまく答えられないこともたび
たびです。しかし、少なくともそうした場合に、
なるべく早く調べて答える(あるいは生徒自身に答を見つけさせる
よう指導する)、という姿勢を示すことが、少しずつでも生徒たちの尊敬とはいかないまでも、信頼を得ていくこと
につながるのではないでしょうか?
無学無能な私にできるのは、せいぜいそれくらいのことです。

 
その48:テスト問題でのひと工夫?
 
ま、工夫と云うほどではないですけど、暗記した内容を聞くというこれまでの形式から脱却するには?と苦悶
している中で思いついたのが、「授業中した雑談の内容を聞く」ということです。あ、もちろん学習内容に関係の
ある雑談です。生徒は教科書、それと特にノートを復習してくることが中心でしょうけど、
「ノートには書かなかっ
たけど、例えば具体例として話をしたこと」を学習内容と結びつけて思い出すことができるか、聞いてみる
のです。
評価は何と言ってもふだんの授業の取り組み方に対して行いたいものです。こうした問題を繰り返し何問か入れ
ていくことによって、「あぁ、授業は出席しなきゃぁいけないな、出席しても寝ていてはダメだなぁ」と生徒が実感し
てくれればいいのですが…。

 
その49:加藤公明先生のこと(1)
 千葉県の公立高校に加藤公明先生という方がいらっしゃるのをご存じですか?『考える日本史授業』『同2』
など実践例をもとにした著書をたくさん出しておられますが、その内容は私が理想とする授業になっています。
ポイントは
徹底して生徒たちに討論させ、出てきた答が正しいかどうかよりも、自分なりの説をつくらせてそれを
クラスの中でより科学的な、論理的なものに昇華させていく過程を通して歴史そのものを考えさせるようなしくみ
をつくっている
点です。ぜひ、より多くの方々に知っていただきたい授業です。加藤実践についての卑見は…次
回にしましょう(加藤先生の上記2著はいずれも地歴社刊)。 

 
その50:加藤公明先生のこと(2)
 
加藤先生の実践の中で、最もすごいと思うのは、生徒たちの自分なりの説を、徹底的な討論を通して科学的・
 論理的なものに昇華させていくところです。教師の支援があるとは言え、生徒たちがよくできるなぁと、思って
 しまうのです。そこで千葉県のある知人にお尋ねしたところ、加藤先生が勤めた3校は、いずれも中以上の
 レベルだそうです。つまり、
もともと生徒の資質に比較的高いものがあり、それ以下の高校でそのまま実践
 しようとしても無理がある、
という私の予想が確認されました。そこでわかったことは、加藤先生の実践は日本
 で最高レベルなことは間違いないとしても、そのまま普遍化はできない、ということでした。高校は学校ごとに
 本当に内容は異なります。
加藤先生の実践の中の何が生かせるのか?どう「自校化」できるのか?が最大の
 課題だと思います。

 
その51:NHKスペシャル「学校は変われるか第1回」を見て
 
学力向上がテーマで、様々な改革に取り組んでいる小学校と高校の実例が紹介されていました。このうち、
 東京都立日比谷高校では、生徒・保護者の希望に基づき、一流大学への合格者を増やすことを具体的な
 数値目標にしていました。
 その中で授業風景が紹介されたのは、世界史の教師でした。数分間でしたが、ナポレオンの具体的なエピ
 ソードも紹介していましたが、あとは
徹底した受験技術の伝授でした。おまけに、東京都では義務化されて
 いる予備校での講習で、この教師は模擬授業をして、予備校の講師から「もっと『これは○○大学で出た』
 とはっきり言っていい」などとアドバイスを受けていたのです。
 私は暗澹たる気持になりました。これでは完全に高校の予備校化ではないでしょうか?私が目指そうとして
 いるものとは全く対極にある授業(いや、あれは授業ではない、講習です!)でした。
 
験校に集まってくるような資質の高い生徒たちにこそ、私のような授業をぶつけてみたい!でもそんなこと
 を徹底してやったら、生徒や保護者からのブーイングがすごいでしょう。
このあたりに、現在の教育の根本的な
 問題点を感じてしまうのです。

 その52:教育テレビ「わくわく授業」を見て
 
題は「歴史を見る目」で、小学校6年の歴史の授業が紹介されました。内容は「江戸時代の農民は貧しかった
 か、貧しくなかったか」と子どもたちに問題をなげかけ、同じ五公五民でも生産量そのものが増えれば、農民
 の手元に残る量が増えていくことに気づかせていくものでした。
 つい最近、同じようなテーマのホームページを作成したので、「へぇ、こんなことをしかも小学校でとりあげる
 先生もいるんだなぁ」と思いました。
 しかし、実は五公五民の基礎となる村高を算定するための検地が、江戸前期でほぼ終わり、いわば分母に
 入らない部分が増えていったことにまでは、話は及んではいませんでした。小学校段階でそこまで突っ込む
 のは無理なのでしょうか?
 その後、地元の米の生産量を示した本物の古文書を見せ(触れさせ!)これに詳しい博物館の研究員を学校
 に招いて解説を聞かせたこと、千歯こきとそれ以前の簡単な道具で実際に子どもたちに脱穀させて、採れ方
 の違いを実感させたところは、大いに感心させられました。
 
博物館は、ただ来館者を待っているような時代はもう終わって、積極的に学校と連携して、博物館の方から
 学校へ出かけていって、実物のよさをPRすべきだと強く思います。

 その53:イチローの名言
 
その道で、行き着くところまで行ってしまった人の発言には、名言と呼べるものがあります。『文藝春秋』2003
 年12月号に、イチローが大リーグ3年目の今シーズン、嘔吐などもして苦しんでいたことが書かれていて驚き
 ましたが、それは彼が打つために考えつく限りのすべての準備をしていながら、結果が出ない時期があったか
 らです。そうした中で彼は
「準備というのは、言い訳の材料となりうるものを排除していく、そのために考えうる
 すべてのことをこなしていく、ということですね」
と発言しています。
 なるほど、研究報告(論文)の発表や、授業の準備でも、自分が考えられることはすべてやっておく、というのは
 最低(?)なすべきことなんでしょうね。「思いついていたのに、あのことをやってなかったからうまくいかなかっ
 たんだ」というのは言い訳になってしまうわけです。
 そして、まずは
「やっておくべきこと」がいかにたくさん思いつくかがまず勝負でしょうし、またそれを完璧にやって
 おく実行力も大切でしょう。

 
その54:「ミュージック・オブ・ハート」を見て
 少し前の映画ですが、先日DVDで見ました。ニューヨークの貧しい子供たちが通う学校に赴任した臨時の音楽
 教師が、バイオリンの指導を通じて彼らに生きる勇気を与え、ついにはカーネギーホールでのコンサートまで
 成し遂げてしまうという、実話に基づいた内容です。主人公の女性教師のレッスンは、汚い言葉なども使って
 非常に厳しいものです。ある時、生徒の母親が「うちではずっとほめて育ててきたので、厳しい指導はやめて
 ほしい」と訴えます。そこで教師は次のレッスンの際に、すごくがまんをして優しく指導したのです。そうしたら
 生徒たちは
「先生らしくない。いつものように厳しくやって欲しい」と言いだし、その問題の生徒までもがそれに
 同意しました。
 私はこの場面をみて
「例え厳しくても、それがその先生のやり方であれば生徒はそれを認め、受け入れていく
 ものなのだなぁ」
と思いました。もちろん、ただ厳しいだけで実はやる気がなかったり、生徒たち自身がその効
 果を実感できていなければだめでしょうが。

 
その55:話芸は身を助ける!?
 先日、春風亭小朝の独演会に行って来ました。私は落語がとても好き、とまではいきませんが、この小朝と、
 あと先年亡くなってしまった桂枝雀の2人は大好きで、枝雀さんの独演会も5〜6回行きました。
 小朝の前に前座の人が一席、そして小朝が休みを挟んで二席話をしました。やはり、同じ落語でも全然違う
 んですね。前座さんのは、何というか一生懸命やってはいるのですが、それだけに余裕がなく一本調子、そ
 れに対して小朝さんは出からして余裕綽々、テレビなどではできそうもない枕の話ですでに皆爆笑、完全に
 小朝ワールドへ引き込んでおいてから、抑揚の利いた話芸を展開していきました。
 私は授業の上での話芸は、ある程度落語とも共通すると思っています。内容が良ければ話し方なんて2の次
 という考え方もあるでしょうが、
私は内容も良く、なおかつ話し方もうまければさらに効果的であり、教師は
 (特に高校教師)もっと話す技術を重要視していい
と考えます。

 
その56:「わくわく授業」有田先生の授業
 ビデオなども既に出ていますが、恥ずかしながらこの間のテレビで著名な有田先生の授業を初めて見ました。
 いやぁ、やはり「名人」と言われるだけあって、さすがにうまいですね。抜群に面白く、小学校2年生相手の
 授業でしたが、すっかり自分自身が楽しんでしまいました。
 御覧にならなかった方のために、示されたポイントを紹介します。ポストを児童に質問しながらつくっていく
 ことを通じて、社会への目を開かせるという授業でしたが、
(1)子供との関係作り(飛び入り授業のためこれは
 重要と思われます)(2)子供の「気づき」を引き出す(3)身近なものなら盛り上がる(4)「とぼけて」子供の発言を
 引き出す。(4)ほめたり、ゆさぶったり(5)「はてな?」をたくさん引き出す
、などがあげられていました。
 私は、自分の授業作りにあたっては、有田先生のやり方に最も影響を受けています。例えば開国の授業で、生徒
 たちに黒船を描かせてみる、のも先生の模倣かもしれません。
 これらのポイントのほとんどは、高校生に対してもあてはまるのではないでしょうか?さすがにわざと間違って、とい
 うやり方が有効かどうかは疑問ですが。それと、何より
先生自身が授業をとても楽しんでいる様子がよく伝わって
 きました。このあたり、千葉の加藤公明先生の授業とも共通するところがありました。

 
その57:「残された声・ラジオが伝えた太平洋戦争」を見て
 
NHK−BS1で見ました。気づかなかったのですが、04年3月に1度放送されていたそうです。
 内容は、ラジオがあの戦争のことをどう伝えたか、あるいは伝えなかったかを克明に描いたものでした。特に印象
 的だったのは、特攻隊の兵士が出発直前に遺言のようなものを録音され、それが士気高揚のために放送された
 ということです。まもなくほぼ確実に死を迎える若者の声は、60年の時を超えて今の私にも鬼気迫るものに感じ
 られました。
 生き残った特攻隊員3人が、殉死した同僚の声を聞いて、話をしていました。3人のうち2人は「あの行動は無駄
 だった、愚かな行為をした」と述べたのに対し、残る1人は「
いや私はそう思わない。それは評論家のいう事だ。
 あれはああせざるをえなかったんだ。そう考えなければ、逝った人々にすまない。
」と反論していました。
 
この意見対立は、戦争という歴史を考える際の根本問題に関わっていると思います。
 最初にラジオ放送の場面を生徒に見せて考えさせ、最後にこの3人の論争場面を見せると、生徒達の意見はどう
 変わるか?

 
その58:燃えよ地歴・公民科教師集団!
 
今の職場の同僚4人は全員社会科(地歴・公民科)教師ですが、いずれも歴史教育に熱い思いを持っています。
 何日かに1日は、夕方から「どうしたらよりよい歴史教育ができるか?」というテーマで議論(雑談)していまして、そ
 の中からはなかなかいいアイディアも生まれています(もちろん実現できるかどうかは今後の頑張り次第ですが)。
 それでつくづく思うのです。このメンバーが同じ高校の地歴・公民科
だったら、どんなに素晴らしい実践ができるだ
 ろう!と。このことは裏返せば、高校の場合、同じ科のチームワークというのは一般的にとても悪い、ということを
 示しています。それぞれがお互いの専門に干渉しようとはせず、結果として担当している授業そのものにも口出しを
 しなくなるのです。特に若い教師が、先輩のベテラン教師から何も指導されない、忠告を受けないというのは若い人
 にとって不幸だし、それはそのまま生徒の不幸を招きます。もし、4人なら4人が、
3年間というスパンの中で綿密な
 計画を立て、一貫した教育方針、内容、方法をとって教えれば、素晴らしい教育が実現するはず
です。教科主任は
 会議の代表という役割だけではないはず
です。

 
その59:いくら教材をつくっても(1)
 05年の12月に栃木県歴史文化研究会内の組織として、歴史教育セミナーを立ち上げました。これは、地域史料
 の掘り起こしとその教材化をめざすのを目的としたものです。そこで、地域史料の有効性については確認されまし
 たが、
実際の学校現場で使ってもらえるのか?という疑問が出されました。
 個人的には、年数十時間の授業の中で十分に組み入れることができると考えますが、こうしたものをとりいれる
 時間的余裕がない、というのも現場の実感のようです。そしてそれは、特に高校で(特に受験生の多いところで)
 顕著だと言うのです。そこで考えられる現実的方策としては、1時間の中の5分でもいいから地域のことをとりあげ
 てもらう、あるいは総合学習(実際現場ではこの扱いに苦慮しているようです)の中で、数時間(?)分のメニュー
 を提供する、などの意見が出ました。全体(中央)の歴史を扱う中で、5分くらい「この頃、この地域では…」とやる
 のは好きではないのです(理由は別の機会に述べます)が、まぁ次善の策としては仕方がないのかとも思います。
 いくら中身の検討をしても、
それを実施できる機会がないのでは、何にもならないですからね。

 
その60:いくら教材をつくっても(2)
 ある方から、次のような話を聞きました。ある県で、教員、博物館などが地元の史料を使った教材集を作成、刊行
 し、県内の高校の教師、それから生徒にも全員買わせたそうです。ところが、ある時、
先生方の集まりで、その教材
 集を使っているかを尋ねたところ、1人も手をあげなかった
そうです。作りっぱなし、配りっぱなしの極致です。
 私も現場の教師時代に、いろいろな冊子が学校に来ましたが、正直活用できたものはほとんどありませんでした。
 なかには、気づかぬ内に図書室に配架されていた、なんていうものもありました。
 なぜ、使われないのでしょうか?冒頭の教材集なども、努力には敬服しますが、
まだ現場の授業との間には距離が
 あります。「よし、これを使ってみよう」と先生方に思ってもらうには難しい、かたい感じがする
のです。これをどう実際
 に使うのか、使えるのか、という提案がない
のです。これではよほどその内容に詳しい先生でない限り使わないで
 しょう。それともう1つ、
教科書の内容とどう関わるのか?という問題があります。教科書に出てくる内容があり、「そ
 のころ、ここ○○では…」というような内容では、先生方はあまり教育効果を感じないのではないでしょうか?そうで
 はなくて、その地域の問題が、実は教科書にも書かれている大きな問題と密接に関連しているのだ、ということが、
 史料を読み解いていくうちに、生徒たちにも実感できるような
「地域を通じて日本が、あるいは世界が見える」そうい
 う教材が理想だと思います。確かにそういうものを作るのは容易なことではありませんが、専門家と現場の教師が
 十分に連携をしていけば、私は不可能ではないと考えます。

 
その61:教師冥利につきる瞬間
 自慢話に受け取られるかもしれないのですが、先日こんなことがありました。教育委員会内の指導主事の集まりで、
 ある若い体育教師が私のところに寄ってきて、「先生に現代社会を教わりました○○です。『飛んでいる矢は止まっ
 ている』っていうのを覚えています。私はあれで社会が好きになりました。現場に戻ったら、先生のような授業をした
 いです」と言ってくれたのです。担任した生徒ではなかったので、正直忘れていました(Kくん、ごめんなさい!)が、
 他のどんなことより嬉しい言葉でした。本当にありがとう。教師をやってきてよかった、と思う瞬間です。
 でも、それと同時に、
教育の恐ろしさ、1人の人間に与える意味の大きさも実感しました。Kくんのありがたい言葉で
 私も勇気づけられ、大いに刺激を受けました。

 
その62:博学連携(お互いが歩み寄ろう)
 この間、関係の方にお伺いしたら、本県の県立博物館に学校から見学に来る小中学生は、年間約9000名、全児
童生徒数の約9%にあたるそうです。
その中で、事前に先生が博物館を訪れ、自前のワークシートを作成する学校
は?とお尋ねしたら、残念ながら皆無だそうです。
 私自身、教員の時に生徒を博物館に連れて行って指導したことはないので、偉そうなことは何も言えないのです
が、やはり教員はもっと、こうした施設の利用を積極的に進めていくべきでしょう。その一方で、博物館・資料館側も、
もっと学校に利用してもらいやすい方策を進めていくべきではないでしょうか?
お互いが歩み寄り、意見を交換して、
より子どもが来て楽しい(学びの上での楽しさという意味です)博物館見学が増えて欲しいものです
。子どものための
解説づくり(テレビの週間こどもニュースの説明がとても参考になると思います)などは急務でしょう。

 
その63:発問と答えとの「距離」
 授業の実践記録を読ませていただくことがありますが、熱心でよく工夫されたものでも、とても気になる共通点があり
ます。それは、先生の話している部分が非常に多く、発問の回数は多いのですが、
生徒たちの回答は単語や語句だけ
で、1行以上にわたって生徒が述べるような場面がほとんど見られない
ことです。
 たぶん、私自身の授業記録をとったとしても、同じようなことになるかもしれません。グループによる発言競争は、そ
れをなくすための試みであったわけですが、もちろんなかなかうまくはいきません。
 今から37年前に、大田堯氏は、当時の日本の教育危機の本質を「
問と答の距離が非常に短くなっている」という言
葉で表現されています。氏は次のようにも述べています。「
問と答との間を曲がりくねって考え抜いていく過程、その
間で人間は発達をとげる
「いわば問と答との間には教育と学習との本質があるのであり、教師はいわば、問と答との
間に勝負をかけているといってもいいのだ
」(大田堯『学力とは何か』国土社、1969年)。
 大いに共感させられる言葉です。自分の目指していることは決して間違っていない、と少し意を強くした次第です。

 
その64:「分かる」とは「分かり直すこと」
 06年夏の全歴研栃木大会、第1分科会での宇都宮大学松本敏教授のコメントの中に、ハッとさせられる一言があり
ましたので、ご紹介します。中学校の先生が、奈良時代の農民は貧しく、苦しかったという固定的なイメージをくつがえ
す授業をされたことに関してのものです。「何が正しいのかという所が気になる先生は、多分、疑問に持たれたと思う
んですね。『豊かだったとは言えない』、当然そうなります。いろいろ勉強していけば、やっぱり普通の感覚で言えば、
貧しかった、に戻るのは当然だと思うのですが、その貧しかったに戻るといっても、じゃあ貧しくないかしれないと考え
ることは無駄か?ということなんですね。
貧しくないかもしれないと一回考えることによって、もう一回『貧しかった』に戻
った時には、一周回ってきて『貧しかった』になりますので、思考は確実に深まっているんじゃないでしょうか。
その辺の
ことを、『分かる』ということをですね、一回きりで分かるということは、実は人間にはあまりなくて、単なる物の名前とか
は一回で分かるということはあるんですけれど、ちょっと抽象的なことになれば、
まず一度分かって、また分からなくなっ
て、分かり直して、また分からなくなって、というのを繰り返していくはず
ですよね。だから『分かる』というのは『分かり
直すこと』だ
と思うんですけど、揺さぶりはそのためのすごく重要な道具だと思うんです。」…私はこのサイトの中でも、
江戸時代の農民は貧しかったのか?などの固定イメージを突き崩そうとする話を紹介していますので、大いに勇気づ
けられるお話でした。

 
その65:教師は「自営業」?
 ずっと前から思っていることなんですが、教師(少なくとも高校の)は、まぎれもないサラリーマンではあるものの、一
面では自営業者みたいな部分もけっこうあるのではないでしょうか?つまり、クラス経営や授業について、もちろん大
きな学校の方針とかはあるわけですが、実際の細かい部分については、担当者の自由裁量がかなり許されているの
です。特に、肝心要の授業についても、教科の打ち合わせで、進度とかそうしたことには調整が図られますが、授業内
容や方法そのものは担当教師が、企画、運営ほぼすべてを行えるわけです。
 私はここに、教師のよさと悪さがいずれも出てくる余地があると考えます。つまり、他からほとんどとやかく言われるこ
とはないわけですから、十年一日の如くいつも同じことをやり続けていても、生徒は年々変わることもあって構わない
わけです。自分を磨く努力をする必要がないのです。しかし、これをまったく逆にとらえれば、教師は少しでもいい授業
ができるようになるために、いわば「実験」ができるとも言えるのです。
自分で授業を変えようと思えば、明日からでも
変えることはできるのです。こんな素晴らしい仕事ってあるでしょうか?
この自営業的部分を最大限に有効に用いて、
いい授業をしたいものです。

 
その66:「神は細部にやどりたまう」 
 この言葉は、加藤公明先生の本『わくわく論争 考える日本史授業』(地歴社)で知りました。故黒羽清隆氏が、教材
開発のモットーに使われたものだそうです。たった1点の資料でも、それによって生徒たちを引きつけ、学習内容に迫ら
せることができる、いやむしろ全体的なものよりそうした具体的なものだからこそ、生徒は食いついてくる。これは私自
身のつたない経験でも、激しく同意することができます。たとえ政治・経済など、生徒にとって堅苦しく、抽象的な内容
でも、
選んだ教材の中に、具体性がある、もっと言えば人間の顔が見えるものであれば、関心を示す。これは現場で熱
心に取り組んでいる先生にも共感してもらえた視点です。いかにこうした、「神が宿る」ような魅力ある素材を見いだすか、
これは地歴・公民の教師にとっては大切な課題だと思います。

 
その67:「歴史は面白いだろう?」は禁句
 高校時代のある教科の先生は、いつも授業の最後に大きな声で、「どうだ、面白いだろう!?」と言うのが口癖でした。
私はその科目は比較的好きだったのですが、毎回毎回そう言われることがどうにも押しつけがましく感じられたのを記憶
しています。授業づくりを積み重ねていくうちに思い至ったのですが、
「面白い」ということ自体を教師が言ってしまっては
いけないのではないでしょうか。
この言葉、あるいは思いは、生徒自身に言わせる(感じさせる)べきものではないでしょ
うか。
教師は、そうさせるために、できうる限りの準備をする。そこまでが教師の大切な仕事ではないかと思うのです。
理想は、その授業なり1単元、さらには科目全体で言いたかったこと、わかってほしかったことも生徒自身につかませる
べきなのかもしれません。地歴・公民科の教師というのは、とにかく何から何まで自分で言ってしまわないと気が済まない
というところがあるような気がします。

 
その68:「研究」と「教育」の間を埋める
 
昨年(平成18年)の全国歴史教育研究協議会、第1分科会で、宇都宮大学附属中学校の小栗英樹教諭が、奈良時代の
農民は本当に貧しかったのか?という授業の報告を行いました。教科書などで強調されている農民の厳しい暮らしぶりを、
「貧窮問答歌」や「常陸国風土記」の記述などから生徒に再検討させるものでしたが、その中で多功南原遺跡(現栃木県
上三川町)で桃の種や櫛が見つかったことも資料としていました。この点について出席者から、この遺跡は一般農民のも
のではないのではないか、という疑義が提出されました。
 このことについて出席者の1人、栃木県立学悠館高校の齋藤弘氏は、今年3月に論文を発表し、多功南原遺跡は確か
に役所跡か、有力者の住まいであると指摘しています。と、ここまでなら、今までの研究者もやっていたことだと思います
が、齋藤氏の論はここでとどまらず、ご自分の発掘経験から、他に東日本に多く見られる奈良時代の竪穴住居跡の遺物
を紹介し、小栗教諭のとりあげたものとは異なる考古学的実例から、同じような趣旨の授業はできる、と主張しています。
私はこれを拝読して、
非常に見事な形で「教育」と「研究」がタイアップすることができた、と感じました。世の研究者には、
こういう姿勢こそ、見習ってほしいものです。

 
その69:アマチュアとプロ
 
先日、中学校の歴史の授業を参観し、あわせてその検討会にも参加する機会がありました。とにかく一番感心したのは、
中学校の先生方(一部小学校の先生も参加されていました)が、県内の地区ごとに、こうして熱心な授業研究を積み重ね
ていらっしゃることです。はっきり言いまして、高校の教員はこうした努力をしておりません。今のままでは、いつまで経って
も授業のレベルは上がらないでしょう。
 ところで検討会の中で、多くの参加者が「内容が盛りだくさんで、もっと精選すべきだった」という意見を述べていました
が、その中でおひとりだけ、「1年に1度くらい、こうした教師が一生懸命調べた内容を、たとえ盛りだくさんでも生徒たち
にぶつけてもよいのではないか。生徒には、教師の熱意が伝わるのではないか」ということを言われた先生がいらっしゃ
いました。授業を行った先生の努力にはどなたも敬服していたようで、特にこれに対する反論はありませんでした。私は
お邪魔虫だったので、何も発言はしませんでしたが、このことに対する意見は以下のとおりです。すなわち、この意見に
は、確かに感情的にはとても共感できる部分があるのですが、
教師はあくまでもアマチュアではなく、授業のプロである
という点から考えると、そうした副次的な感動を生徒に与えることを期待するよりも、あくまでも授業内容とその効果を考
えることに徹するべきではないでしょうか
皆さんはどうお考えですか?  

 
その70:子どもの視線の先は…

 文書館で実践している授業支援の様子を写した写真を見て、考えたことがあります。小学校1年生の授業なのですが、
教卓の前に集まって、本館職員が開いている江戸時代の変化朝顔の図録をみんなで見ている場面です。子どもたちは
もちろん、その史料も見ているのですが、
何人かは、図録を開いて見せている職員の顔を見ているのです。職員は、と
てもいい笑顔をしています。

 これを見て、私は、
子どもたちは自然に、史料だけではなく、その史料をこの先生はどういう気持ち、姿勢で私たちに
見せているのだろう?ということを感じ取っているのではないか、それでその時、先生がとても熱心に、また楽しそうに
見せている様子を見て、子どもたちもよけいにその教材にのめりこんでいくことができるのではないか?
と考えました。
よく子どもは親の背中を見て育つ、と言いますが、教師と児童・生徒間でもこのことは十分にあてはまるのではないでし
ょうか?ましてや高校生は、受験校であるなしに関わらず、「先生に教えられる」ことについては、ベテランです。「先生、
ようやるわ」と思いながらも、半分は先生の授業にかける努力を認めていると思います。「決して好きにはなれないけど、
あれほど熱心に先生がやっているんだから、話だけでも聞いてみようか」という気持ちになる生徒も出てくるはずです
(ちょっと甘いでしょうか?)
 とにかく授業には熱心に取り組みたいものです。
※書き終えて、上の69での主張と矛盾しているようなものになっていると気づきました(汗)。あくまで授業内容を優れた
 ものにすることが主で、それに加えてここで述べているようなことができていればなおよいのでは?とご理解ください。

 その71:小学1年生にとっての「昔」とは                             
 上で書いたのと同じ授業に、今度は私が参加してきました。これまで何回か行ってきた授業支援の中でも、最も反応
の素晴らしい授業ができ、こちらも感動してしまいました。何か、教育の原点を体感するような、そんな授業でした。
 ところで、その中で、変化朝顔の本が昔の古い本なんだけど、いつ頃のものだろう?と子どもたちに尋ねたのです。
 そうしたら1人めの子は「1994年」、2人めは「1992年」と答え、もっとずっと昔だよというと、3人めの子は「1920年」
と答えたのです(正解は160年前)。この前2人の子どもたちの答えが、素直な気持ちからのものとすると、
小学1年生に
とって昔とは、わずか十数年前のことなのです
。それでも彼らにとっては、生まれる数年も前のことですから、このあたり
を昔ととらえるんだなぁと、あらためて実感することができました。
 発達段階によって、歴史の認識は徐々に深まっていくというのは、歴史教育の本を読んで知ってはいましたが、それを
実際に体験的に学ぶことができた瞬間でした。


 その72:江戸時代のイメージを色に例えると…
 ある高校で、江戸時代後期の農村の文化についての出張授業を行いました。そこは、一般の受講生も含め、様々な
年齢層の方々が学んでいるところです。名主などが中心となって、この頃の農村は意外に文化水準が高かったこと、そ
れが明治に入って比較的スムースに学校制度が実施されていったことに関係していること、などを最後に理解してもら
おうと、「前振り」として、導入で「江戸時代のイメージを色に例えると?」という質問を生徒にしました。灰色など、非常に
暗い色が出されると予想していたのです。ところが、実際には「ピンク(270年もの間、戦争がなかったから)、「赤(江戸
ではしばしば火事が起こり、それがある意味では活気を呼び起こしていた)」など、意外な答えが次々に発表されたので、
私は正直どきまぎしてしまいました。
 授業後、「江戸時代の農民(あるいは村)のイメージは?」と少し対象を絞ればよかったのではないか、と反省しました。
教師が考えているその後の流れを考えると、誘導ともとれるかもしれませんが、それはそれで1つの方法だと思うからで
す。ただ、それとは全く別に、こうして
生徒たち(ちょっと一般の生徒と今回は異なりますが)が、江戸時代に対して持って
いる一般的なイメージを自由に発言してくれたこと自体は、悪くなかったのではないか
とも思いました。

 その73:難しいけど楽しい?
 本物の古文書を用いた授業支援を行った後、生徒たちが書いてくれる感想の中に、「古文書は難しくてなかなか読め
なかったが、楽しかった
」という内容のものが幾つか見られます。難しいのならあまり楽しくないのでは?と思ってしまう
のですが、これはいったいどうしてなのでしょう。授業内容がわかりやすい、あるいはわかったから楽しい(達成感を味わ
った)というのは理解できるのですが、どうもそうではないようなのです。ある程度の(生徒にとって適度な)難しさがあり、
それを教師のアドバイスや友達の意見を聞いたりしながら、解決していく、そこに楽しさがあるというのは私の以前からの
主張ですが、そこまでも到達していない状態でも、楽しいということはあるんですね。なぜそう感じるのか?今の私には、
はっきりした理由は予測できませんが、こういうことは言えないでしょうか?つまり、
難しいけれど、何か今目の前にして
いる教材、素材(ここでは本物の古文書、そしてそのなかみ)にとても興味がある。だから、十分には読めない、わからな
いけれど、やはり楽しく感じる
のではないでしょうか?「これはうちの生徒には難しいのではないか」と教師がはじめから
あきらめてしまうのではなく、本当に伝えたい興味深い素材であれば、その提示方法さえ工夫すれば、十分利用は可能
なものがある
のではないでしょうか?

 
その74:絵画史料の利用について
 先日、ある日本史教育の研究会で、「蒙古襲来絵詞」を用いた授業実践報告を拝聴しました。そこで議論となったことの
1つに、改竄の問題がありました。あの有名な竹崎季長の突撃の場面ですが、左側にいる3人の元兵は、後の時代に加
筆されたとの説が出ています。結局、
これを鎌倉期の同時代史料として利用してよいのかどうか、という点に絞られてくる
と思います。
 私の現在の考えは、そうした説は学界の定説になるまでには至っていないし(現にその後それに対する反論も出ていま
す)、
高校段階まではこれを史料と認めて、ここから様々な情報を読み取らせていってよいのではないか、というものです。
仮に改竄があったとして、それはなぜなされたか、という深読みをするのは大学以上の段階で取り組むべきだと思います。
 ところでこの授業の中で、ある生徒が「この『てつはう』は、空中を飛んでいるのか、それとも地面を転がっているのか?」
という疑問を発表したそうです。新鮮な視点であり、教師はこのことをきっかけにして、元軍の武器の特性(日本側とは明
らかに異なる)を調べさせていき、さらにその背景を考えさせていく授業ができるのでは?と思いました。
生徒が何の気な
しに出した、一見他愛もない発言を教師がいかに学習目標と結びつけてとらえ、それを展開させていくか、一瞬の判断力
が勝負となります
。それがうまくいくためには、ふだんの下調べを入念にやっておくことが是非とも必要でしょう(完全に自
戒をこめて)。


 その75:自分で感じることの大切さ
 先日、ある小学校で授業のお手伝いをした時のことです。明治17年の写真から、地方への文明開化の広がりを読み取る
という授業でしたが、その中で次のようなことがありました。6年生の3クラスで同じ内容の授業をやったのですが、あるクラス
では「文明開化は地方にはずいぶん遅れて伝わったと思った」という意見が出ましたが、別のクラスでは全く同じ写真史料
から「文明開化はまもなく地方にも広がっていったと思った」という感想が発表されました。この違いを、私は尊いと思いまし
た。どちらが正しいのかは比較の問題であり、もちろん中学生になれば、どこか違う国の例と比べて、などという判断ができ
るようになるかもしれませんが、
まずは自分で感じること、これが大切なのではないでしょうか。先生に言われたからでも、
また教科書に書かれているからでもなく、自分でどう感じるか、それを大事にしたい
と思うのです。

 
その76:高校生と実物史料
 明治時代の地券をもって、とある高校へ授業支援に行きました。「これは今から130年前の、本物の地券です」。こう説明す
ると、小学生の場合は「え〜!?」とか「すご〜い!」などという声を発して「あからさまに」感動を示してくれます。ところが、
今回は「…」。無言でした。(あれ〜?やっぱり高校生は130年前の実物って言っても感動しないのかなぁ?」と、少しへこみな
がら、ともかく支援授業を続けました。ところがです。数人のグループに地券を1枚配って観察させたのですが、側へ寄ってい
ろいろ話をすると、よい反応が返ってきて、問いかけに対しても真剣に考えてくれました。このやり方が高校生の場合、奏功
したものと思われます(教科担当の先生のアイデアでした)。さらに、しばらくして送られてきた生徒たちの感想を読んでみて
驚きました。「130年前の本物の史料を見られてよかった」「とても授業がわかりやすかった」など、小学生の驚きをそのまま
文にしたような内容が多くあったのです。これを見て考えたのは、
高校生もやはり本物には驚きを受けていたんだ、しかし
発達段階の違いから、それがストレートに表現されていなかっただけなんだ
、ということです。元気を取り戻し、また貴重な
経験ができたことに感謝しています。
 
 
その77:実物の「におい」をかぐ
 古文書を教室に持ち込んでの授業支援を行っていますが、その際子どもたちは、和紙にさわってそのザラザラ感を実感し
ています。しかし先日の研究会で複数の先生方が、実物を持ち込んだ時に必ずといっていいほど行うことに「においをかぐ」
ことがあげられる、とおっしゃっていました。なるほど、
子どもたちは視覚、触覚だけでなく、嗅覚でも何かを感じ取ろうとして
いるのかなぁ
と考えさせられました。そういえば古文書にも、何となく独特のにおいがありますからね。考古学が専門のある
先生によれば、縄文式土器と弥生式土器とでは、においが違うそうです?これって本当?それなりの根拠があるんでしょう
か??

 
 その78:授業は「なまもの」
 先生方には周知のことですが、これから教員をめざす若い人へ。研究授業などで指導案をつくると、それをどうしても予定
どおり終わらせたくなります。しかし、実際の授業では、思いがけない生徒たちの反応などで予定どおりに進まず、時間が少なく
なってしまう場合もあるでしょう。そのような時、大急ぎで予定した最後の部分まで進めてしまうのはやめましょう。
その予定とは、
授業者にとっての予定であって、子どもたちのものではありません。
したがって、子どもたちは急いで進んだ部分の理解が十分
に得られず、一番迷惑してしまうからです。研究授業であれなんであれ、主役は常に子どもたちであるべきです。当然ながらクラ
スが違えば、反応も違ってくるのです。

 その79:授業は「総合力の勝負」
 続けて若い人向けのお話です。どんなにいい授業をしようと努力しても、授業だけうまくいく、ということはありえません。私はこ
のことを、初任校の教頭先生から教えられました。教員の仕事は、生活指導(クラス指導)、部活動、校務分掌とさまざまあり、そ
の中の1つが「授業」です。拙著でも書いたように、私はこれらの中で「授業」が最も大切なものだと確信していますが、その一方
で授業だけ努力してもだめなのです。つまり、ふだんのクラス指導、部活動などを通じて、子どもたちとの信頼関係ができていない
と、同じ発問をしても反応は大いに異なってくるのです。「○○先生が好きだから、××(○○先生が担当する科目名)が好きに
なりました」という話をよく聞きます。
つまり、授業は表面的な教える内容だけではなく、教員の言わば全人格的なものが問われて
いるのだ
と思います。何も全ての教師が聖人君子になれ、というのではありません(であれば私は失格です)。前向きのものであ
れば、生徒たちは評価してくれるはずです。教員にもいろいろな個性があっていいはずですし、そうでなかったら逆に変です。

徒たちは、こちらが思っている以上に先生方をよく見ています
。一生懸命取り組んでいる先生は、必ず評価してくれるし、それは
授業にとって大いにプラスとなることだと思います。

 
その80:ロザン宇治原さんに学ぶ
 先日テレビを見ていたら、京大出身芸人としてクイズ番組に引っ張りだこの、ロザン宇治原さんが、受験勉強のコツということで
興味深い話をしていました。
歴史の勉強法は…何だと思います?意外(?)にも「教科書を繰り返し読む」でした!なぜかというと、
歴史はよく年号や事項をとりだして覚えることが一般的だが、それだと脈絡がないので難しい。教科書を繰り返し読み、話の脈絡
の中で覚えていけばよい
、というのです。これをやれば、例えば「平安時代と鎌倉時代はどちらが先か?」という(まぁ基本的な問
題ではありますが、苦手な人にとってはけっこう難しいのかも)問題は、わからないのが不思議だ、と宇治原さんは言います。つ
まり、貴族が荘園を経営するようになり、現地で治安を維持するような人々が次第に力をもち、ついには政権をとる、という流れの
中でつかめばいいのだ、ということなのです。
 これを聞いて、私も中学時代、定期テストの勉強のためにとにかく教科書を最低5〜6回、繰り返し読んでよく理解できるようにな
り、点数もあがった記憶がよみがえってきました。英語で歴史を意味するhistoryには、物語を意味するstoryが含まれている、つま
り語られるのが歴史なんだという話は、よく知られています。やはり、話の脈絡の中で、年号や事項は定着させる方法がいいよう
です。
 ちなみに宇治原さんは、大事なところにマークはしない、
なぜなら教科書に大事じゃないところなんてないから、とも言っていまし
た。これも妙に納得できます。

 
その81:友達の意見=「もう1つの教材」
 
これは国士舘大学の北俊夫教授が書かれた「求められる子供の発言の組織力」という文章(『内外教育』6057、2011年2月8日)
の中で用いられたフレーズです。北教授はこの中で、(友達の意見は)自分の考えを補完したり修正したりして、自己の考えを確立
することに生かされるものであること、話しあい活動は自分と違った意見を認める場であり、つまずいている友達を援助する場でもあ
ること、などを述べています。
 これらは、私のこれまでの取り組み(グループによる発言競争)から照らしてみても、とても共感できるものです。
友達の意見は、教
師の説明よりも、考える視座が自分と近いので、その内容が違っていたとしても、より理解(共感)しやすいはずです。
自分とは異なっ
た多様な意見があることがわかるのと同時に、「○○さんはそんな考えを持っているのか(あるいはそんな考え方ができるのか)!」
と、友達自体への理解の深まりが期待できると思います。
 そうすると問題は、その友達から「教材」となりうる発言を引き出せる的確な発言を、教師が適切なタイミングでできるかどうか、とい
うことに絞られてきます。

 
 その82:「わかりやすさ」と「質の高さ」
 ここのところ、多くの先生方の授業を拝見する機会に恵まれ、以下のようなことを考えました。
 対象の高校生の学力が「中学1年程度だ」とか「小学校5年レベルだ」などと表現することがよくあります。それでは、授業の内容も
単純にそれにあわせてしまってよいのでしょうか。私には、どうもそうは思えないのです。
彼らは中学1年生や小学5年生そのもので
はなく、やはり高校生としての人生経験は、それなりに積んできているはず
です。ですから、あくまでも授業の質は維持していくべき
ではないでしょうか。
 その際、いかにわかりやすく伝えるか、という点では相当な工夫が必要であるとは思います。また、もちろんそれでもわからない
部分は出てくるでしょう。しかし、先生は何かとても興味深そうなことをやっているんだ、と感じることは彼らにはできるはずです。
 いかに基礎学力の低い生徒たちだからといって、こちらが準備をしなくてもいい、ということでは決してないのです。
常に教師は、
求めうる最高、最新の知識や、その伝え方を学んでおくべき
でしょう。

 
その83:授業参観のしかた 
  ここでいう授業参観とは、授業研究のために教員が他の教員の授業を見る、という意味です。数年前、ある先生から「とても素晴ら
しい授業をする先生がいる」と教えていただきました。同じ学校の課程の異なる地歴公民の先生です。そこでお願いして参観させて
もらいました。結果、確かに授業設計はよくなされていて、表面上はスムースに流れていきました。しかし、指名されて答える生徒たち
は、一応答えはするのですが、みな一様に暗いというか、はっきり言えばつまらなそうな顔をしているのです。私は、あぁこれではこの
科目の面白さは伝わらないなぁと思いました。授業後、その先生にはっきりとは申し上げませんでしたが、一緒に参観した先生に後で
聞くと、やはり私と同じような感想をもったというのです。
 私がここで言いたいのは、まずは面白いと生徒たちが感じ、いきいきとした表情で参加できる授業にしなければならない、ということも
ありますが、それ以上に、
授業をみる側の視点が、従来あまりにも授業者である教員に傾いていて、肝心の生徒たちの表情、反応、変容
の様子をつかんでいなかったのではないか
、ということなのです。教員のミスをあげつらうのではなく、こうやると生徒はこう反応する、と
いう点の確認がまずあって、その上でよりよいやり方はなかったか、という話になるのです。生徒を主役とした授業研究がなされれば、
授業研究はもっとやりやすいものになると思います。
*なお、この点に関して、「授業実践上の工夫」の「11 新しい授業研究」の方もご
覧いただければ幸いです。

 
その84:オリラジ中田氏の「しくじり授業」に学ぶ
 TVのバラエティー番組「しくじり先生」をよく見ています。その中で時々登場するオリエンタルラジオ中田敦彦氏の授業は、かなり興味
深いものです。先日は、マルクスの『資本論』をとりあげていました。はじめ生徒役の芸能人たちは、まったく興味がない様子でしたが、
中田氏による熱い授業が展開された結果、最後は大盛り上がりとなりました。これは演出かもしれませんが、その一方で、この授業は
ぶっつけ本番で、生徒役の芸能人たちの反応は(カメラを意識したものとしても)本当、という情報もあります。何より見ている側、おそ
らく本物の生徒たちも引き寄せられているはずです。
 ここで中田氏の授業から、われわれ本物の教員が学ぶべきポイントをいくつかあげてみたいと思います。
 ・著作が難しすぎて興味がもてないマルクスの、
人間的弱さを示すエピソードを紹介することで、生徒たちに親近感を抱かせることに
  成功している。
 ・難解で膨大な『資本論』の内容を、「お金持ちと貧乏な人の格差社会をなくそう」と、誤解を恐れずに
まとめて示し、生徒にわかりやすく
  伝えた。

 ・マルクスの理論に影響を受けて成立したソ連という国家が、なぜ崩壊してしまったのか、
ロールプレイの手法を用いて共感的に理解
  させた。

 ・芸人としての高い資質をいかして、
笑いをとりいれ、緊張をほぐしてテンポよく話すことにより、生徒たちの集中力を持続させた。
 ・何よりも中田氏の
熱い語り口が生徒たちを刺激し、やる気にさせている。
 もちろん、内容的な部分で批判できるところも少なくないでしょう。しかし、上にあげたようなやり方は、われわれ教員としても大いに参考
とすべき点があるのではないでしょうか。

 
その85:自分のつくった教材で他人が行った授業を見る
 はじめての経験でした。変な例えかもしれませんが、自作の台本の演劇が上演されたのを見たような感じです。しかも、生徒の話す
 台詞に関しては、まったくのアドリブ。大学の後輩でもある指導教員のひごろの指導がよかったのでしょう、各グループでとてもよい
 議論が行われていました。感動ものでした。しかもそのアドリブの「つぶやき」から、「なるほど、そう受け取るか!?」と発問の修正点
 まで見つけることができたのです。こちらが求める答えではなくても、生徒は本当に既有の知識を用いて、なかなか深い議論をしてく
 れていました。教材は「アジア・太平洋戦争への道」でしたが、実際に授業を行うことによって、こちらも本当に勉強になることを改めて
 痛感した次第です。

 
その86:「年表を見させる」のではなく「見るように仕組んでいく」
 ある先生から、「うちの生徒は、『教科書○○ページの年表を見なさい』と指示しても、実際に見るのは数名程度なんです」との嘆きを
聞きました。そこで私は、そのクラスで飛び入り授業をする際に、まず
生徒の興味を引きそうな問題(クイズ?)を出して予想させ、その
後に、問題の鍵を握る古文書を解読させ、その中で読み取れたキーワード(この場合は元号でした)から、「この天正十八年って西暦何
年だろう?これを調べるにはどうしたらいい?」と投げかけました。
すると、ほぼ全員の生徒が、自分で教科書巻末の年表を調べ出した
のです。それで、冒頭で出した問題の答えを自ら確認することができました。
ただ「年表を見ろ」では、生徒たちに何のモチベーションも
ありません。
そうではなくて、上記のような流れをしくめば、彼らは自ら年表で調べ出すのです。こうしたことを繰り返していけば、やがて
彼らは「自分で調べることの楽しさ」に気づいていくのではないでしょうか。
(なおこの授業については後日詳しく報告する予定です)

 その87:定年退職にあたって
  私は教員2年目以降、「生徒の学習意欲を喚起するような教材を開発し、それを彼らの思考の実態に合わせて構成し、さらに授業に
おいて効果的な形で指導するにはどうすればよいか」
というテーマで、ささやかながら実践研究を続けてきました。以後37年間(実質的に
教壇に立ったのは22年間)の取り組みの結果、こうした方向性で進めてきたことは、少なくとも基本的には誤りはなかったと考えています。
生徒たちにとってよい授業かどうかを判断する要素はたくさんあるでしょうが、私は突き詰めれば
「生徒たちの表情が生き生きしているか
どうか」
という点に絞られると思っています。地歴・公民科というと、本当は一番現実の生活と密接な関係のある教科であるはずなのに、な
ぜか生徒たちとの距離は、かえって離れていて、建前として学ぶ感じになっているように思えてなりません。その結果、彼らの表情には生気
がないのです。
 アクティブラーニングということで、生徒たちは教室内を動き回り、説明をしあい、表面上は生き生きやっている感じもします。しかし、とり
あげられている課題は、市販のワークブックに設定された、堅く面白みのないものである場合も少なくありません。受験に必要だから、という
モチベーションで取り組める生徒たちも一定数はいることでしょう。しかし受験が終わった後、彼らはその内容を頭や心に残せているのでしょ
うか。私は、本当に残るものは、もっと具体的で細々とした、エピソード的な内容ではないかと思います。それらをとっかかりにして、その時代
の社会や文化、人々の暮らしぶりなどについて、少しでも自分なりに話ができたら、素晴らしいことではないでしょうか。そして
「その時代でい
ろんな立場の人がいて、それぞれの場所で生きている。歴史の表舞台に立つ人を裏で支えてきている人たちがいる。私たちはこれから先の
人生で、『歴史』に対してどのような役回りをすることになるのだろう。どんな人でも一人ひとりが歴史の担い手なんだと感じた」
(1997年度、國
學院大学栃木短期大學で私の日本史概説を学んだ、ある学生の感想)といった考えをもってもらえれば、少なくとも私としてはこれ以上望む
ものは何もありません。長く、かつ短い38年間でした。ありがとうございました。



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