◎「信長・秀吉・家康について」(平成26・2014年9月 栃木県真岡市立長沼小6年)
〔授業のねらい〕
・子どもたちの疑問の中から、学習内容と深く関わるものをとりあげ、天下人3人のそれぞれの特徴を理解させる。
・3人と下野の意外な関わりに気づかせる。
〔授業の概要・流れ〕
・夏休み中、子どもたちは3人の天下人から1人を選んで、調べ学習を行った。その中で出てきた疑問点からいくつかをとりあげ、
授業を行った。
*なお、子どもたちからはたくさんの疑問点が出されたが、授業でとりあげるもの以外は、事前にこちらで解説プリントを作成し、授業終了後に配布して後で
読むように指示した。
・信長については、「いくつ城をもっていたのか?」「何人の武将と戦ったのか?」という疑問をとりあげた。ほとんどの合戦を自領
以外の地で行い、本拠とする城も次々とかえていった点は、他の戦国武将には見られない信長の特徴と判断し、プリントに居城
一覧表や、戦った主な武将一覧表をのせて解説した。その上で、天正3年11月28日に下野の武将小山氏宛てに出した書状(写)
を示し(原文コピー及び現代語訳)、これが長篠合戦に関する内容であることに気づかせた。
・秀吉については、「なぜ何度も名前が変わったのか?」という疑問をとりあげた。次々にかわる名前の謂われを説明することで、
その立身出世ぶりが理解させやすいと考えたためである。そして、小田原北条氏を攻め滅ぼした直後、天正18年(1590)8月に、
栃木県真岡市内の村に宛てて出した禁制のコピーを示し、その一部を解読させながら、秀吉が宇都宮に11日間も滞在して治安
の維持にあたったり、関東や東北の武将たちの領土画定を行ったことを理解させた。
・家康については、「本当に気の長い人だったのか?」という疑問をとりあげ、信長の死後、天下をとるチャンスは何度かあったの
に、慎重に事を進めた様子に注目させた。特に慶長5年(1600)関ヶ原合戦の際、上杉氏を討つためにいったん東へ向かい、途中
で石田三成らの挙兵を知って西に転進するわけだが、8月5日に江戸に戻ったのに、実際に同地を出発したのは9月1日であった
理由を考えさせ(先発させた豊臣系大名たちが本当に秀頼を擁する石田方と戦うかどうか、見極めていた)、その慎重な行動に
気づかせる。あわせて西に転進することを決めた地が、下野の小山であったことを紹介した。
〔子どもたちの感想から〕
・先生のお話でさらに信長が好きになりました。
・ますます3人のことが知りたくなりました。
・栃木県と3人の武将が関係していたと聞き、とてもびっくりしました。
・3人の武将が栃木に関わっていると思うと、うれしい気持ちや新たな疑問がたくさん出てきます。
・社会が前より好きになれたし、面白さもわかりました。もっと知らないことを学ぼうと思いました。
・私たちの知りたいことについて、紙にまとめてきてくれて、びっくりしました。そこまでしてくれて、うれしいです。
・私たちにわかるように、ゆっくりゆっくりやって下さったので、疑問は1つもありませんでした。
・ホトトギスの句は本当に3人がよんだのか、知りたいです。
・僕がすごいと思ったのが、(先生が)昔の字を読めるところです。すごくあこがれました。
・昔の文字を解読するのは、とても楽しいなぁと思いました。
◎「戊辰戦争について学ぼう」(平成27・2015年1月 栃木県真岡市立長沼小6年、2時間授業)
〔授業のねらい〕
・戊辰戦争とはどのような戦いだったのか、その概要をつかみ、あわせて栃木県内でも多くの戦いがあったことを理解する。
・古文書の読解などを通じ、真岡の人々もこの戦いに関わっていった(関わらざるをえなかった)ことに気づく。
〔授業の概要・流れ〕
・まず戦争の名前、「戊辰」について十干十二支を紹介しながら説明した。
・戊辰戦争が起きた経過を説明し、幕府が倒れた(将軍慶喜が政権を朝廷に返上)後に戦いが起こっている点に気づかせる。その
上で慶喜の戦略を考えさせ(朝廷に政権担当能力はないから、結局徳川氏中心の政権ができると読んだ)、さらに新政府側から
戦いをしかけた理由を予想させた(徳川氏の新政府への影響力を排するためには、戦ってその力を完全になくす必要があったか
ら)。
・次に戊辰戦争全体の流れを説明し、その上で地図を用いて下野(栃木)各地でも戦いがあったこと、ここには土方歳三や板垣退助
なども参加していたことを紹介する(2人の顔写真のみを示し、人名を答えさせる)。
・当時の新政府兵士の写真を見て、気づいたことを発表させる(着物姿なのに靴を履き、刀を差す一方で洋式鉄砲を手にしている)。
・続いて真岡関係の古文書の一部を解読させ、多くの人々が「農兵」として旧幕府方、あるいは新政府方への参加を命じられたこと、
そのための費用も周辺の村々に課せられたこと、などに気づかせた。
〔子どもたちの感想から〕
・戊辰戦争に栃木県が関係していたなんて驚いた。
・板垣退助や土方歳三が栃木県に来ていたなんて、とてもびっくりした。そして社会がもっと好きになりました。
・農兵としてどれくらいの人が集まったのか、知りたいと思います。
・土佐藩兵士の軍服に西洋のものが入っていて、おもしろかったです。
・自分が戊辰戦争の中にいるみたいで、気になりました。
・昔の文字は今の文字にすごく似ていて、驚きました。昔と今はつながっているんだなぁとあらためて思いました。
・インターネットや本にものっていないことを教えて下さるので、先生の授業を楽しみにしていました。私は、昔の文字を何の漢字か、
友達と相談しながら考えるのが楽しかったです。
・戊辰戦争については、教科書には2、3行しかまとめられていなかったので、何だかわからなかったけれど、自分でも予習して、先生
にも教えていただき、詳しくわかったので、とてもうれしかったです。
◎「栃木県は真岡から始まった!?」(平成27・2015年10月 栃木県真岡市立物部小6年)
〔授業のねらい〕
・栃木県内に最初にできた県が真岡県だったかもしれないという説を紹介し、それを軸に廃藩置県の具体的な状況や現在の栃木県
の成り立ちについて理解する。
〔授業の概要・流れ〕
・栃木県になる前、つまり江戸時代に下野国はどのような形で治められていたか、確認させる(幕府が直接治める領地と、大名が治める
藩に分かれていた)。
・黒板に紙を貼り、下野には11の藩と19の他藩領があったことを示す。
・その藩が明治4年(1871)の廃藩置県により県になったことを教科書から確認させる。
・この時、「なぜ知藩事たちはこれを認めたのだろう?」と疑問をなげかけ、彼らが旧藩時代以来の大借金に困っており、廃藩によって
それを新政府が肩代わりすることを知ったため、などの理由を説明する。「これはほとんどの大学生も知らないことだよ」
・慶応4年(1868)6月の真岡知県事辞令のコピーを配り、文字を解読させた上で、栃木県で最もはやくできたのが真岡県だったとする説を
紹介する。
・その上で、その説の根拠を説明する(旧幕府領が最も集中し、それらを束ねる役所があったのが真岡で、新政府側は下野でまずこの
役所を攻撃し、支配の根拠地としたから)。
・しかし、と「日光県印」の捺された文書の写真を見せ、実際に下野で初めておかれたのは日光県だった可能性が高いことを説明する。
・先ほどにつなげて黒板に新たな紙を貼り、11の藩がそのまま県になったこと、それらがまとまって宇都宮県と栃木県になり、それがさ
らに明治6月15日に栃木県として1つになったこと、この日が「栃木県民の日」に制定されていること、などを説明する。
〔子どもたちの感想から〕
・「栃木県は真岡から始まった!?」と聞いて衝撃を受けました。(真岡は)あまり知名度は高くないけど、すばらしい場所だなと感じました。
・たくさんの藩がどのように県に変わっていったかを初めて知れてよかったです。
・「栃木県は真岡から始まった!?」と聞いて最初はものすごくうれしかったけれど、その証拠があまりなくて「日光かもしれない」と聞いた
時は「残念だな〜」と思いました。
・私は改めてこの真岡の歴史を知りたいと思いました。時間があれば調べたいです。
・藩から県にかわった時、大名はいやだったと思ったけど、かわりに借金がなくなるため喜んだ、というのにびっくりしました。
・(史料の)言葉を読むのが難しくてあまりできなかったけれど、昔の漢字を見られてよかったです。
・帰ってから家族に解読したプリントを見せると、「漢字の方はわからないけど、横に読み方が書いてあったからわかった」と言われました。
・大学生も知らないようなことについて授業ができて、うれしかったです。
・ぼくは社会があまり好きではないのですが、今日の授業はとてもわかりやすく、たまにジョークも入っていて、とても楽しく勉強できました。
この授業で社会がちょっと好きになりました。
◎「人形をめぐる日米関係」(平成28年1月 栃木県真岡市立長沼小6年)
〔授業のねらい〕
・戦争の14年前に、日米の子どもたちどうしによる、人形を通じた親善事業があったこと、それが戦争によってひどい扱いを
受けるようになってしまったことなどを学び、子どもの視点から戦争について考えさせる。
・授業内容については、日本史メニューの同一タイトルのページをごらんください。
〔子どもたちの感想から〕
・今日の授業を受けて、戦争による国との争い、子どもたちの思い、人形への思いなど、たくさん学べたと思います。
・親善事業のあった14年後に日米戦争になって、人形はたくさん処分されたことは、とても悲しいことです。もし僕がその時代にいたら、先生や
や大人に、人形の身になって考えてみてくださいと言いたいです。
・私は社会の授業では戦争について勉強したけれど、こんなにじっくり教えてもらったことがなかったので、とてもうれしかったです。…日本では
人形を燃やしてしまったけど、アメリカでは燃やしていないと書いてあって、どうして燃やさなかったのかが疑問でした。
・アメリカからもらった人形、はじめはかわいがっていたものを、戦争になると処分してしまうのは、ひどいと思った。でも、中には処分せずかく
して保存するなど、心のやさしい人もいたことには驚いた。
・戦争までのいきさつがよくわかりました。国と国との関係が、友達と友達の関係に似ているなぁと思いました。
◎「カレンダーの歴史」(高校世界史)
〔授業のねらい〕
・ふだん生徒たちが用いているカレンダーから、古代ローマ文明、あるいは近代ヨーロッパ文明とのつながりを実感させる。
〔授業の概要・流れ〕
・配布されたワークシートに1〜12月の英語名のそれぞれの月の日数を記入し、代表者が黒板に書かせる。
・2月のみ28日であること、7月、8月と続けて大の月(31日)となっていることに気づかせる。
・なぜそのようになっているのかについて学習することを確認する。
・@原始ローマ暦、Aローマ暦、Bユリウス暦、Cグレゴリオ暦について順を追って説明し、月の英語名は古代ローマの神の名や
序数に由来していること、そもそも今の3月が@では1月だったこと、Aでは12ヵ月制となり、今の2月が12月だったこと(ゆえに
年間の日数調整がここで行われた)、Bで当時仕事始めに合わせて11月を1月としたこと、新しい7月が自らの誕生月だったため、
当時のローマの指導者カエサルが自らの名に改めたこと、その直後に後継者オクタヴィアヌスが戦勝記念の月、8月を自らが賜っ
た「尊厳者」の名に変え、さらに日数を縁起のよい奇数である31日にしたこと(その分、2月の日数が1日減らされた)などを理解さ
せる。
・本時で学習したような経緯でできあがっていったカレンダー(太陽暦)を日本も明治初期から導入し、現在に至っていることを確認さ
せる。
〔生徒たちの感想から〕
・昔の暦を見てみると、1年が365日なかったり、月の名前が神の名前だったりと、初めて知ることばかりだった。
・なぜMAYというのかを学んだ。また権力をもてば、月の名前も日数も変えられることがわかった。
・ふだん何気なく過ごしている中にも、不思議なことがたくさんあることに改めて気づかされた。
・他の月は30日か31日なのに、2月だけどうして28日しかないのかと思っていたが、やっと疑問が解けてスッキリした。
・豆知識的な感覚が授業ででき、とてもよかった。知ったことを周囲の友達に自慢したい。
・家族に教えたら面白そうに聞いていたので、授業を受けられてよかった。
・月の名前に興味がもてた。また地球が太陽を一周すると1年経つと聞いたことがあるが、365日ピッタリなのか、調べて
みようと思った。
・今度は日本の睦月〜師走までの由来を知りたいと思った。
◎「英文史料を解読して、ボストン茶会事件について考える」(高校世界史)
〔授業のねらい〕
・教科連携(英語)を意識し、英文(当時の新聞のようなもの)を解読し、その内容がボストン茶会事件のことであると気づかせ、
学習内容をより実感をもって理解させる。
・市民運動がひろがる上で、新聞などのマスメディアの果たす役割が大きいことを理解させる。
〔授業の概要・流れ〕
・あえて学習内容を伝えず、既習事項の復習を行うこと、当時の英文史料を読んで、何について書かれているかあててもらう
と伝える。
・新聞に書かれた英文をグループで分担して読ませ、辞書などを用いながら和訳させる。
・グループごとの和訳を集約しながら、何について書かれたものか考えさせる。
・こうした独立運動のような市民運動がひろがる上で、新聞などの役割が重要であることを理解させる。
〔生徒たちの感想から〕
・英語の授業なのか世界史の授業なのか、よくわからなかった。
・社会の授業で社会のことを英語で学ぶというのが初めてで、何だか不思議な気持ちになった。
・新たな方向性の学習方法で、新鮮でわかりやすく、興味ももてて楽しい授業だった。
・自分は世界史は好きだが、英語は苦手だ。しかし今回の授業は楽しく、少し英語が好きになった。
・英語を日本語に直して文をつなげて考えて…と難しかったが、分からないところも皆のおかげで分かった。
・私は歴史があまり好きではないので、英文を訳すことで歴史が頭に入った。
・とても難しくて、最初は何もわからなかったが、調べていくうちにだんだんわかってきて、最後の答え合わせ
で内容がわかった時に、とてもすっきりして達成感がある、いい授業だった。
・班で少しずつ日本語化していく中で、これは何の記事なんだろう、と考えるようになった。単語は辞書で調べ
れば出てくるが、文章に直すのは大変だった。「お茶の箱」という言葉で、これはボストン茶会事件だなと自
分で分かったのが嬉しかった。
・今まで学んだ内容をもとに、ただ機械的にまとめるのではなく、当時配布されていた新聞記事などを参考に、
英文を解読しながら歴史を学ぶやり方は、英語の読解力がつくのと同時に、何の歴史について述べている
のかのワクワク感も感じて、非常に充実した授業になった。
・新聞でしかわからないこともあるのだ、メディアというのは大切なんだ、と思った。
◎「平仮名・片仮名の成り立ちと国風文化」(高校日本史)
〔授業のねらい〕
・現在まで使われている平仮名と片仮名の成り立ちとその用途の違いについて、いくつかの問題を考えること
により理解を深めさせる。
・平仮名の使用が遣唐使の派遣中止以前から進められていたと気づかせ、国風文化の背景について理解を
深めさせる。
〔授業の概要・流れ〕
・プリントを配布。問題を考えながら万葉仮名の特質について理解させる。
・同様に奈良時代の発音の豊かさについて理解させる。
・万葉仮名から草仮名、さらに平仮名への移行について説明する。
・片仮名の成り立ちについて、プリントを見ながら説明する。
・現在も残る「変体仮名」の読みにチャレンジさせ、以前は1つの音に複数の平仮名があったことに気づかせる。
・明治後期に1つの音に対し1つの文字に統一され、現在に至っていることについての説明を聞く。
〔生徒たちの感想から〕
・一番面白いと思ったのは「二八十一」の読み方だった。自分は「にはと」と思っていたのに「にくく=憎く」とは
考えもしなかった。
・昔の人はすごく考えが豊かで、発想力があったんだな、と不思議に思ったりもして、とてもいい勉強になった。
・変体仮名で何が書かれているのかを想像して考えることも、頭を使ってよく考えないと分からなかったので、
集中して楽しく考えることができた。
・遣唐使の廃止と国風文化の関係性の部分では、これまで自分が認識していたこととは違っていたので、新
たな発見ができた。
・昔の文化があって、今現在の文字(平仮名、片仮名)があると思うと、だいぶ古い時代から言葉や文字が発展
してきたんだと思った。
・平仮名と片仮名という、今の私たちの生活に深くかかわっている内容について考えることができ、とても楽しか
った。実際に自分にも関係することの成り立ちを知ることは、とても大切だと感じた。
・問題形式の授業だったので、より深く考えることができた。
・家に帰って親に話したら、親も文化について知りたいと言っていた。
・その日の帰りに「きそば」(生楚者=生蕎麦)の文字を見つけ、意外と身近な所にあったことに驚いた。
・『万葉集』などの和歌に興味をもったので、時間があったら読んでみようと思う。
◎「戦国期農民の危機管理」(高校日本史)
〔授業のねらい〕
・いくつかの具体的史料を読み解くことにより、戦国時代の農民たちが必ずしも大名の思うがままに支配され、
戦乱のたびに死傷したり村を荒らされていたわけではなく、さまざまな方法を用いて彼らなりにしたたかに生き
抜こうとしていたことを理解させる。
〔授業の概要・流れ〕
・戦国時代について人口の大多数を占める農民たちについて、どんなイメージを抱いているか、発表させる(事前に
紙に書かせておいたものを発表させる)
・村へ軍隊が攻め込んだり、近づいたりした時、農民たちはどこへ逃げたかを考え、発表させる。
・その答えと説明を行う。
・なぜ戦国大名は農民を匿ったのかを考えさせ、意見を発表させる。
・逃げずに村の安全を保つため、大名に治安維持命令を出してもらう方法があることについて説明し、それに対
する見返りが求められることに気づかせる。
・戦乱に巻き込まれそうな時、家財道具はどうしたのか、史料から読み取らせる。
・特に危険の多い2つの勢力の境界にある村は年貢をどうしたのかグループで予想し、発表させる。
・史料を読み、「半手」という言葉の意味について考え、そこから年貢の出し方を推測させる。
〔生徒たちの感想から〕
・教科書やテレビなどではとりあげられていない内容だったので、とても興味深く、楽しく授業を受けることができた。
・ふだん考えないような深いところまで授業でやったので、面白かった。
・内容的には自分が思っていたこととは真逆だったり、新たな発見があった。
・グループになり、話し合いをして意見を出したりして、とても楽しかった。
・グループワークでいろんな人の意見が聞けてよかった。
・各班ごとに意見が違っていて、とても楽しく戦国時代の農民事情を知れてよかった。
・農民は(戦時に)どこへ逃げるのかという問題で、「城」と答えられたことは、とても嬉しかった。
・実際の史料と訳があり、とても分かりやすかった。授業前の考えと比較できるのもよかった。
◎「本物の地券を見てみよう」(高校日本史)
〔授業のねらい〕
・本物の地券を生徒たちに配布して観察させ、いくつかの問いを考えながら記載内容の意味するところを考えさえる
ことを通じて、政府が税収を確保しようとしたいきさつについて理解を深めさせる。
*本物の地券は、栃木県立文書館の「授業支援事業」を利用し、二人に1枚、計20枚持参していただいた。
〔授業の概要・流れ〕
・実物史料の扱い方、鉛筆を使う理由について文書館職員から説明。
・本物の地券を見て気づいたことをワークシートに記入し、発表させる。
・発表された内容及び指摘されなかった内容について、発問に答えさせながら説明する。
・配布された地券に記入された土地の面積や地租の額について計算させる。
・どのような地目の土地の地価が高いか、理由も含めて考えさせる。
・プリントの空欄を埋めさせながら税金についての政府の思惑について理解させる。
〔生徒たちの感想から〕
・教科書や資料集で見たことがあるものに触れたというのは、初めての経験だった。実際に見たことで、細かいことに
気づいた喜びがあった。当時のことが1つの史料でこんなにも分かるんだ、という驚きもあった。
・実際に地券を目にし、思っていたよりも大きかったため、驚いた。また、このように授業で実物を取り扱うと、記憶にも
残りやすく興味もわいてくるのでよいと思った。私たちにとっては、今存在するものも、百年後には貴重な史料になる
かもしれないと考えると、時間の流れや物の尊さを学んだ。
・地券に書かれている土地の面積や地価の計算がとても楽しかった。今とは違う書き方で書かれている文字を読み、
それを今のお金の価値に直して計算する過程が、一番時代を感じた瞬間だった。
・プリントにヒントが書いてあったので、自分で読み取って税金の値段などを出すことができたので、楽しかった。
・隣の人と協力して地価が現在のおよそいくらに相当するのかを計算するのが楽しかった。
・政府が行っていたこと(地券に、税金が2.5%に下がったのに、わざわざ以前の3%を書いてあること)は、得な気持ちに
なるなど、自分でも納得した。
※これら5つの授業記録の詳細については、拙稿(栃木県高等学校教育研究会地歴・ 公民部会令和元年度『高校地理
歴史・公民科紀要』58、2020年3月)に記しています。
◎グループ学習「邪馬台国の所在地は九州か畿内か」(高校日本史探究)
〔授業のねらい〕
・日本史探究の主旨にもとづき、生徒たちに日本史上未解明の問題について、さまざまな資料から自分たちの主張する
説に有利なものを選んでまとめさせ、それを説の異なる他グループと討論させることによって、当該テーマへの理解を
深めさせるとともに、討論学習の意義を学ばせ、さらには歴史を学ぶことの愉しさも実感させる。
〔授業の概要・流れ〕
(1)別掲プリント「深読み日本史2-1」を配付し、今回の学習の趣旨、議論を行う上で前提となることを確認した上で、活動
の手順について説明する。なおその際、かなり以前からの論点(「魏志」倭人伝に見える方位・距離や「やまと」地名の
比定地の問題など)は、今回は直接的な議論の対象とはせず、主に比較的近年明らかになってきたさまざまな考古学
的所見から考えさせることとした。
(2)グループ学習の手順は、上記プリント2@〜C及び3に示したとおりである。生徒たちには事前の段階で「自分は畿内
説(あるいは九州説)」という強い思い入れはないであろうし、またディベートの一種ととらえ、「くじ」で説を決めさせるこ
ととした。
(3)自分たちのグループの説が決まったら、別掲プリント「深読み日本史2-2」を配付し、プリント2-1の2Bに記したように、
このプリント2-2や教科書、図説(浜島書店『新詳日本史』)などを活用し、自説に有利な点をまとめさせ、C余裕があれ
ば相手の説に不利な点もまとめるように指示した。
※探究学習は、図書館や学校図書室での文献調査から始め、そこから自説に有利な情報を集積していくのが理想であり、その作業こそ探究学習にとって最も
重要なことと考えるが、そこから始めたら、このテーマだけで少なくとも数時間は必要となってしまう。限られた授業時間の中では、それは現実的に無理なの
で、この部分は教師が相当程度事前に文献調査を行い、それらの中から畿内説・九州説にとってそれぞれ有利と判断できる情報を数的にほぼ同数になるよう
取捨選択し、それらを諸論点ごとに分けてまとめたのがプリント2-2である。したがって生徒たちの活動は、主にこのプリントから、どれが自説にとって有利かを
選びとるための検討をグループごとに行わせる、ということになる。
(4)(3)の話し合いを30分ほどさせた後、プリント2-1の3に示したように(グループは4〜5人で、全部で8班になるため)、教師
が話し合いの状況などをふまえて2つの説からそれぞれ2グループずつを選んで発表させ、残りのグループは、自説はい
ったんおかせ、発表を聞いてどちらに説得力があったかを評価させる。
(5)ディベート的にはどちらかが勝つであろうが、それぞれさまざまな論点が出て、もちろん決着がつく問題ではない。そこで
最後に「ではなぜこれだけ多くの考古学的な所見があるのに、この論争は未だに決着しないのか?」と投げかけた上で、
「深読み日本史2-3」を配付する。これにより、考古学的に年代を決めるのはきわめて難しいこと、また「大人の事情」として、
マスコミのとりあげ方の問題なども関わってくること、などを説明した。
(6)今回の学習について感想を書かせた。
※なお今回の学習に要した時間は2時間(@趣旨説明とグループ分け、検討A検討のまとめと発表、プリント2-3の説明と感想)であった。
〔生徒の感想と分析〕(感想は一部)
・地理的に考えて九州にあるのが妥当だと思っていたが、他の班から不利な点を聞いて、そういう考えがあるのかと
深めることができた。
→こちらの予想に反し(中学での学習をふまえてなのか)、生徒の中には畿内説・九州説のどちらの考えがよいかを、
学習以前に認識している者もいた。それが今回の学習を通じて変化したり、より考えが深まったと感じているようで
ある。
・さまざまな資料などを見て、自分に有利・不利な点を見つけ、他の意見の人と論争するのはとてもたのしかった。
・今でも解決していない問題について討論し、答えの出ない議論をすることがとても興味深く、おもしろかった。
・答えがないからこそ自分たちで選んだ説について一生懸命情報を得たり、資料を読みとったりしました。正しい答えは
わからないけど、一つの説を深く調べて有利な情報を得ることは、大切なことだと感じました。
→グループ内で意見交換を行ったり、他グループの発表を聞く機会は、答えが決まっているような従来形の日本史学習
においては、そもそも珍しい。前述したように、本当に自分たちで一から調べ、まとめた上での論争ではないが、それ
でも生徒たちは「自分たちで行った」と感じ、その愉しさを味わえたようである。
・邪馬台国論争をグループで考えた時間はすごく深くて、「日本史を学んでるな」という感覚になりました。…長い時間考え
れば考えるほど真相が気になって、当時の人に聞きたくてたまりません。…日本史の奥深さが知れて、これからの授業が
とても楽しみです。
・現代までさまざまな研究者が研究して、調査などをしてもなお時代か場所を特定できないものがあるのだ、と驚いた。
・今回のように歴史に関する議論をしたことがなかったので、とても楽しかったです。そして、実際は九州説と畿内説どちら
が正しいのかとても気になり、歴史に対してより興味がわきました。
→「学ぶということは覚えることではない」ということを実感してくれたようである。わからないからこそ調べていくのであっ
て、その結果その疑問は解けるかもしれないが、また新たな疑問が必ずいくつも生まれる。夕日を追いかけるように
「たどりついた!」と思ったら、またその先がある、というのが学問である、ということを感じてくれればありがたい。そし
て、たとえ当初の疑問がわからなくても、その追究の過程で別のいろいろなことが副産物的にわかってくるのも、学問
の愉しいところである。
・時間があれば、博物館などで資料や土器の実物を見てみたい。
・考えるにつれて疑問に思うことがあった。それは、なぜ出雲についてふれないのだろうということ。神が集まるとされる
出雲には大きなクニがあったと考える方が自然ではないかと考えた。
→今回の学習をうけて自分なりに新たな疑問が生まれ、それを調べてみたいと、学習意欲の喚起につながった生徒も
若干数見られた。さらに今回の授業ではとりあげなかった出雲王権の問題などを提起している生徒もいて、頼もしか
った。
〔若干の所見〕
某放送局で放送されている「英雄たちの選択」という番組がある。歴史上の英雄が重要局面において、いくつかの選択肢
のうち、出演者ならどれを選ぶか、を議論する部分があるが、正直今ひとつ盛りあがらない、と感じるのは私だけだろうか。
それは、既に歴史的にどれを選択したかがわかった上で行っているからであると思われる。討論学習を行う場合、「正解」
が判明しておらず、議論が分かれているテーマをとりあげた方がよいと考える。日本史上でそうしたテーマは、細かな点を
探せば少なくないであろうが、高校生の日本史学習に適したものとなると、それほど多くはないのかもしれない。しかし、今
回の邪馬台国所在地論争は、そうした数少ない事例のうちの一つだと考える。既に紹介したように、生徒の反応はかなり
よいものであったし、何より多くのグループが熱心かつ愉しそうに取り組んでいる姿を自分の目で確認できた。何度も述べ
ているように、今回の探究授業は、いちから生徒たちに取り組ませたものではなく、料理でいえば、材料は既に揃えられた
ものを最後に少し調理するようなものにすぎないかもしれない。これについての批判はあろうが、かといって限られた授業
時間の中で、まったくやらないよりは、今回のような形でも実施する方が、少しでも科目の趣旨に近づける意義があると判
断している。お読みいただいた方のご意見を賜れば幸いである。
□配布資料
・深読み日本史2-1 邪馬台国の所在地は九州か畿内か?
・3世紀に30の小国家の盟主となった邪馬台国の所在地は北九州なのか、それとも大和なのか。これについての
研究は江戸時代以来続いているが、いまだに決着を見ていない。この問題は、古代国家がどのように形成されて
いったのかということと関わっており、日本史上最大の謎の1つとされている。ここでは、この問題について自分たち
なりに検討していこう。
1 議論の前提となること
・239年、邪馬台国の女王卑弥呼は中国の魏に使いを送って朝貢し、魏の天子から親魏倭王に任じられ、金印や銅鏡
100枚などを賜った。
・247年頃に卑弥呼が没し、その後男王が擁立されたが倭国内部が乱れたため、卑弥呼と同族の女性壱与(台与)が王
となり、ようやく収まった。
※よく知られている論点については、図説P40上段の表にまとめられている。
2 自分たちで九州説と畿内説を検討してみよう
(手順)@4〜5人でグループをつくる。
A各グループの代表者が「くじ」でどちらの説の立場に立つかを選ぶ。
B選んだ説の正しいと思われる根拠を教科書(P18〜19)、図説(P40〜41)や別紙参考プリント(2-2)などから探し、
自説に有利な点をまとめていく。
C一方の説の不利な点を探す。
3 発表し皆で検討しよう
(手順)D両説についてそれぞれ2グループが発表し、発表しない班はどちらの説の方がより説得力があったかを選ぶ。
自分たちの班は( )班 「くじ」で選んだのは( )説
〇選んだ説の根拠となることをグループで話し合いながら、以下のスペースに書きあげていこう。
(スペース省略)
〇上の説ではない説について、不利な点を同じように以下に書きあげていこう。
(スペース省略)
〇(発表はなく審査にまわったグループのみ) 4グループの発表を聞いて、どちらの説がより説得力があったかを選ぼう。
( )説 その理由も書ければ書いてみよう。
・深読み日本史2-2 邪馬台国の所在地は九州か畿内か? 参考資料
【吉野ヶ里遺跡】(佐賀県神埼市・吉野ヶ里町)図説P40下
@紀元前4世紀〜3世紀頃の弥生期における日本最大の集落遺跡。
A「魏志」倭人伝に描かれた邪馬台国にある建物とよく似た建物跡が見つかっている。
B遺跡内から出土した鉄器、青銅器、大陸から渡来した鏡の破片は邪馬台国時代のものである。
C邪馬台国が存在した3世紀には環濠集落(周囲に堀をめぐらした集落)は廃絶していた。
【纒向まきむく遺跡】(奈良県桜井市) 図説P41中
D2世紀末〜4世紀中頃の大集落遺跡で、弥生・古墳時代を通じ国内最大級の規模をもつ。
E生活用具が少ない一方で国内各地、それも比較的遠方でつくられた土器が多く出土(ただし九州のものは少ない)。
F遺跡内には巨大な運河があったり、四棟の建物群が東西方向に一直線に配置されるなど、きわめて計画的な
都市づくりがなされており、このような遺跡は北九州には見られない。
G近くに実在した最初の天皇ともいわれる10代崇神天皇の陵墓(行燈山古墳)や12代景行天皇の陵墓(渋谷向山
古墳)などがあることから、4世紀後半以降のヤマト政権と直接つながる遺跡とする説もある。
【卑弥呼がもらった100枚の銅鏡】
Hかつては三角縁神獣鏡(教科書P25下図)がそれにあたるのではとされたが、5世紀末の地方古墳からも見つか
っていることや、副葬のされ方から見てあまり重要なものとして扱われていなかったことがわかり、近年では重要視
されていない。
Iかわって注目されたのは、纒向遺跡の近くにある纒向ホケノ山古墳(3世紀中頃とも4世紀頃ともいわれる)という、
ごく初期の前方後円墳に副葬されていた画文帯神獣鏡である。
J画文帯神獣鏡は魏の領域から出土した事例がなく、またデザインも5、6世紀頃のものに近い。
K現時点で卑弥呼に与えられた鏡として最も可能性の高い漢時代(魏の一時代前)の鏡の日本国内における分布
状況は、紀元前までは九州地方に集中していたが、紀元前後から九州以東地域とほぼ同数になり、2世紀後半には
九州以東の方がほとんどを占めるようになる。
【箸墓古墳】(奈良県桜井市 纒向遺跡の近くにある最古の前方後円墳 全長278m 教科書P24下図
Lこの古墳は、昔から卑弥呼の墓ではないかとする説があった。
M古墳の周濠内で見つかった土器から見て、280〜290年頃につくられた、とする説がある。
Nさらに土器に付着していた炭化物を「炭素14年代測定法*」により測定した結果、この古墳は240〜260年頃に築造
された可能性があることがわかった。
*炭素14年代測定法:炭素の放射性同位体である炭素14が窒素14に壊変する性質を利用して生物遺体の生成年代を測定する方法
O15世紀初めに朝鮮でつくられた日本周辺の地図
※吉村武彦『シリーズ日本古代史Aヤマト王権』岩波書店P17所掲のもので、日本列島の向きが南北逆に描かれている。
・深読み日本史2-3 邪馬台国論争はなぜ決着しないのか
☆これまで検討してきたように、同じ銅鏡や古墳、遺跡をもとにしても、邪馬台国の所在地についてまったく異なる
2つの説が唱えられ、対立したままとなっている。なぜそうなってしまうのか。
1 そもそも考古学的に年代を決めることは、きわめて難しい
例えば古墳の築造年代は、濠(ほり)などに廃棄された土器の型式によって検討する方法が一般的である。とこ
ろが、A型式よりB型式の土器の方が新しいことはまちがいないとしても、そのA型式が実際、西暦何年頃に用い
られていたかを証明するのは不可能であり、学者によって、あるいは時代によって見解が異なっているのである。
まるで年代を測る物差しがゴムでできているようなものなのである。
※ここで拙著『疑問に迫る日本の歴史』(ベレ出版)P25に掲載した表「庄内式・布留式土器の年代観比較」を転載。
学者によって庄内式・布留式の土器がそれぞれ西暦何年頃のものか大きな違いがあることを示している。
また炭素14年代測定法にしても、その試料として何を用いるかによって結果は大きく異なってくる。箸墓古墳の場合
でも、土器に付着した炭化物を測定すると、240〜260年頃という結果だったが、古墳で見つかった桃核(種を保護
する堅い皮の部分)やクルミの場合は、それより約80年も新しい年代となった。この測定法は、もともと数十年の幅
をもって数値が出てくるもので、例えば纒向ホケノ山古墳の年代測定結果は320〜390年、あるいは335〜400年と
いうふうに出てくる。
2 マスコミが年代を古く導いた?
一般にマスコミは遺跡や遺物の年代が古ければ古いほど、つまりそれだけ邪馬台国が実在した3世紀前半に近い
ほど注目する。そこで学者は…
※プリントはここまで記し、あとは注目してもらうため口頭で以下のようなことを説明した。
幅のある年代のうち最も古い時期をとらえ、「だから畿内説の証拠となる」と発表する。その後、一定の時間が
経つと、これが一つの基準になり、別に新たな発掘結果が出ると、さらに古いものと判断されていくこととなる。
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