武術のことT(1〜6)

2003 02 27 更新
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その1 始めに  (2003 02 11)

 「武術」とはなにか。
 それは「人が闘い生き残るための技術」である。
 では戦闘機や戦車の操縦法もそうかと言うつっこみもありそうなので、ここは「自分の身体(素手)を使った戦闘術あるいはその延長として使用可能な武器術(現代の電子兵器などは除く)」としよう。
 投擲兵器は一応「個人で運搬可能な銃まで」。
 日本の古武術には火縄銃を使ったものもあり、そうとう大口径のものもあるようだが、これはまあ例外的なものだ。バズーカ砲やロケット・ランチャーは勘定に入れないで欲しい。
 
 古来より人間は他者との闘いを常としてきた。
 無論、平和的な問題解決が最上なのであるが、やむをえず力ずくでの解決に及ぶことがあり、この際に有用なのが「武術」である。
 生き残るためのぎりぎり必死の手段であるから、そこには原則として「敵を倒して自分が生き残る」以外の余計な内容は入り込む余地がない。
 「見得」も切らなければ、ムダに空中でくるくる回ったりはしない。
 一見奇妙に見える技も、実はそれなりの必然があってのものであり、奇妙なことをするためにやっているのではないのである。 
 「アクションのこと」で触れた「人に見せるための戦い」とは、そこが根本的に異なるわけで、それがたまらなくしびれると思う人と、つまんないから見たくないという人に大きく分かれる。私、山本貴嗣は無論前者である。


その2 武術は省エネである  (2003 02 11)

 省エネとはどういう意味か。
 相手を倒すのに必要最小限の作業しかしないということである。
 向かい合った二人の選手が死力を尽して一生懸命汗を流して戦う必要はどこにもないということである。指一本動かして相手が倒れてくれるのならそれ以上の作業は行わない。
 と言うと、なんだか「格闘漫画」に出てくる達人がチョンと指先で相手を突くと、大男がばったりと倒れるおなじみのシーンを思い浮かべられる方が多いだろうが、あれはあくまで究極の例であって、ここで言うのはもっと広い意味である。
 一発殴って倒せるなら何発もパンチは出さない。
 なぜなら、相手は一人ではないからである。
 そもそも一対一の正々堂々の勝負などを前提に武術は作られていない。
 相手は複数の待ち伏せかも知れない。戦いに卑怯などという定義はなく、勝つためには何でもする。それが人類の歴史である。その中でどう生き抜くかが武術の永遠のテーマである。
 「目の前にいる敵を必要最小限の労力で倒し、次なる敵に備える
 これも武術の基本であろう。
 合気道の開祖の言葉だったろうか。
 「練習はきついが実戦は楽だ」
 なぜか。実戦はすぐ終わるからである。
 3発以上殴りあうのは犬のケンカだとのある高手(名人)の言葉もある。
 そこまでの境地にたどり着く苦練は想像を絶するものがあるが、それが武術の真骨頂である。延々と殴り合い蹴り合い関節を極め合って血を流し合う姿が見たい人には、なんともつまらないに違いない。


その3 武術は力まない  (2003 02 15)

 強いということは力が入ること≒力むこと、だと思っている人がいる。
 とんでもない間違いである。
 無論なんらかの行動を起こすのに力がゼロでは動けない。なんらかの筋肉の緊張を伴うわけだが、実際に効果的な威力を出すのは「力む」ことと「完全脱力(糸の切れた操り人形状態)」の間にある状態であり、漫画や映画によく出てくる、筋肉や血管がびきびきとこれ見よがしに浮き出て膨れ上がった状態などでは断じてない。あれは武術的に言うなら使えない体、つまりは「死んだ」体である。
 スポーツと武術は似て非なるものだが、スポーツの世界にも「リラックスしろ」とか「肩の力を抜け」といった表現があるのは周知の事実である。
 中国武術では「放鬆(ファンソン)」などと言う。
 必要な力は入っているが無駄な力みは一切ない状態とでも言うか。
 確か日本の有名な侠客の体験談で
 「出入り(ヤクザの喧嘩)の時に刀の刃先を触れ合ってみてコチコチのやつは倒せるが、こちらの刃先に合わせてすっと動くやつは危険な相手だ」
 といった意味の話があったが、これは実戦を体験した人間ならではの貴重な証言である。
 一般の人は鉄のようにガチッと決まった体や体勢が強いと思いがちだが、とんでもない話で、そういう人間は武術的に見れば「いいカモ」でしかない。固まった体くらい技のかけやすいものはないのだ。
 拙著『セイバーキャッツ』で主人公が力自慢の大男に腕を曲げてみろと言い、大男が必死に曲げようと試みるが曲がらない。しかし主人公の肩はまったくリラックスしていて自由に動くといった場面を描いたが、ああいう状態が実際にあるのである。

 蛇足であるが、香港のカンフー映画で、向かい合った拳法使い同士が目にも止まらぬ速さで技を繰り出しあい、お互いそのことごとくを捌き合うといった場面があるが、実際の武術家があれをやっているフィルムをスローで再生してみると、どちらの腕にも無駄な力は入っておらず、マラソン選手の走る姿をスローで見たように、腕の筋肉がぶるんぶるんと揺れているのがはっきりと見てとれる。ボディビルダーの「きめ」ポーズを持ってきて、相手の攻撃をがっちり受け止めているように描いたら、大きな間違いなのである。
 この「力まない」ことは日本であろうが中国であろうが、まともな武術家ならば当然の事で、それはおそらく西洋の格闘家であろうと同様であろう。
 ボクシングは「武術」と言うにはあまりに限定されスポーツ化された戦闘システムであるが、それとて、力んでこちこちのボクサーなど見たことがない。いるとすればそれは「負ける」ボクサーである。


その4 武術はクールに闘うものだ  2003 02 23

 漫画においてキャラクターの表情は大切な要素である。それは重々承知している。
 であるが武術家は、闘いながら表情を変えない。これには二つの意味がある。
 まず、仮に心中焦ったからと言って、焦った顔をしては相手につけ入られる。わざと演技して敵を油断させる場合は別であるが、原則として喜怒哀楽は表に出さない。
 もう一つ、これは色々な流派の(中国にせよ日本にせよ)達人が言っていることであり、また私のようなシロウトでもそう思うのであるが、敵を倒す(殺す)ということは、激情にかられて顔を歪めてするようなものではなく、もっとある意味で淡々とした、誤解を恐れずに言うならば「事務的な」作業である。
 目にゴミが入ろうとすれば人は無意識に目をつむる、そういうものに近い作業である。いや無意識不随意の反射運動とは違い、そこには意識的な行為もあるのだが、判り易く例えると、である。
 相手が攻撃してきた。
 それをこう導いてこう加撃してやればその者は死ぬ。
 だからそうした。
 それ以上でも以下でもない。
 それが武術家のやりとりであろう。
 勘違いしないでいただきたいのは、よく漫画などに出てくるスカした敵役などが
 「わたくしにそのような攻撃は通用しませんね」
 などとクールな表情と気取ったポーズで見得を切る、そういう無表情とは違うのである。
 蛇足であるが、私は漫画において「見得を切る」というか、キャラクターに「見得を切らせる」のが大嫌いである。山本漫画が嫌いな方、つまらないと思ったり物足りなさを感じる方の理由の一つは、その辺にもありそうに思うのだが、これは私のスタイルであり、嫌いなのであるからどうしようもない。信念を持って意識的にそう描いているのであり、「判っていない」で無自覚にやっているわけではない。これについては機会を改め、また別項でいずれ書く。
 武術家が表情を変えない理由がもう一つあった。
 顔の筋肉に無用な緊張を加えるのは、身体の他の部分にも無用な歪みを作り、効果的に無駄なく攻防を行う際に大きな妨げとなる。武術家はけして「スカして」無表情なのではなく「命がけで」無表情なのではあるまいか。

 ちなみに、私の漫画のキャラクターが戦いながら顔を歪めるのは、たいてい手傷を負った苦痛に耐えかねてか、未熟者かのどちらかである。


その5 呼吸のこと  2003 02 25

 武術において呼吸は大切な要素である。
 息が乱れないとかいうのは無論である。
 日本の武術では攻撃の際に「やあっ!」だの「ちえすとー!」だの掛け声を発するが、あれは発した方が実際の威力も増すという理由が大きい。しかし高度な武術になると攻撃の仕方の変化によって、その攻撃にもっとも合った発声法が考えられているものもある(中国武術の中には幾つか見受けられる)。勝手に思いつきで好きな気合を発しているだけではないのである。
 映画や芝居では客との一体感を高めるために呼吸を使うことがある。
 昔の名優、片岡千恵蔵や市川右太衛門などがやっていたが、立ち回りの途中緊迫した場面で
 「うっ!」
 と息を詰める。
 と見ている客も思わずいっしょになって、うっと息を止め、その場の緊張感を共有するという手法である。
 これは古くは狂言などにもあって、以前NHKの人間講座で狂言役者で演出家の茂山千之丞さんが言っておられた。当時のテキストから抜粋すると
 「狂言の世界では『息をつめる』ということをよく言います。『つめる』とは呼吸を止めることですが、そればかりでなく、腹にぐっと力を入れて横隔膜を緊張させ、体全体をぴたっと静止させるのです。面白いもので、役者がこれを上手くやると、観客も同じように息をつめる。」
 前述の役者さんたちは、まさにこれと同じことをやっていて、それは見事に「効いて」いた。
 しかし実際の闘いでこんなことはしない。したらそれこそ隙を作るようなもの。
 特殊な例として、日本の古武術の某流などに、苦しくもないのに一瞬わざとこれに似た「息をつめる」状態を作り、そのあとふーっと息を抜くと、相手が思わずつられて弛緩してしまう、そこを攻撃するというものもある。この発想は狂言や前述の俳優たちの手法にも通じるものであるが、まあこれは例外であり、そもそも本当に本人が追い詰められて緊張して固くなっているわけではないのである。

 以前私の知り合いで中国武術を学んでいる某氏が結婚式に自分の武術の師匠を招待した。某氏のお父様は日本の剣術と柔術の達人(半端じゃない達人)であったが、某氏の師匠を見て、久々にホンモノの「武術家」と会えたと随分喜ばれたと言う。その時言われたことには
 「おまえの先生はなかなか使う方のようだな。呼吸の間に隙がない」
 たいていの人間はどうしてもその間に一瞬の隙ができ、そこを攻撃されると弱いのだそうだ。余人には思いも及ばぬ境地である。
 世の中には、そういうことを当たり前のように見て取ることが出来、なおかつその瞬間に的確に攻撃を行うことの出来る化け物が、時には道場もなにも開かず、ひっそりと何食わぬ顔でただの公務員をやっていたりもする。漫画より現実の方がよっぽどおもしろくて、困ってしまうことである。


その6 肩のこと  2003 02 27

 一般の人の抱いている「強さ」のイメージと「現実の強さ」との間にいかにギャップがあるか、このコーナーを読んでこられた方には少しはお判りいただけたことと思う。
 些細なことのようであるが「肩」も大きなポイントである。

 少し寄り道になるが申し上げると、以前、拙著『謹画信念・本気のマンガ術』でも書いたが、一般の人は肩の、そしてそれ以外の身体各部の可動ぶりについて、大変に無頓着である。
 目をつぶって「両手を真上に上げてください」とお願いして、上げたあと目をあけて鏡を見てもらうと、多くの人が真上ではなく肩から斜め前方よりに腕を上げている。
 フィギュアからデッサン人形にいたるまで大半の、いやほとんど全てと言ってもいい「人形が」肩の付け根からしか腕が動くようにできていない。これでは実際の人間の可動ぶりを再現することなど不可能。
 本当は人間の肩は、腕の付け根である上腕骨の根元を後ろから支える肩甲骨と、前から支える鎖骨とで形作られた可動し変形する三角形で構成されている。
 どなたでもできる「肩の可動」の実験は、両腕をまっすぐにそろえて前方に突き出し、体をねじったり肘を曲げたりしないで、肩甲骨と鎖骨でできたパーツ全体を前後させて指先の位置を前後にズラして見ること。特に訓練していなくとも指一本分くらいは動くのではないか。背中をぺったり壁につけて背中の真ん中と片方の肩が動かないようにして、反対側の肩だけ前に出してみるのもいいだろう。片方づつ左右やってみるといい。

 身体能力の優れた人、中でも武術の達人などはここの可動域が大変に大きくなるよう訓練されている。

 昔の浮世絵などを見ると、強そうな人物の表現として肩をいからせてすぼめている図を見かけることがある。怖そうな人物の様子として、古くから「肩をいからせる」という言葉があるくらいである。
 しかしこれはだめである。
 中国武術では「沈肩」などとも言うが、別に中国に限ったことではなく、肩の上がってしまった腕にはフルパワーを発揮させることは難しい。
 よく時代劇で刀と刀とが激突して、ぎりぎりと二人の人物が押し合っている、いわゆる「つばぜり合い」の場面で、必死に押しながら両肩がすぼまって上がってしまっているキャラを見かけるが、こういう奴はダメであって、とてもパワーは発揮できない。肩はあくまで「落ちて(下がって)」いないといけないのだ。
 蛇足であるが、この部分を柔軟にして可動性を増すよう訓練していくと、なぜか肩の先端が下がってきて「なで肩」な体型になるようだ。別に首周りの筋肉がボディビルダーのように三角形に盛り上がってなるというのではない。「なで肩」は女のようでひ弱に見えると恥じている人もいるようだが、実際は逆で、誇るべきことでさえある。
 この十数年間、私が取材してきた「達人」の方々も、事実総じてなで肩であり、その強さが増すほどに「ショルダーバッグのかけられない肩」になっていくようであった。仕方ないから「襷がけ」にするのである。
 中には達人でありながら自分のなで肩を恥ずかしがっておられる先生もあって、そこはちょっとおもしろかった(いいから自慢してくださいよT先生!)(笑)。

 いずれにせよ武術をやる人の間で「なで肩の人は強い」というのは定説のようである。

 このほかに弱い体型は「鳩胸」。
 胸筋が張ってそっくり返った体型はダメで、鳩胸出っ尻は人は打てないとまで言われている。このあたりも一般の人の持つ「強さ」のイメージと異なる点である。
 胸筋を付けすぎてもパンチの速度や威力にはプラスにならず(パンチは背筋の方が重要なのだ)身体の急所が集まった正中心を守りにくい体になり、武術的にはいいことなし。じゃあボブ・サッ○はどうなんだと言う人がいそうだが、あれは全身の筋力やウエイトが総じて大きい結果強いのであって、けして胸筋が厚いほうがいいということではないのである。関係ないけど私はサップちゃん大好きである(笑)。
 子供の頃ブルース・リーの映画を見て、すごい鍛えられた体だけど胸の筋肉はたいしたことないなと私も思ったが、あれは鍛えてないんじゃなくて、つけたらあかんものをつけないように身体各部を鍛えている結果であり、けして未熟のなせる技ではないことを、僭越ながら声を大にしてフォローしておきたい。


武術のこと 7 へ続く

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