序 章 甲州街道、工事中
明治大学法学部に入学したのは、昭和38年4月。東京オリンピックの1年前だったからね。首都高速道路も全線開通とはいかない。急ピッチで完成を目指していた。東京中が工事中の喧噪に包まれていたよ。
明治の1,2年生は和泉校舎。甲州街道も府中に折り返し点ができて、マラソンのコースになるっていうのに、高架の高速道路造りでものすごい混雑さ。こんなんじゃ、走者も車の渋滞に阻まれて、マラソン当日、大変なんじゃないのかなぁってそんなかんじ。
新宿西口は昔からのヨドバシ浄水場でね。「東京砂漠」ってたたずまいさ。
京王デパート。まだビル建ってなくて、京王線新宿駅の赤い鉄骨が、戦災のように夕闇の中にそびえていた。
新幹線ができたばっかりだったね。特急で8時間かかる東京、大坂を3時間半。もう、夢物語さ。
世の中国際化。これからは英語のひとつ話せなくては「いい日本人」とは、いえないぞ。という風潮だったのよ。
ソレで、英語部に入った。ESS。いんぐりっしゅ、すぴーきんぐ、そさいあてい。その年のESSの新入部員数、なんと600人よ。
英会話力を高めるために、外人を捜すんだけど、帝国ホテルでもろくに外国人と会えない。
しかたがないから立川の米軍キャンプにいってアメリカ軍人を誰彼なく捕まえては、話しかける。そんな時代。
オリンピック熱に浮かされて、次の年、僕らが勧誘した新入生は800人だ。
明治は1,2年と3,4年がキャンパス違うから、クラブでは2年生のコミティーが、かなりの実権をまかされている。
これが他の大学のクラブと違うところだね。
2年の時、英語劇に担ぎ出された。「5大学英語劇コンテスト」。明治、明治学院、上智、学習院、成城の5大学で10月に英語劇のコンテスト。
嫌々始めた5月から10月の稽古中に、「役者になろう」ってきめたのだから、人生ってわからんね。
そのときの主役が今のボクの嫁さん。ボクはその相手役だったわけ。
神田駿河台に、緑青がふいて緑に輝く記念館が燦然とそびえていたっけ。
和泉のキャンパスはもっと綺麗だったよぉ。緑の芝生。常緑の松と4月の桜。真っ白い建物。3階建て。屋根が緑でね。
いい大学に入ったなぁって、実感。
狭い桟で仕切られた窓なんて時代がたってるから、さびついてて開きゃぁしないのさ。
それでも、それがかえって「学舎(まなびや)」って感じだったよ。
あのころ、おれたち明治大学の学生は、和泉校舎の青春で形づくられタンよ。
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