シェイクスピア考


ひとごろし、いろいろ。   1564〜1616


昔、ロンドンにウイリアム・シェイクスピアというお話の上手なオジサンがいた。
ところで
1592年までは、この人物のことはほとんど知られていないんだ。
洗礼を受けた日付、結婚、出産、記録に残っているのはこれだけだ。

つまり1564年(ひとごろし)4月26日に
エイヴォン川のほとり、ストラットフォード・アポン・エイヴォンという
ま、200家族、人口1000人ほどの、赤い花咲き、柳生い茂る静かな田舎町の教会(ホーリー・トリニティ教会)で
ウイリアム・シェイクスピアという赤ちゃんが洗礼を受けた。

つぎに記録に出てくるのは
1582年、同じ教会で
ウイリアム・シェイクスピアという青年がアン・ハサウエイという8歳年上の女性と結婚したこと。

二人にはすぐに子供ができたこと
(11月に結婚して翌年5月、長女スザンナが産まれた。月足らずかって?6ヶ月ベィビー?ナンノ、ナンノ立派な赤ちゃんさぁ)。

それから2年後(1585)、男女の双子(ハムネットとジュディス)が生まれたこと。
そんなことが記録として残されている。

このころのモットーは「沢山生んで、沢山死んでいく」
当時、倫敦の人口は400万人。そのうちペストで200万人が死んだって・・・
そうやって人類の歴史は作られたのさぁ。

シェイクスピアの生まれた
1564年といえば、
かの強欲な処女王エリザベス一世陛下が
即位して、五年半ほどのことである。


ょっと道をはずれてエリザベスの話

エリザベス1世(1558〜1603)の親父はヘンリー8世(1509〜47)だ。
ヘンリー8世はヘンリー7世の次男坊。
ヘンリー7世(1485〜1509)の世継ぎの、
アーサー兄貴はスペイン国王の娘と政略結婚させられた。
親父の意志に反して、結婚してまもなくアーサーは死ぬんだけど
図体ばかり でかかったヘンリーくん、
王位と一緒にお兄ちゃんの嫁さんも、貰っちゃった。
これがアラゴンのキャサリンというスペイン美女。


二人のあいだに5人の女の子が産まれたが、4人は幼くして死んでしまった。
たった一人成長したのが、のちのメアリー1世(1553〜58)。
エリザベスのお姉さん。
これも長くは生きていなかったけどね。

女の子ばかり生まれるキャサリンに嫌気がさしたのかなぁ。

キャサリンに罪はないだろうに
ヘンリーはキャサリンの侍女、アン・ブリーンに「あんたが、ほしい!」。
アン・ブリーンは強引にヘンリーの妻とされたんだ。
その結婚のためにヘンリー8世はローマ教会と喧嘩し破門されるが
ようやくキャサリンを離婚して、想いを遂げる。

アン・ブリーンと結婚して、エリザベスが生まれた。
「女の子じゃダメなんじゃー!」と、ヘンリーが言ったか、言わないか。

アン・ブリーンは優しい女性だったからね。宮廷の誰にも愛想が良かった。
やがて嫉妬に狂ったヘンリーは
アン・ブリーンをその恋人と目される貴族たちもろとも断頭台に送る。

やがてヘンリーはジェイン・シーモアを見初める。
ジェインとのあいだにエドワード6世(1547〜53)が生まれる。
3人だけじゃないのさ。
手当たり次第、気に入った女性を我がものとして、
その度にじゃまになった女性を殺したりした
精力絶倫王ヘンリー8世が死ぬと、
3人の母違いの子供が残った。

メアリーとエリザベスとエドワードである。

男子継統の原則でヘンリー8世のあとを継いだエドワード6世は
6年間の治世ののち、幼くしてこの世を去る。

その跡を継いだ姉のメアリー1世は
スペイン王フェリペ2世と結婚してしまった。
メアリーは敬虔なカソリック教徒だったのさ。

300人のプロテスタントを火あぶりの刑で殺して
ブラディ・マリー(血まみれマリー)と謳われたメアリーは、
多くのイギリス貴族に疎まれながら、
やはり5年ほどで死んでしまう。


母を殺す、父親の
血まみれの手を
エリザベスはじっと耐えて見つめていたのだ。

エリザベスは25歳になるまで修道院に入っていた。
弟や姉の統治のやり方を陰の方から眺めていたから
「統治の要諦は宗教である」と看破して、
ローマ教会と決別し
カソリックでもない、プロテスタントでもない、英国教会の道を突き進んだ。

ヘンリー8世はローマ教会に破門されて英国教会を強大にした。

息子エドワードはプロテスタントだったからね。
その6年の統治のあと、メアリー。
これはカソリックだから
6年間エドワードがのさばらせてきたプロテスタントが邪魔でしょうがない。

「ブラディ・メアリー」と呼ばれた一抹は前に話したね。
なんの、血まみれといえばヘンリー8世の方がすごいんだ。
なにしろ一度は愛した女を、殺し放題だったんだからね。

まだまだエリザベスについては書き加えていくつもりだが
この辺でシェイクスピアに戻ろう。


さて、1585年に双子が生まれて、その洗礼をすませたのち
しばらくシェイクスピアの消息は途絶えるが
その間
ロンドンに出て
最初、役者として舞台に立っていたらしい。
17歳の時にすでに役者であったような形跡がジェントルマン(地方郷士)の遺書の中に残っている。

やがて自分をひいきにしてくれる
貴族(サウザンプトン伯ヘンリー・ライァズリー)のために
叙事詩を書き、
当たり狂言の座付き作者となり
劇場の共同経営者として蓄財して
名声を博すようになったが、

その後故郷に帰り、遺書を残して死んだ。


シェイクスピアの誕生日が4月23日だとされているのは、
記録された洗礼の日が4月26日なのでそこから類推しているわけである。




閑話休題・・・ちょっと日本の歴史を・・・

ポルトガル船の鉄砲伝来が1543年。
織田信長と今川義元の桶狭間の合戦が1560年。
1564年といえば
日本史の中では
毛利元就が尼子義久を出雲富田城に破り、
宣教師ルイス・フロイスが将軍足利義輝に新年の挨拶をしたという年だ。

今川家に人質になっていた松平元康が
今川氏真と断絶、家康と改名した。徳川家康である。

そんな時代に
生まれた年や、結婚した年の記録が残っているだけでも
すごいというべきかもしれない。

それどころではない。
シェイクスピアの父親
ジョン・シェイクスピアのことは、もっと、ことこまかに分かっているのだ。


シェイクスピアのお父さのことなど

丁稚上がりの

裕福な毛皮商だったシェイクスピアのお父さん(ジョン、シェイクスピア)は
ストラトフォードの町のためにその人生を捧げた。地方政治家だったのだ。
お巡りさん、助役、収入役、地方判事といった具合に
町役人として出世するたび、ジョンのことは町の記録に残されていった。

成り上がりの成功者のご多分に漏れず、
お父さんは見事に破産してしまう。
1570年代後半、ウイリアムが12歳内外の頃だろうか。
シェイクスピア一家をおきまりの不幸がおそう。

ところが
「父親の不幸は息子の幸福」とでもいおうか・・・
父親の破産にめげることもなく
ウイリアム・シェイクスピアは役者の道に、突き進んだ。
その当時役者は日本同様さげずまれた職業とされていた。
中流家庭の子には本来許されなかった職業選択。
父親の破産があったからこそ、
偉大な劇作家は生まれることができたのかもしれない。


さて、ウイリアム・シェイクスピアは
80年代前半に結婚、出産と、
記録には残っているがシェイクスピアがその間
何をしていたかは謎のままである。
80年代半ばにはロンドンに出たと考えられている。

1592年学識派(ユニヴァーシティ・ウイッツ)の劇作家のひとり、ロバート・グリーンが
友人たちに見捨てられた暗い死の床で、

当代一流の劇作家シェイクスピアを当てこすった悪口を数々書き残した文章が
出版された。
ここに我々は初めてシェイクスピアの消えていた足取りを見いだすのである。



何度も脱線して申し訳ないが
それでこそ原田大二郎の文章といえるのである・・・。


イギリス海軍がスペインの無敵艦隊をうち破ったのは1588年だ。

そのころ海の商売で財をなしたネーデルランド(スペインの統治を受けていた)が、
スペインから独立しようと兵を起こし、オランダ独立戦争が勃発した。

たくさんのイギリス貴族がオランダに荷担して参戦した。
役者たちも
ひいきの貴族のおともで何人も、この独立戦争に参戦している。
ウイリアム・ケンプ(後述)の参戦記録などが発見されている。
シェイクスピアも、記録こそ残っていないが
従軍の可能性は充分考えられる。
参戦の経験があったからこそ、
あの勇ましい戦争シーンが書けたのではないかといわれている。


又、当時ロンドンは毎年のようにペストの流行におそわれていた。
町には不潔な糞便があふれ、そこら中をネズミが走り回り、
歩くのも躊躇するほどだったという。
靴の上に付けるスパッツ(泥よけ)は
そのころの発明品である。

1592年から94年にかけてのペストの猛威は、すさまじいもので
この間ロンドンの劇場は何度も封鎖された。
沢山の俳優たちが地方回りをする。
ドサ回りである。

シェイクスピアは
その間を利用してサウザンプトン伯爵一行と一緒に
イタリア旅行を敢行したのではないかと
考える人たちがいる。

もちろん、私も、そう考えてイルのさ。


1594年リチャード・バーベッジの宮内大臣一座に
役者、兼座付き作者、兼株主として参加している。
喜劇役者ウイリアム・ケンプや、
のちにシェイクスピア全集を発行するジョン・ヘミング、
ヘンリー・コンデルなども一緒である。

ジョンとヘンリーはシェイクスピア没後7年目に
『ペリクリーズ』以外の全集(Folio1)を刊行している。



ウイリアムは1597年に、故郷ストラットフォードに立派な家屋敷を購入している。33歳の時である。
そのころすでに功なり名を遂げて
喧噪のロンドンと
すずしやかなストラットフォード・アポン・エイヴォンのあいだを行ったり来たりしていたのだろう。

その前年8月11日、一人息子のハムネットが死んでいる
『ロミオとジュリエット』が書かれたと考えられている年だ。

親父ジョン・シェイクスピアが死んだのは
エセックス伯の大逆事件のあった1601年である。

四大悲劇(ハムレット、マクベス、オセロ、リア王)は、
これ以降書かれたと考えられている。

大逆事件や父親の死が作品に影響しているかもしれない。




ん・・・「大逆事件」は「無敵艦隊撃滅」と並んでエリザベス朝の大事件であろう。

1601年、エリザベスの寵臣エセックス伯が
仲間の貴族を語らって、女王への反乱を企てるという大逆事件が発覚し
エセックス伯は断頭台の露と消え(それまで何十年も恋人のようにエリザベスに大事にされてきた貴族なんだぜ)、
沢山の仲間の貴族と一緒に
ウイリアムのタニマチ、サウザンプトン伯も連座してロンドン塔に閉じこめられた。
後で許されているけどね。

『ジュリアス・シーザー』は、そのころ書かれた戯曲で、
作品中随所に詩人が出没して、反乱について言及しブルータス一派にあしらわれている。

作家が「わしゃ、無実じゃぞー」と、自身の身の潔白を叫んでいるようで
興味深い。


1603年にはエリザベスは崩御し、
メアリー・スチュァートの息子ジェームズ1世の御代になる。

宮内大臣一座は国王一座と改名して当代一の劇団となった。
シェイクスピアの偉大だといわれる作品はむしろこのあたりの10年ほどで書かれたものだろうね。


1612年、裁判所でシェイクスピア(48歳)は
ベロット・マウントジョイ訴訟事件の証言台に立つが
このとき住所をストラットフォード・ニュープレイスとしている。
このころすでに引退して、劇団株の配当で悠々自適の生活だったのだろう。


1613年には『ヘンリー8世』が初演されて劇場が焼けてしまったのだ。
ろうそくが照明代わりだったからね、これまで焼けなかったとしたら、それこそ奇跡なのさ。

その後シェイクスピアが上演にかかわったという記録は残っていない。
3年間はストラット・フォードで安穏な生活を送ったんだろうよ。









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