京都2-2(東山)
 一本橋(行者橋)
連休あけた平日。休みをずらしたのでまだ京都にいた。今日は東山めぐりだ。行きたい所が多すぎて、昨晩苦悩しながら優先する所とその近くの場所に絞り込んだ。
地下鉄京都市役所前駅から東山駅で下車。知恩院へ近道と書いてある商店街を南へ抜けた正面、白川にかかる細い橋が行者橋とも言われる一本橋。渡ろうかどうしようか悩んでいると、自転車を引いて渡る人がっ!?私も思いきって渡る。今日も5月とは思えない程暑かったのだが、川の上を通る風は涼しく、新緑の柳並木が爽やかさを感じさせてくれた。
右写真、一本橋の上より上流方面を望む。
平安末期の白河という地は桜で有名な所だったそうだから、柳が枝垂れ桜だったらと想像してみました。

一本橋のすぐ南、白川が西流する手前には川側に下りて休める所もあった。ぼ~っとして過ごすのも良いだろうなぁと思いながら、知恩院への門(左写真)の前を通るように東大路通に出、やや北上。一澤帆布でトートバックを買う。まだ朝早いせいか並んではいなかったが店内にはすでに人が多かった。平日に来た目的の一つがここによる事だったのです。
東大路通を南下。別の知恩院への門(左下写真)の前を通り祗園へ。門前でお土産を物色。


 八坂神社(祗園社)
3年程前に来た時には知恩院を通り円山公園側から来たので通らなかった西楼門(上写真)をくぐり、本殿とは逆の道(好きな食べ物は後に残しておくタイプって事かも(^_^;))、裏側に並ぶ勧請された小さな神社の前を通り、本堂の東側へ。美の女神達を祀る神社の横に忠盛灯籠(左写真)があった。以前は全然調べずに来ていたので、ここに平家に関わるものがあったと気付きませんでした。
白河院が祗園女御の所への雨の道中、向うから鬼のようなものがやってきたので、忠盛が勇敢にその鬼を取り押さえてみると、灯籠に火を灯していた社人だったというような話です。
本殿(奥)と舞殿 南楼門

 長楽寺
円山公園の南添いの道を東へ行き、長楽寺へ着いた。建礼門院が出家をした寺です。
下真中の写真が山門手前。受付をし、本来なら正面に本堂が見えるはずだろうけれど工事中の為、建礼門院塔も見られませんでした。収蔵庫への途中の平安の滝(右写真)。写真上部中央に細く白い水の線がみえますか?
収蔵庫では今回の2つ目の目的、建礼門院や安徳天皇の御影など平家ファンにはたまらない貴重な品々が特別拝観されていました。
さらに上へ登り一番上にある松昭訓の墓へ(右下写真)。最後の江戸幕府将軍、徳川慶喜の弟だそうだ。水戸藩の尊王攘夷の中心的役割を果たしながらも若くして亡くなり、ここで京都の町が変わってきたのを見守っていたのですね(左下写真)。
他にも幕末の尊王攘夷に活躍した水戸藩にゆかりの人々の墓がありました。
再び下へ戻り受付側の建物へ入る。そこからは相阿弥が作と言われている庭園(どこか有名な庭園の試作だったとか)が見られました。昔はもっと広かったらしいし、本堂への工事の車が木の隙間から見えてちょっと残念でしたが、終われば小さいながらも雰囲気の良い庭園だろうなぁと思いつつ、長楽寺を後にしました。
祗園の辺でお昼にしようと思ったけれど、予定より高くつきそうだったので、祗園のバス停から次の目的地三十三間堂へ向かい、その近くの法住寺跡に立つホテルで、後白河法皇や平家の人々に思いを馳せながら食事をしました。

 三十三間堂(蓮華王院)
南北に長く建つ三十三間堂の北側に有る出入り口用の小さな建物から中へ入る。
ここは中学の修学旅行以来2度目でかなり久しぶりで、記憶もあやふやなので、歩く所はカーペットがひいてあったっけ?千手観音達の前にある二十八部衆は千手観音の前でなく裏に並んでなかったっけ?(友人に話したら奈良の寺と勘違いじゃないかとの事。確かに像の顔が違うような)等々思いながらも、たくさんの千手観音に圧倒されたのは当時も今も変わりはなかった。
一体一体の顔等の違いを見て楽しみながら(不謹慎ですみません)、一二段目にあるいくつかの像の足下に誰々作と書いてあるのに気付く。
三十三間堂にある千手観音のほとんどは焼失再建後の鎌倉時代作だが、百数体(124体)だけ創建当時のが残っていると知り、清盛と同じものを見たいと来たのだ。しかし、どれなのか分からない。蝋燭等を売っている人に聞いてみた。まとまって安置してはおらず、バラバラだそうだが、近くではすぐ後ろに有る湛慶作の向かって右隣のがそうだと教えてくれた。鎌倉時代作のものと比べて、耳の後ろから垂れる紐のあたりが違うそうだ。専門科でないと分からない。。。
やっと端まで来るとぽっかり千手観音がない。東京・京都・奈良の国立博物館へ3体が出張されていた。
裏へまわると、御本尊の大きな千手観音座像の裏の部分だけ壁が無く、先程通って来た所を隙間から覗く事ができた。
左写真、三十三間堂北側。右端に見えるところから中へ。右写真、三十三間堂を北から東側の長い側面を撮る。写真には写っていませんが、外壁近くに庭園もありました。
左写真、外壁東側の中央辺に有る門。ここを出ると正面に法住寺御所があったから、きっとここが正門だったのだろうなぁ。右写真、三十三間堂の南東にある鐘。下写真、北西より西側の長い側面を撮る。

 後白河天皇法住寺陵
三十三間堂を出て、東側の道を少し南下。養源院と法住寺の間の小さな道に入る。入り口に書かれているのを見ると、ここも平日しか開いてないらしい。道の正面に陵の案内版?(左下写真)。後白河天皇他、後代の親王等の陵にもなっているそうだ(後に本で知ったが、平滋子もここに眠っているらしい)。この案内版を右に行くと陵への門がある(右下写真)。法住寺の裏にあたる場所のようだ。でも一般人はここまでのようで、門は閉じられている。門前で合掌しながら「後白河法皇、あなたはどのような方だったのでしょうか?」と問いかけていた。あまり良くは言われていないけれど、人各々思いは違うから、後白河法皇なりの思いがあってあの時代を生きていたと思うから。

 法住寺
後白河法皇木像の御開帳という事で来たが、思ったより小さく、アットホームな雰囲気の寺だった。金箔を作っているのかな?なにやら作業をしている数人の方に、後白河法皇像を見たいのですが、と話しかけると、女性の方が隣の棟に案内してくれた。御本尊等が所狭しとお供物と一緒に並び、私の祖父の兄が住職をしていた寺のようだ。
後白河法皇木像が安置されている厨子は元々は陵にあったものだが、陵のが防火の為に新しい物になったので、それを頂いたそうです。その後やっと許可が下りて、陵に有る後白河法皇木像(伝運慶作)を御造顕(模刻って事かな。作り方は違うらしい)し、その厨子に安置し、5月初旬の数日だけ開帳しているそうです。命日と言っていたけれど、旧暦の3/13が大抵その頃に当たるのだろうか。
後白河法皇木像は、神護寺で昨日見た後白河法皇像とは、新しいので色が鮮やかなのが違うというくらい顔は似ていた。
三十三間堂に面して西向きに2つの門がある。左写真、北側の門。右写真、南側の門。以前は後白河天皇法住寺陵の正門だったそうだ。

 南大門

豊臣秀頼造営の三十三間堂の門。三十三間堂と法住寺の間の道の南にある。狭い道には不釣り合いな程、大きな門でした。
この門を出て左へ、東大路通がJRの上を渡ると右側に新熊野神社がある。でもその手前の交差点を左折して、友人が漬け物屋でお土産を買う。有名な所らしい。

 新熊野神社
鳥居の脇には大きなクスノキ。清盛はこの木の若かりし頃を見たのだろう。寺社が終わるのは早いので、ここをお参りだけして、次の目的地へ。東大路通をやや南下して泉涌寺への入り口の交差点を東へ折れる。

 即成院
泉涌寺の総門の左すぐ手前に、即成院の門はあった。本堂の左に小さな道があったので、ここを行けば目的の那須与一の墓なのかな?と行くと、丁度お寺の方が墓の有る建物の扉を閉めるところだったが、お参りに来た事を話すと入り口は本堂からなのでと教えてくれて、少し時間を延長してくれた。
本堂へ上がると先程の方が親切に御本尊の話をしてくれた。那須与一の墓より有名だったらしい。。。本堂の御本尊の阿弥陀如来像と25体の菩薩像、仏教美術の左右対称美の為に1体の観音像で、来迎を仏像であらわし、像が揃っているのが日本で唯一だと教えてくれた。しかし明治の神仏分離による仏教弾圧で信者の多いここが的にされ、水戸藩の人達に、菩薩像達や、阿弥陀如来像はさすがに手を出しにくかったようで蓮座等が引き回され、数は揃っているものの修理の痕だらけで、全体で重要文化財なのだそうです。長楽寺では水戸藩の尊王攘夷運動をたたえるような感じだったので、一日で歴史の裏表を見た気がしました。
来迎をあらわす仏像群なので、今でもたくさんの人々が自分や周りの人が苦しまずにお迎えに来て下さいと祈っていくそうだ。
那須与一は、平家との屋島合戦に向かう前に病気になり、ここでお参りをしたらすぐに良くなり、屋島で赤地に白丸の扇を見事に射り、褒美でもらった土地等の整理をした後、再びここへ戻り出家して、苦しまずにここで亡くなったそうである。
私も御本尊に自分や身の周りの人が苦しまずにお迎えに来て下さいとお祈りして、毎朝祈りと供に入れているというお茶をいただき、トイレに寄り(寝たきり等でシモのお世話にならないようにという願いだそうだ)、那須与一の墓へ。合格祈願の旗が並んでいた。当たる→合格。なるほど。建物の中へ入ると、大きな石が積み重なったような塔があった。本堂でお賽銭を入れ忘れたのを思い出し、その分もここに入れてみた。
いろいろ教えてくれた方に感謝して、もう閉まっているかもしれないけれど次の目的地へ。

 今熊野観音寺
泉涌寺の総門(左写真)をくぐり、しばらく真直ぐ進む。「いまくまの」と書いてある分岐した道の下り坂へ(中写真)。下り切ったとこにある鳥居橋(右写真)を渡り境内へ。
なぜ他の熊野は神社なのにここだけ寺になったのだろうと思いながら、きっとここもすぐ閉まるだろうと思い、誰もいない境内を急いで回ったが、塔までは行かなかった。境内には小さな神社がいくつもあり、やはり縁が深い事を感じた。
ここは那智大社を勧請したらしく、神仏分離がしていなかった平安末期には、インドの仏教が元々の神々を取り込んでいったように(?)、神社に祀っているいる神を仏等になぞらえていいて、那智は千手観音だそうだから、それで今熊野観音寺と言うのだろう。
左写真、本堂。右写真、境内にある大師堂。
うす暗くなってきた境内を後にし、もう帰らなくちゃいけないのかぁと思いながら、東大路通からバスで京都駅へ。

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