某君ニ告グ

忘れ物に注意する56万おまけ


 忘年会シーズンが近づいてまいりました(2010年11月22日現在)。
 この時期には限りませんが、お酒を呑んだあと電車で寝過ごし、あわててカバンを置き忘れ、酔いがいっぺんに醒めてしまったことがある方もいらつしゃるとかと思います。お酒が入っていなくても、本を読みふけっていたり、携帯メールに夢中になっていて、気付いたらもう降りる駅、下車を急ぐあまりに忘れ物、と云う話も少なくないようです。

 世間のしくみは、各人が健康で時間に余裕のある状態で廻すことを前提に作られていますから、気が急いていたり、上の空でおりますと、ツイ何かを忘れてしまい勝ちです。「兵器生活」主筆も、月次の更新に間に合わせようと急いでネタ作りなどやりますと、後になってから、このネタも入れておけばよかった、こう書いておけば話の通りが良かった、などと思うことが時々あります。
 「うっかりしてました」「次からは気をつけるんだね」で済めば結構ですが、世の中そうはいかない事もあるものです。

 10年前、北京の博物館で、パスポート・航空券・現地通貨を入れた手帳を館内に置き忘れた事があります。その顛末は「坦克博物館紹介」に書いてあるので、ここでは繰り返しませんが、その時自分が味わった恐怖・怒り・悲しみは、決して人様に味あわせてはなるまい、と深く心に誓ったものです。

 今回は、そんな不幸な目にあってしまった人の、魂の叫びをご紹介します。昭和19年12月8日「毎日新聞」広告欄より。※読みやすさを考え、語句・文の切れ目に空白を入れてあります。


 某君ニ告グ
 貴下ガ十一月三十日山手線車中ニテ拾得セル 赤革大型手提鞄ノ内容品タル 書類三部 印刷セル紙片十枚及捺印セル紙片一枚ハ 御覧ノ如ク貴下ニハ何ノ価値ナキモノナルノミナラズ 国家的ニハ重要ナルモノナルヲ以テ 日本人ノ良心ヲ喚起シ 内容品ヲ至急左記ニ御郵送下サイ
 若シ 貴下ニ於テ既ニ焼却シアラバ 其旨住所氏名明記ノ上御通知下サイ 内容品返戻ノ上ハ鞄並ニ五百円ヲ進呈シマス
 尚 当局ニハ訴ヘザルヲ以テ 安心シテ御通知下サイ
 (註:住所・電話は略)小山

 大枚はたいて買った古本を、電車の網棚にカバンごと置き忘れたのとは、ちょっとレベルが違います。
  「日本人の良心ヲ喚起シ」と同胞意識に訴えつつも−良心があれば、人様のカバンなんぞ持ち去ったりはしません−、中身が戻れば「五百円ヲ進呈」−昭和18年の第一銀行初任給75円の半年分以上、16年東京府知事年棒5350円の1割強、19年巡査初任給45円の11.1倍(以上『値段史年表』より)−と、破格の礼金を出す意思を明らかにし、「当局ニハ訴ヘザル」事まで明言しています。

 いったい何が入っていたのでしょう?
 昭和19年12月時点での「国家的ニハ重要ナルモノ」と云えば、『起死回生の超兵器』か、『夢のエネルギー源』に関する資料に違いありません。
 大日本雄弁会講談社の雑誌「富士」昭和20年3月号に、『敵は網を張っている』と云う座談会が掲載されています。
 検閲に携わる人達−憲兵司令部部員・司法省刑事局思想課司法事務官・通信院通信監督局第一課長・内務省警保局外事課内務事務官・通信院通信監督局通信院検閲官・東京中央郵便局通信検閲官・内務省警保局外事課防諜主任−が、空襲激化による人心の動揺、決戦準備の動きなど、秘匿すべき事柄が、不用意な手紙・電報・電話によって敵側に漏れる危険性を指摘する内容で、

 『東京は天気続きで…』ということがもう立派に、敵に対して空襲の資料を提供したことになるのです

 子供の手紙はよほど注意を要しますね(略)『今日は母さんがどこそこの飛行場に勤労奉仕の地ならしに行った』とか、又『姉さんは挺身隊でどこの工場で飛行機を造って居ります』というように書きたがる。

 電報でよく、『船腹とれず予定の期日云々』というのが来る。電信局では、『船腹とれず』というところを切ります。

 などの好ましからぬ事例が紹介されています。
 この考え方で行きますと、小山さんの出した新聞広告は、「私は国家的重要書類一式を、11月30日に山手線で紛失しました」、と全国に広言したようなものです。書類返戻の謝礼が500円ならば、アメリカのスパイは千円出して某君から買い取ってしまえ、と行動するやもしれません。逆に重要書類を回収すべく官憲が10人100人と出動するかもしれません。

 カバンを忘れたばかりに上役に怒られ、取り戻そうと広告を出して−広告代は自腹でしょう−その筋の注意を受け、中身が戻れば500円を支払い、中身が本当に『軍用資源秘密保護法』『国防保安法』の保護対象であれば、懲役あるいは罰金まで課せられてしまいます。本当は「国家的ニ重要ナラザルモノ」であったならば、上記法律の罰則は免れますが、人心を惑わしたかどで叱責されることは確実です。何よりも「重要書類を紛失した」事実はモノが戻っても戻らなくても残りますから、人事考課上の失点ともなり、解雇・失職にも繋がりかねません。人の上に立つ身分であれば「日頃エラソーにしているくせに」としばらく陰で云われることでしょう。

 当局には訴えない、と広告には明記されていますが、被害者とも云える忘れた人がこれだけヒドイ目にあうのですから、某君だけが無事でいられるわけはありません。せしめた500円は良くて国債・貯蓄に廻されるか、「献金」させられるのがオチでしょう。当局の有難いお小言をさんざ云われた末に。

 「国家的ニハ重要ナラザル」自分のカバンも、「当人的ニハ極メテ重要ナル」ものです。忘れ物にはお互い気をつけ、万一発生させてしまったならば、会社のものなら社内のしかるべき部署に相談を、個人のモノならこの際スッパリ思い切るか、残りの生涯を持ち逃げした人の探索に捧げましょう。
 読み終わった新聞雑誌ならいざ知らず、カバン・紙袋の類が網棚などに放置されていたら、持ちかえったりせず、駅係員に届けるのが賢明ですが、忘れた人がすぐに気が付いて、探しまわることもありますから、むしろ放っておいた方が親切なこともあります。

 自分のかつての経験では、電車を降りてスグ忘れ物−カバン−に気付き、駅員に泣き付いても「電車が戻ってきたら探して下さい」(某都内環状線)、「終点にあるかもしれませんので行って下さい」(某地下鉄)と、相手にされず、終点に行けば「届いてないですね」と云われて引き下がり、何日かして遺失物保管センターから呼び出され、飯田橋にで出かけたものです。
 「忘れ物を捜索しています」と云う車内放送を聞くことがありますが、何を忘れ、どんな泣き付き方をすれば、わざわざ列車を停めてまで探してくれるのか、未だにわかりません。

(おまけのおまけ)
忘れ物とは関係ありませんが、座談会『敵は網を張っている』には、通信検閲の裏話として、こんな事も語られています。

池田:中には、白紙の通信もあります。(略)上海と国内との通信で、同じ人間が二度もつづけて白紙の通信を出した。そこで、これは怪しいと随分科学的な調査をしたが何も出て来ません。結局外の方法で調べましたら、何回手紙を出しても返事がないので、当てつけに白紙の手紙を出したのだということが分かりました。(笑声)
(略)『雨の長崎紅椿』という電報が局に持ちこまれました。これは何の隠語だろうと(略)大騒ぎをして調べたところ、若い文学青年が、試験に落第してその悶々憂鬱の心境を(略)親しい友人に打電したと(略)

眞家:(略)大阪から新京に打った電文ですが、『内乱起きたすぐ帰れ』というのです。別に内乱はないのですが、電文が不穏なので検閲官としては一応調べて見ねばならぬ。そこでいろいろ調べたらこれは家庭の財産争いで(笑声)主人の帰宅を促す電報であることが分かりました。(略)『爆弾送った』という電報で驚かされたこともあります。これは爆弾という映画のフィルムを送ったという電報でした。
(註・池田=憲兵隊司令部員憲兵少佐 池田正章、眞家=通信院通信監督局通信院検閲官 眞家直三郎)

(おまけのおまけのおまけ)
 忘れたカバンは二度とも後日回収に成功しておりますが、酔って無くした青い人民帽−北京の帽子屋で買ったもの−は、結局ダメでした。「どこで忘れたのか」くらいは覚えていないと、探しようがありません。