坦克博物館紹介
国力増強と、国内治安の確立が第一だ、と云う意見も多かろう。しかし兵器ファンの中には、わざわざ高い金を払い、言葉も判らない土地に行っては珍奇なネタの収集に走る者が確実に存在する。
また当人の思惑とは別個の事由により、外国に行かなければならない場合もあろう。
したがって、21世紀を迎えようとしている兵器ファン各位が、諸外国の軍事博物館の類がどう云うモノであるかを知識として共有しておくことは、得ではないが、決して損な話ではないと私は思う。
私の知るレベル(つまり誰でも知り得るレベルでもある)では、北京市内及び近郊には、何カ所かの兵器ファンの来訪を待っている場所がある。
有名どころとしては、軍事博物館があげられる。「地球の歩き方」にも紹介されている場所であり、交通の便も非常に良い。中国空軍であれば航空博物館も有名になりつつある。ここは交通の便が正直なところ良いとは云えない。
兵器ファンと云うよりも、左がかった教師が生徒を無理矢理連れていく(笑)所として、盧溝橋と中国人民抗日戦争記念館も有名である。もっとも私はまだ、ここまで足は延ばしていないが。
今回紹介する「坦克博物館」は「坦克=TANK」の名の通り、人民解放軍の運営する戦車博物館である。中国においても「戦車」と云う言葉は存在し、使われているが、日本同様、馬に曳かせる「戦車」と混同されるせいか「坦克」の方が使用頻度は高そうである。
何故か亜細亜旅行と云うものは、ビンボーな手段を用いれば用いる程、世間の尊敬をかちとる事が出来る、と云う不思議な世界でもあるので、ここへも公共乗り合いバスを利用するのである。
紹介者は、私に限らず「北京近郊」と云う書き方をする(航空博物館についてもそうであるが)。すると読者諸氏は「北京からちょっと行ったところにあるんだな、よしよし」と思うことであろう。
実はこの「近郊」と云うのがくせ者で、千葉の某所にあるディズニーランドに「東京」と冠を付ける以上の欺瞞が存在しているのである。
例えば「横須賀の三笠」へのアクセス方法を第三者に伝える時、「東京のはしっこの…」と云ってみたり、京都を「大阪の郊外」なんて伝え方をしたら、多分伝達者の信用はかなり怪しくなるはずである。
坦克博物館の所在地は、以下の通りである。
確かに「北京市内」ではあるが、「昌平県陽坊鎮」と云うのがむしろ正しい所在地表記である。天安門から直線距離で40q近くある(笑)ので、北京市街図などには載っていない。
中国における、「市と県」の違いは覚えておくと何かの役に立つかもしれない。
パンフレッドの地図でこの有様である。まあ東京から大宮くらいの位置にあるとでも思って良いのではないだろうか(他の都市圏の方は、てきとうに当てはめて下さい)。
タクシーの運転手は喜ぶかもしれないが、乗ってる客は生きた心地のしない距離である、多分。
さて、中国旅行にハマっている不幸なシアワセ者は、バスを使う、と先に述べた通りに、私は中国を得意としている旅行会社に、航空券と宿の確保を依頼すると同時に、博物館最寄りのバス停と、バス路線情報を請求したのである。
旅行社の素晴らしいところは、問い合わせれば、何かしらの回答があると云うことにつきる。まずは博物館の紹介メールが来た。
中国戦車博物館は、中国及びアジア唯一の戦車博物館であります.
風景のいい頤和園と世界有名な万里の長城の間にあり、温南道路と近いです.
敷地面積は4万平方メートルもあります.
館内には、人民装甲車発展の歴史、戦車装甲車車輛、戦車訓練模擬機と兵器模型という四つの部分に分けられていて、合わせて11個の展覧室があります.
915枚の珍しい写真と、420の文献資料が収蔵されています.
多量の国内外の近代、現代の兵器模型、装甲兵訓練模擬機と各種類の戦車と装甲車車輛が展覧されています.
中国最新の戦車、装甲車から旧ソ連、米国製の戦車、旧日本軍の94式、97式戦車まで保存されています.
特に、旧日本軍の94式軽戦車が完全に保存されているのは、世界では当館だけしかありません.
読者諸賢よ! 「こんなに素晴らしい所なんですよ、是非ともお出で下さい」と云う現地工作員の心の叫びが聞こえるようではないか! 直訳調の文体が泣かせるのである。これを読む本人は、すでに行く気満々なのであるが、こう云う文章を読んでしまうと、さらに夢が膨らむと云うものである。
915枚の珍しい写真! 420の文献資料! 嬉しいではないか。(只の観光客が突然訪問したところで、収蔵資料をホイホイ見せてくれるものでは無いことを、失念しているところが私の愚かなところである)
その後パンフレッドと展示物の写真を借りる事が出来、「兵器生活」のネタになったのは、読者諸賢のすでに知るところである。
(追記)中国現地工作員からのメールでは、九四式軽装甲車が保存されているのは、「世界では当館しかありません」とあるが、ロシアのクビンカ博物館にも保存されている事は、日本の戦車愛好家にとっては周知の事実である。
この事実はやはり伝えるべきなのであるが、それを現地が知ったところで何になろう、中国国内における外国情報の少なさを示す一例と、読者諸賢には受け取っていただければ良いことである。
噂に聞く、クビンカ所蔵車輌写真を商業的に公開することの困難さを、この坦克博物館にも見習ってもらう必要はあるまい…。(追記ここまで)
異国の博物館情報を入手するために、外国の同好の士にコンタクトするのも王道であるが、信用のある旅行会社を動かすのも一手である。なにせ英文メールを書かないですむし、「客」の立場に立てるので、相手も真剣に動かざるを得ない。
そしてバス情報が来るのである。
・徳勝門から345路支線車にのって、沙河で914路車に乗り換え担克博物館に着く。それぞれ40分間〜60分間かかります。あわせて1時間30分〜2時間くらい
・徳勝門から914路支線車にのって直接博物館に着きますが、914路支線車の数が少なく待つ時間がとても長いとのことです
と云う旅行社現地情報提供者からの文章と、日本の担当者からの「沙河で乗りかえる「914路車」と徳勝門からの直接博物館に着く「914路支線車」は違うのだろうか?同じなら最初っから徳勝門にのったほうがよいのでは」と云うアドバイスを元に、徳勝門始発914支線車で現地に向かう、と云う方針を立てたのであった。
2000年11月19日は、よりによって雪であった。正しくは、夜半に降った雪がしっかりと残っている状態である。
ホテルを出て、バスで前門(北京の城壁にあった門の一つ、天安門広場の南方にある)に出、さらに地鉄(地下鉄)前門駅から、釈水潭駅に移動する。「徳勝門」と云う地下鉄の駅は無いので、間違えないようにしたい。このへんのコースは、自分が宿泊している宿の場所によって変動することは云うまでもない。
戦闘装備である、青いM65ジャケットの中には専用ライナーまで着込んでいて寒さ対策は万全と云いたいが、手袋をホテルに忘れてきたため、手がとにかく冷える。気温は氷点下。時計は電池切れで8時を指したまま動かない。所要時間を記録しようとしていた私の目論見はしょっぱなから頓挫している…。
釈水潭駅から徳勝門まで歩くと、バスターミナル(と云っても公園の中にバスが沢山停車している広場がある、としか形容のしようが無いところだが)が確かにある
地図を拡大してみた。中央の四角が地下鉄釈水潭駅。東に200米も歩くと、バス停が並んだ場所が見えてくるのである。数字がバス路線と、そのバス停を表す。
バス停を視認したのと、914支バスが発車したのがほぼ同じタイミングであった。とりあえずバスに乗ることは出来そうである。博物館までちゃんと行くかどうかは別として…。
それから20分はバス停の前で鼻水を垂らしていたはずである。ターミナルの中に914バスは既に停車しているのである。運転手や車掌がお茶を持って詰め所からバスに移動して、すでに5分は経過したと思う。自分が立っているバス停は、確かに914支線のものである。しかしどこに停車するのかを教える停留所名に「坦克博物館」とは明記されていない。万一「このバスじゃないよ」と云うことになると、スコット探検隊の悲劇を北京の片隅で再現する羽目になる…。
仕方が無いので、バスに向かって行くことにする。
「対(トイ)!」
話は早かった。旅行社から借用してあった坦克博物館のパンフを車掌に見せたところ、「このバスだ」と云う意味の返答があったのである。扉が開き、バスに乗り込むと、既に3人ほど先客がいた。その後10分ほど待たされたものの、バスは出発、私が鼻水たらして立っていたバス停は当然の如く無視されていた…。
走り出せばバスは早い、と云いたいところであるが、そうであれば旅行社から「あわせて1時間30分から2時間」などと云うメールは来るまい。乗用車、商用車、自転車、歩行者、そしてバスがそれぞれの思惑で勝手気ままに走行するので、路上は予定通りの亜細亜的混雑を呈するのである。
しかもこの路線は、あの観光名所「万里の長城」に向かうルートと途中まで同じ道を走っているのである。バスの左側は高速道路になっているのだが、倹約な中国人民自動車はガラ空きの高速は使わず、ひたすら2車線、ただし自転車歩行者たまに馬車その他併走の一般道を走り続けるのである。あまりにも車が進まないので、車掌はバスの扉に向かって立ち小便をし出す始末である。
<沙河>を過ぎたあたりから、ようやくバスは本来の性能を発揮する。陽坊鎮あたりまで来ると、羊の群がうろうろするような田舎道となる。トーチカもどきのある煉瓦塀が見えるところをみると、そこは解放軍の駐屯地らしい。
それなりに時間は流れているはずなのだが、時計を持たない身には、時間の感覚は既に無い。
道だけしか無いような場所にバスが止まり、車掌に促されバスを降りるとT−34が道ばたに置いてある。坦克博物館に到着したらしい…。
博物館にあるような入場券発売窓口など無い。解放軍の歩哨詰所が窓口である。入場料10元を払う。旅行社から借りたパンフまで入手するには、外国人料金20元を支払う必要がある、と云うか、パンフ付き入場料が20元と云った方が正しいのだろう。
10元は大金である。市内バスに5〜10回乗れ、地下鉄も3回乗ることが出来る。食堂でビールを一本楽しむには少々足らないし、マクドナルドのハンバーガーも食べられないが、私にとっては大金になるのだ。たとえその時2000元手元にあろうとも…。
天候が天候なので、非常に地味な印象を受ける。新鋭戦車のお出迎えであるが、むしろ後方の黒い彫刻の方が面白そうである。
左右の配置が逆になってしまったが、「坦克兵」と「長城魂」の像。こう云うアナクロさは、昔の日本に通じるものがあるようだ。
中に入ってしまえば、後は写真を撮るだけである。館内の構造について少し触れる。
新鋭戦車の後ろの建物が、博物館本館と云うべきもので、ここには解放軍戦車隊の歴史を解説したパネル展示と、当時のテキスト類が展示されている。忘れてはならない便所もこの建物にある。
展示物の見物としては、おなじみの宣伝写真と、創設期の解放軍戦車=旧日本軍戦車の写真である。たとえば…
「太原戦役で国民党から手に入れた戦車」と云うキャプション付きで展示されている九二式重装甲車の写真であったり、
山西省大同で紅軍に接収された九七式軽装甲車の写真であったり、
「北京羊台にて国民党から接収した戦車」と云う扱いの九七式中戦車であったりするのである。
別稿で紹介した、渡河するT−34も、この展示室にあったものである。
本館の裏手に、屋根付きの戦車展示場があり、ここには解放軍のかつての主力戦車と、そうでない車輌が展示されている。
LTV。元々は米軍のものであろうが、国民党軍との戦闘にも投入されている。
59式中戦車、62式軽戦車は、ここでは定番アイテムである。軍事博物館のものは、ダークグリーン単色であるが、こちらの展示車輌は迷彩である。車体前部の「板」はなんと木製であった。
ここの珍品は59式改造の戦車回収車である。
先祖のT−34戦車回収車同様、砲塔をはずしただけ(笑)のシロモノである。それとも中にクレーンでも隠されているのだろうか?
他にSU−100や装甲車もここの住人である。
直接解放軍の使用するところでなかった車輌については、扱いが冷たい。
野ざらしの「謎車輌」である。転輪が7つあるので、T−10の車体を使用しているようなのだが、そもそも中国でT−10を使用していたなどと云う話は聞いた事が無い。砲塔があった部分にある謎の盾も、大砲のそれにしては上面がふさがっているのも妙な話である(自走砲にするのであれば、上は空けておくはずである)。
謎の車輌その2。車体を見ると85式に酷似しているので、試作車の類と推測出来る。
謎その3。謎その2と同系統の車体に、伝統的おわん型砲塔を載せたもの。これも試作車輌の一つと思われる。
M3軽戦車。右はSU−76改造のパチモン。戦争映画に良く使われる手。どこの国も事情は同じらしい。左の戦車は、元は米軍のもので、「USA」と云う文字が側面に書かれている。
M3は館内にも一台保存されている。こちらは印度軍から鹵獲したものである。ちなみに写真は無い。
中庭を取り囲む様にして、細長い建物があり、この中に九四式軽装甲車を始めとする、旧式車輌が保管・展示されている。
九四式の隣は、やはり九七式であった。後期車体に57ミリ砲塔装備。軍事博物館所蔵の車輌(2000.11現在非公開)も同様であるが、鉢巻アンテナははずされている。九四式の撮影で力つき、きちんとした写真が無いのが個人的に悔やまれる…。
奥はM3軽戦車。米軍戦車は好みで無いので撮影してこなかったが、やはり今となってはもったいない事をした。
九四式は別稿で取り上げたので、ここではIS−2を出す。館内は暗く、ストロボは必須である。九四式を撮る人は、いいかげんしつこいが、偏光フィルタもあった方が良い。
展示館の大きさはIS戦車が収まるギリギリに設計されているため、IS戦車の後面を撮影するのは極めて困難である。人間一人が立てるかどうかの空間しかない、と云えば見当は付くであろう。
IS−2 2輌とT−34/85を過ぎると、ISU−122と152が待ちかまえている。いいかげんここまで来ると、もうどうでも良くなってくる。とは云え、IS系列の車輌をこれだけ見られるのであるから、ソ連戦車好きにとっては足を延ばすだけの価値はあると思う。
SU−100は中庭に一輌、中に一輌ある。かろうじて後ろが撮れる、と云う配置である。要するに砲身が長すぎるのだ(笑)。
トリは「地味」の極みSU−76である。これの向こうに中庭の戦車置き場に出られるのである。お疲れさまでした。
ここまでが一つの建物である。実際には先に記した通り、中庭を囲むように建物があり、この対岸にはシミュレーター展示室と模型展示室、そして売店がある。
本館の対極にある建物は未公開であった。
シミュレーター展示室は、事前に見たパンフレットでは、なにか凄いモノがありそうな感じがあり、期待していたのだが、実際は砲塔シミュレーターと、殆どデパート屋上でほこりを被っているようなドライブゲーム方式の操縦シミュレーター(ピアノ線の付いた車が、巻紙に書かれた道の上をズルズル走るやつ)だけで、部屋の半分は射的コーナーと化していた。
模型展示室は、世界各国の精密な戦車模型が展示されている、と云うふれこみなのだが、実際は1/35のプラモデルが一昔前のデパートのショーケースに飾られて、モデラーの失笑を買っていたレベルの出来映えで、解放軍兵士が日夜こいつを作らされていたんだなあ、と感慨ひとしおである。解放軍仕様の九七式でも持っていくとVIP待遇が受けられるのではないか、などと馬鹿な気を起こしてしまった。
売店には何も無い! 改革・解放で中国もかなり物資が豊富になったとされているが、本当にここにはロクな商品が無い。軍事博物館や航空博物館のレベルを期待すると、後悔すること間違い無しである(2000.11時点)。中国戦車に関する書籍や博物館のカタログを期待していたのだが、タバコすら置いてない有様である。
とは云うものの、何かしら買わないと気が収まらなかったので、記念のバッチを買おうとした。
私はものの値段や数を、中国語で話せるほどの語学力は無い。はじめから筆談と電卓で勝負する方針である。売店の商売っ気の無いオバチャンに、バッチを指さして商談の開始を宣言すると同時に、私の手はジャケットの左ポケットに収まっている手帳を引っ張り出していた…、
はずなのだが、手帳が無いのである。パスポートと、日本円7万円と中国元2200元(約3万円)と、帰りの航空券の入った手帳が無いのである!! カバンを開けてみた、やはり無い。オバチャンはバッチを取り出そうとしている!
私は「非常事態だ、ちょいと待った!」とオバチャンを制して、売店を出た。行き先?館内でメモを取った場所、すなわち九四式軽装甲車横のガラスケースに決まっている!
中庭を走って九四式展示場所に行く、しかし手帳は無い…。自分の回った他の展示室も探す、やはり無い。
「えらいことになってしもた…」読者諸賢よ、筆舌に尽くしがたい衝撃、と云うのはまさにこう云う事を指すのである。
先に10元は大金だ、と私は書いた。「地球の歩き方」には「1元は100円の価値がある」と書かれている。つまり手帳にある約7000元は70万円に値する価値を持つのである。しかもブラックマーケットで大人気の日本国の旅券付きである。これはもう100万円を落としたことに匹敵する大チョンボなのである。
頭の中を整理した。
最悪の事態でも、宿代は旅行代金に含まれているから、寒空に放り出される心配は無い。財布に50元はあるからホテルに戻り、日本大使館に泣きつくだけの費用はある。
カメラを売る、と云う考えは何故か出なかった…。
事ここに至ると言葉がしゃべれない、などと云ってられる状況ではない。とにかく服務員を捕まえることだ。ちょうど本館からオバチャン(何故かオバチャンなのだ)が向かってくる。
ここからは「ゼスチャー」(ふ、古い…)の世界に入る。「手帳」なんて言葉は出てこないし、筆談をしようにも、そのための手帳が手元に無いのである。「(両方の人差し指で、手帳サイズの四角を描く)」「!」オバチャンは一瞬にして総てを理解した。今にして思うと、相手が火星人でも理解させられたかもしれない。オバチャンは私を本館内の事務室に案内した…。
事務室には事務長らしい男が一人座っていた。木製の机の上には、私の手帳が乗っている。
「これかな?」と云う顔をして男は手帳を取り上げた。私は「そうです、これです!」と叫んでいたはずだが、何を口走ったか記憶に無い。
「電話をしようにもかけようが無いんだよ」と男は電話をかける身振りをした。私の手帳には実家の電話番号が記載してあった、それゃかかるわけないでしょうが…。
「中を改めてくれないか」と手帳が渡された。手帳の中の現金を一枚一枚数える。元も円も揃っている。「OK、さんきゅー」しかしゃべる事が出来ないが、千金の重みを付けて話したつもりである。相手がどう受け取ったかまでは判らないが。
男は「てれふぉん」と云って、一枚の紙を寄越した。電話内容の記録表である。ここが軍隊内であることを真面目に意識せざるを得なかった。
電話もしていないのに通話記録を書く、と云うのも妙な話であるが、彼等には彼等の流儀と云うものがあるのだろう。私は
「館内で現金入りの手帳を紛失しましたが、親切な係員によって、無事に手元に戻ってきました、ありがとうございました、感謝いたします 署名」と云うような文を書き、男に渡した。彼は一通りそれを読みあるいは読む振りをして、満足げにうなづいた。
私を案内したオバチャンがお湯を淹れてくれた。朝から何も食べていなかったので、ありがたく頂戴した。しかし、手帳も戻ってきたことでもあるし、私はもうこの場所には一分一秒たりとも居たくなかったのも事実である。しかし、大型の湯呑みには、湯がなみなみと淹れてあり、これを飲み干すまでは動く事が出来ないのである。
当然の事ながら私は中国語を話すことが出来ないし、彼も日本語を話す事は出来ない。5分近く、大の大人が顔を見合わせてにこにこしている、不気味な光景が展開されたのであった…。
お湯を飲み終わると、私は「ホテルに戻る」と英語で彼に伝えた。彼はうなづき、私は事務所を出た…。
海外に旅行に行くようになって何年かになるが、日本に帰りたい、と本気で思ったのは今回が初めてである。
バス停で20分ほど鼻水を垂らしていると、バスが来た。ちゃんと徳勝門まで直行した…。
徳勝門から博物館までは4元で行ける。旅行中、くれぐれも手荷物には注意を払っていただきたい。
中国に限らず亜細亜諸地域を回る旅行者は、とかくアクシデントの多さを勲章にしたがるものであるが、世の中無事が一番である。
今回も色々と資料等を提供していただいた、全日本中国旅行のS木氏にはこの場を借りて御礼申し上げて、本稿を終える事にする。