「純然たる国防戦」

東條中将「国防論」その3


 帝国軍人後援会発行、『後援』大正2年3月号掲載、「国防とは何を為すことか」(陸軍中将・東條英教)内容再録三回目。
 当時唱えられていた、「海軍だけで国防は全う出来る」、あるいは「朝鮮半島北端に防衛線を張れば、日本は安泰」と云う国防論を一蹴、真の国防(東條さんの見解である)を語るもの。

 「防禦」には護るべき存在―財産・個人の生命など―がある。個人を「物質的」(生物としての人類)、「精神的」(近世社会構成員としての存在)の二面あるものと捉え、両方の「生存」を防護することで、初めて人の生は全うされると云う。名誉・体面に対する、「精神的侵害」は、肉体を傷つけられる以上の重みがあり、ひとたび侮辱を受けたら謝罪を得るまで闘争しなければならない。
 政治家・芸能人・経営者などが、自分の醜聞・批判記事が掲載された雑誌・新聞、記者に対し名誉毀損の訴訟を起こすのは、これによる。
 それは国家にあっても同じだと云う。前回ご紹介した通り、専守防衛的な国防では、「精神的侵害」を防ぐことは出来ない。相手国を攻め、謝罪を引き出せてこそ、国防が全う出来ると云うのだ。

 今回は、話が転じて、帝国日本が国際社会に認められるに至った出来事―日清・日露戦争―を語る、「一、二大国防戦が如何なる場合に起りたるかを回想せよ」の紹介である。
 例によって、タテ書きをヨコ書きに改め、漢字・仮名遣いの改変、改行の追加など、読者諸氏の読みやすさを優先してある。
一、二大国防戦が如何なる場合に起りたるかを回想せよ
 世人は、須く、試みに、我が国近来の二大国防戦が、如何なる場合に起こりたるかを回想すべきである。
 抑も、明治二十七年に、清国が韓国の独立を蔑し、名を、同国の依嘱に由り東学党の乱を平定せんとするに籍(か)りて、漫(みだ)りに、朝鮮半島に出兵し、以て、同国内に権威を張らんとしたることが、日清戦役の近因であるが、その遠因は、由来多年清国が、韓国に対する施設に於いて、常に、我が提議を蔑視し、由って、以て、我に侮辱を与え来たったに在るのであって、我れに在ってはこの戦争は、此等の侮辱に対する純然たる国防戦である。

 又、明治三十七、八年の戦役は、如何なる所に起因したであろうか。露国は、これより先き日清戦役の終了するに当たって、独、仏両国を語らい、我れに迫って、我が戦勝の結果として、収め得たる遼東半島を、清国に還付せしめ置きながら、爾後両三年ならずして、或る機会に乗じ、清国に迫り、自ら、該半島を殆ど併呑したるが為、我が国民は、深く、侮辱を感じ、何時かは、露国に対して、報復する所あらんと欲し、陰(ひそか)に、臥薪嘗胆の形勢に在ったのである。
 然るに、露国は、後、明治三十六年四月に至り、是より先、清国団匪の乱に乗じ、東清鉄道の保護を名として、その沿線各地を占領せしめたる軍隊を、三期に分かって、六ヶ月目毎に、逐次撤退すべく、所謂満洲撤兵条約を清国と結びながら、爾後第一期の撤兵を実行したるのみにて、第二期以後に於いては、その公約を踏まず、却って、新たなる要求を清国に提出し、我が満洲に関する支那保全の主張を容れず、剰(あまつさ)え朝鮮半島に諸種の施設を為して、韓国の独立を侵害し、同国内に於ける、我が国の勢力に制限を加えんとするに至り、益々極東に向かって海陸の兵力を増添し、以て我れを威嚇せんとするの挙に及んだのである。
 乃ち、此等の挙動は、明らかに、重々、我れを凌辱したるものにして、当時、臥薪嘗胆、切歯扼腕の中に在りし我が国をして、遂に、堪うること能わず、彼を膺懲して、以て、被(こうむ)りたる名誉の損害を恢復し、体面を保たんが為、遂に、剣を抜いて起たしめたのであって、この戦役も、亦、我れの為めには、此等重々の侮辱に対する純然たる国防戦である。

 「明治二十七年戦役」(日清戦争)・「明治三十七、八年戦役」(日露戦争)を、「純然たる国防戦」と云い切る迷いの無さ!  「我が目を疑う」とはこの事か(笑)。
 日本が侵攻されるリスクを下げるべく、朝鮮を押さえようとして宗主国・清国との衝突となった日清戦争、清国にかわって伸張してきた露国の勢力を、朝鮮から追い払い、日清戦争で得ていたはずの遼東半島を堂々確保し、日本をアジア第一の強国とした日露戦争、どちらも日本本土に敵が上陸してきたわけではない。それでも、ともに「純然たる国防戦」だと云う。
 本文をヨーく読むと、どちらも「侮辱に対する」とある。東條中将に云わせれば、両戦役は、日本への「精神的侵害」に対する「防禦」なのだ。改めて「我が目を疑う」。

 なるほど、日本から見れば、清国が、日本商人の朝鮮進出によって起きた、朝鮮国内の騒乱(壬午軍乱)に介入したのは、「精神的侵害」と云えるかもしれない。親日で開化急進派の金玉均が起こした甲申政変―日本公使館警護の日本軍の支援をアテにしていた―が、清軍に蹴散らされて失敗に終わり、国外に逃れた金玉均が暗殺されたのは、「侮辱」に値するだろう。
 しかし、朝鮮の立場になれば、明治政府による朝鮮外交の始まりから、日本による「精神的侵害」の連続であったことは否定しようが無い(朝鮮近代化の名分はあるが、いやがる子供に受験勉強させるヨーなものである)。
 日清戦争後の「三国干渉」以降、露国がとった行動は、当時の日本にとっては「精神的侵害」そのものである。戦端を開いたのは日本だが、外交交渉をやった上での戦争だから、「純然たる国防戦」と、東條中将が胸を張るのも理解出来なくはない。「名誉の侵害」、「体面を保つ」ために思い切ったモノだ。
 戦場になったところの住人にしてみれば、「ふざけるな」ではある。

 帝国日本の国威を大いに挙げた、日清・日露の両戦争を、読者に改めて思い起こさせたところで、東條は、ふたたび持論を繰り返す。

 而して、吾輩は、嚢に、曩に、人類個々の生存に対して人為的侵害の加わる三種の場合を紹介して置いたが、以上両戦役に於いて、我が国の蒙りたる侵害は、この第三の場合に当たるものである。即ち、この両戦役の初めに於いて、清国も、露国も、決して、我が国土の境域に、一指だにも、染めんとしたるにあらざることには、深く注意せねばならぬ。それ故、若しも、彼の当時に於いて、仮に、我が国防の海、陸軍備が、僅かに、国土の境域を守備するの力あるのみにして、進んで彼を膺懲し得るの力なかったものとすれば、怖らく、戦争は開始せられなかったでもあろうが、国家は、如何にして、今日の名誉と体面とを保ち得たであろうか。多分、我が国は、当時既に精神的に生存を失ったでもあろう。反言すれば、乃ち、我が国家が、今日まで、名誉を失墜せず、体面を保ち得るのも、畢竟、これ、当時、我に敵を攻撃し得るだけの軍備のあったおかげであると言っても宜い。

 なるほど、両戦争のおかげで国際的な地位はあがり、不平等条約の改正を見たのは確かだ。しかし、戦争に訴えなければ、のちに帝国日本が国土の多くを焼土と化し、国体を毀損され、軍備を禁じられる、物心両面の「侵害」を受けることは無かったろう。
 武力による強要は、それが道理にかなうものであっても、相手の反発を生む。支那に得た権益は中国ナショナリストには刺さったトゲとして日中戦争を導き、露国改めソヴィエト連邦は日露戦の恨みを忘れず、大東亜戦争末期に仕返しに出て、ついでに北方領土までもかすめ取ったのである。
 「敵を攻撃し得るだけの軍備」は、発動すれば国を亡ぼすリスクを孕む。職業軍人であった東條は、そこまで考える視野の広さを持っていない。ゆえに、外へ攻める軍備が無いことをネガティヴに語る。

 蓋し、武力の後援なき外交の、如何に不振なるかは、現今の支那を見ても分かる。
 若し、それ、右両戦役開始の直前に於いて、国際談判は、日々に、焼点に近づかんとし、国民は、激昂の頂点に達し、全国の新聞に、雑誌に、政談会に、政府の外交を鞭撻したる当時に在って、国家の軍備が攻勢を取るに足らず、政府も、国民も、泣いて敵国の横暴を承認せねばならぬ悲境に陥ったものとしたらば、如何であったろうか、国境を守る所の軍備だけは十分に有ったものすれば、成るほど、国内へ敵の侵入し来たることは、確かに免れたでもあろう。併しながら、我が主張は、全然無視せられ、仍って、以て、受けたる国辱は如何にしたであろうか、蓋し、土耳古の軍備が、如何に堅固にその本国を守備し得ても、伊太利の「トリポリー」占領の暴挙を防ぐことは出来まい。土耳古にして、若しも、これを防ごうと思えば伊太利本国を攻撃してこれを屈服せしめるより外ないのである。

 中国、トルコを引き合いに出し、「武力の後援なき外交」が当時の国際社会では無力に等しいと云う。
 ここで語られているイタリアの「暴挙」は、伊土戦争(1911−12年)のこと。イタリアがオスマン・トルコ領のトリポタニア・キレナイカ・フェザーン(現在のリビア)に侵攻し、割譲させた。今日では世界史の教科書にちょっと書いてあるくらいの出来事だが、東條中将の論が掲載された大正2(1913)年から見れば記憶に新しいところだ。この戦争で、オスマン帝国の弱体が露わになり、バルカン同盟(セルビア、モンテネグロ、ギリシャ、ブルガリア)が第一次バルカン戦争(1912−13年)を引き起こすことになる。

 記事はふたたび専守防衛論の否定に移る(以下次回)。
(おまけの参考)
 日清戦争の背景を掴むため、総督府に転がっていた『徹底検証 日清・日露戦争』(文春新書)読み返すが、朝鮮側の事情がよくわからない。新刊本屋で近代朝鮮史の(薄手の)本を探す。
 趙景達『近代朝鮮と日本』(岩波新書)は、19世紀半ばの朝鮮開国から韓国併合までの朝鮮国内の情勢に、日本からの働きかけ(朝鮮側から見れば余計なお世話に等しい)を織り込んで語るもの。
 「儒教的民本主義にあっては、政治の主体はどこまでも国王や官僚・士族にあり、民は政治の客体でしかなかったが、その代わり民の異議申し立ては確固として認められていた」と記しながら、あとで「あくまでも理想であって」と語らざるを得ないところに著者の苦しみを見る。

 『歴史認識 日韓の溝』(渡辺延志、ちくま新書)は、日清戦争当時、日本軍が行った朝鮮農民軍(日清戦争の要因となった東学農民軍)の掃蕩作戦の実態を残された記録をもとに紹介、その記憶が警察力を補うための「自警団」組織化―主力は在郷軍人―と、彼らによる、関東大震災での朝鮮人殺戮につなかったとする。読んでいる胸が痛くなってしまうが、これを知らないと「溝」は埋まらない。

 『日清・日露戦争の真実』(渡辺延志、ちくま新書)は、本稿を書き終わろうと云うトコロに本屋で見かけ、あわてて買って読んだもの。
 「日清戦史決定草案」と云う、公刊戦史に先立って編纂された記録から、開戦に先立つ日本軍の策謀、平壌攻略時の補給不足、混乱を紹介している。それらは「前車の轍」として、今後の軍の活動の反面教師として活用されるべき事として記録されたのだが、公刊戦史からは切り捨てられてしまう。そうして成立した「戦史」が、日本の行く道を誤らせたと考察している。
 終章に東條英教が登場(草案のとりまとめをする立場だったのだ)したので驚く。退役後は、「国際教養を備えた元軍人のオピニオンリーダーという役割を担っていたようだ」と云うのが著者の見解で、書き残された記事のタイトル、掲載誌名、一部は内容も紹介されている。
 また、日清戦争の戦史編纂をやっていた頃に書かれたとされる文章に、琉球・朝鮮問題で、清国内で日本と戦うべきとの声があったことも紹介されている。清側も「精神的侵害」を蒙っていたとの認識はあったのだ。
 幸い? 「国防論」の存在は記されておらず、安堵している(苦笑)。

 伊土戦争・ヴァルカン戦争のあたりは、安直にウィキペディアを参考にしている。
(おまけの余談)
 「精神的侵害からの防禦」として戦争を正当化するのは、極めて危険な考え方である。戦争が終わっても遺恨が残る。負けた方は復讐の念があり、勝った側だって「やり残したこと」があったりする。
 戦争に替わるモノを考えることに、人間の脳味噌を―地球環境問題のように―使う時期に来ているんぢゃあないでしょうか。それが「地球連邦」、「惑星連合」への第一歩のような気がしてならぬ(笑)。