一号戦車はソ連製?

支那事変鹵獲戦車考


一号戦車

 …と云うタイトルを付けると「主筆も耄碌しやがったもんだ」と云われそうだが、「画報躍進之日本」昭和14年3月号の「皇軍に鹵獲された列国製戦車」と云うグラフに堂々と書かれているのだから仕方が無い。説明に曰く、

 ソ連製第一号戦車
 重量5トン、乗員2名、馬力57、最大速力50キロ、機関銃2門で現にスペイン戦線へも輸出されて活躍している。

 戦車自体の説明をするつもりは無いが、戦車ファン以外の便宜をはからないと読者に逃げられてしまうので、少しだけ。

 写真の戦車は決して「ソ連製」ではなく(笑)、れっきとしたドイツ製で、現在では「一号戦車A型」と称されているものである。「グランドパワー」2000年4月号によれば、部隊配備は1935年(34年は車体だけのようだ)から行われた。35年は昭和10年で、日中戦争の2年前にあたる。

写真では判りづらいが、車体前上面に青天白日マークがあるのが確認できる。車体前面のライトが通常装備されているものよりも一回り大きいが、戦地にて鹵獲された戦車の写真を見る限りでは、ドイツ軍同様のライト(中央と、フェンダー上部)を装備しているので、展示用に別車輌のライトを取り付けた可能性が高い。


 中華民国軍使用の一号戦車については「戦車マガジン」1985年8月号に詳しい記事が出ている。と書くと戦車ファンとしてキャリアがあるように見えるが、なあに先月古本屋で購入したまでの事である。


 当時の兵器情報事情では、自国以外の兵器の性能に関しては割とオープンなところがあって、上記「躍進之日本」での記事は、「ソ連製」と云う一点を除けば、陸軍技術本部発行の「支那軍兵器要覧」(昭和13年10月版)に掲載されている諸元と概ね等しい(重量だけ4860sが5トンになっている)。同本での表記は「「クルップ」軽戦車」である。

日本軍に鹵獲された一号戦車

 これは「カメラの戦士 濱野嘉夫」に集録されていた一号戦車。機銃銃身にフラッシュハイダーらしきものが装備されており(銃身が長く見える)、通常の一号戦車銃身にある冷却孔も確認出来ない。
 機銃の換装を行ったものなのか、只のダミーなのかはこの写真からは判断出来ない。(2種類以上の銃身形式が存在した可能性もある)

 「戦車マガジン」の写真にもフラッシュハイダーを装備した銃身(こちらには冷却孔が確認出来る)のものもあるので中国に輸出されたものにはフラッシュハイダーが装備されていたようである。

 「グランドパワー」に掲載されている、演習中の戦車(表紙等)には、銃口に筒状のカバー?を付けている写真があり、これを前後逆に装着すると、フラッシュハイダーの役割をするようである。また、同号にはフラッシュハイダーを装着した写真も一枚確認できる事から、通常は逆向きに銃身に取り付けておき、必要に応じて装着していたようだ。戦場での写真で確認出来ないのは、戦闘時にはずしたか、撮影時までに紛失したのであろう。

 これは「一億人の昭和史 日本の戦史4 日中戦争2」に掲載されている一号戦車。ポピュラーな銃身形状である。

 銃身形状については、これ以上の資料を持っていないので、どなたか御教授いただけたら幸いである。

アンサルド戦車

 こちらも「躍進之日本」からのスチールで、「仏国製アンサルド軽戦車」である。

 重量3トン、乗員2名、馬力40、最大速力40キロ、機関銃1で小さい豆戦車である。


 もちろん実はイタリア製で、「支那軍兵器要覧」ではちゃんと「伊「フィアット・アンサルド」1933型軽戦車」となっている。現在はL3/33とかCV33と云った方が通りが良い。
 筆者は現物を北京軍事博物館で見たが、本当に小さい戦車である。

T26戦車

 これはおなじみのT26軽戦車。

 ソ連製T26型戦車

 重量9トン、乗員3名、速力35キロ、馬力80、45ミリ機関砲1、機関銃1。

6トン戦車

 最近ひいきにしているヴィッカース6トン戦車。「6トン」として有名なのだが、実際の重量はもっとある(笑)。

 英国ヴィッカース製軽戦車

 重量8トン、乗員3名、速力35キロ、馬力80、機関砲1、機関銃1。


 看板の方はしっかりと「ビ式軽戦車」と日本式呼称となっているとこが素晴らしい(笑)。日中戦争初期に使用され、複数台が鹵獲されている。「支那軍兵器要覧」では「ビッカース軽戦車」(なんで「ヴ」じゃあないんだ!)。

 鹵獲された独・伊・ソ・英製戦車を展示していた場所は靖国神社であった。当時の鹵獲戦車展示会からの一こまである。何故、「独・伊」の国名を伏せていたかは、当時の国際情勢が露骨に反映されているからに他ならない。

 しかし当時の雑誌ではムッソリーニ、ヒットラーを稀代の英雄として扱いはじめており、一号戦車もアンサルド戦車も、躍進する独・伊の象徴として独・伊戦車としてマスコミに登場しているのである(笑)。

 これらの戦車がその後どうなったかはさだかでは無いが、こう云う史料が見つかった。
 「機甲」(掲載号は失念)に掲載された騎校○○隊の行った実験射撃に関する記事である。

 ○○製第一号戦車(水陸両用)砲塔に対し○○式軽戦車搭載火器を以てする各種弾薬の効力を検すると共に観測状態を審査す

 この「○○製第一号戦車」が何であるか?下の写真でお判りの通り、鹵獲された一号戦車のなれの果てである。

射撃結果

 徹甲弾(37粍)超飛痕射線の、砲塔後面に対する貫通可能なる面積は、幅約30糎にして他の面に着弾せば凡て超飛す、避弾経始の重要性を認めらる

 この実験での射距離は400米と300米。400米では超飛(命中角度60〜65度)、300米でも略直角に命中しないものは超飛であった。日本陸軍37ミリ戦車砲の非力さが伺える。300米の射距離でも幅30センチの範囲内に着弾しないと弾ははじかれてしまうと云うのである。嗚呼…。

 ちなみに同じ実験で、車載重機での射撃も実施したが、こちらは50〜200米の距離から徹甲弾にて射撃したが「表面塗料を脱するのみにて侵徹威力を認めず」とある。


 しかしなんで軍内部向けの「機甲」でまで○○製にしないといけないのだろう?「盟邦ドイツ」の戦車に銃を向けた、と云う事実を隠蔽したかったのだろうか…。しかし「水陸両用」と云う注釈は…ナゾである。

嗚呼…