日本戦争カメラマン服装考


 戦争カメラマンと云うと、スペイン戦争のキャパや、ヴェトナム戦争のサワダを連想してしまうのだが、日中戦争、太平洋戦争において日本の報道機関がスチール、ムービーのカメラマンを戦線に投入したのも事実である。彼等の働きにより、現在の我々が受ける恩恵は多大なものがあると云ってよい。


 しかし、彼等がどのような装備で戦場に立っていたかについては、殆ど言及されていない。ここ2、3年の中古カメラブームにより、「コンバットカメラ」 が脚光を浴びたこともあったが、それはあくまでも戦後米軍のニコンやライカであり、二次大戦中のグレイのライカである。

 写真撮影道楽者の私としては、撮る側がどのような出で立ちをしていたのか、常々興味を持っていたが、それに応える史料に恵まれずにいた。今回面白い史料が手に入ったので、昔年の疑問に回答すべく、本稿を書き上げる次第である。もとよりまとまりのある内容では無いので、モデラー諸子のディオラマ製作資料として活用していただければ幸いである。

 これは 「従軍カメラマンの戦争」 (石川 保昌 新潮社) 115P にある、昭和13年頃の従軍記者の集合写真である。

 同書によると

 従軍中は、まず機材は、蚌埠 (パンプー) 戦のときはライカのボディが一台に (徐州戦からは故障したりすると困りますのでボディ二台になりました) 、レンズが35ミリ、50ミリ、135ミリの三本。フィルムは二重に小袋に詰めて、一回の従軍で最低五十本は持っていきました。

 ほかの荷物は兵隊さんとほとんど同じです。リックサックに水筒、飯ごう。 (略)

 と云う記述があるだけで、服装の事まではふれられていない。この写真から推察すると、被服は自弁のようである。

 次に紹介するのは、昭和12年12月8日に南京攻略戦の取材中に戦死した、朝日新聞カメラマン濱野 嘉夫の遺稿集 「カメラの戦士 濱野嘉夫」 (非売品) での濱野氏の服装である。

濱野

 右端が濱野氏。同日撮影と思われる別カットでは、4ボタン、4ポケットのウール地の被服であることが確認できる。上着の腰には同生地のベルト。濱野氏はストライプのネクタイまで着用している。
 ポケットの中のカメラが入っているようだ。

濱野氏

 モアレが入って見づらいが、夏の濱野氏。左の写真では、ゲートルでは無くハイソックスを履いている。上の写真では、帽子の顎ひもが無くなっているが、この時点では残っている。


 右は上海市図書館をバックに戦闘服スタイルの濱野氏。胸からコンタックスT型を速写ケースに入れて下げている。

 コンタックスはライカと並ぶ当時の最高級35ミリカメラ。カールツァイス製の優秀レンズを装着出来る。シャッターの構造(タテ走り式)の複雑さがアダとなって、現代では置物としての価値しかなかったりする。ロシア製のキエフはコンタックスU型以降のモデルをコピーしたもの。やはりシャッターに爆弾を抱えており、シャッターが故障した場合の修理は困難と云われている。そのせいか、同時期のライカに比べ、コンタックスの方が中古価格は安い。加藤隼戦闘隊の加藤建夫少将が愛用していたカメラでもある。

濱野と戦車

 上海近郊で捕獲された中国軍戦車と。

 カメラは折り畳み式のプレス用。機種の特定は出来ない。35ミリが主流になる以前はこう云うカメラだった。

 戦車のハッチに 「戦利品」 と書かれた布が掛けられているのに注意。

濱野座る

 警戒配置についた兵士をバックに座り込む濱野氏。
 8月26日付けの手紙につけられた写真。8月に戦地に派遣されているので、到着して間もないころの撮影。

 白いシャツ、ゲートルの無い足下がそれを物語る。コンタックスも中国で購入したのだろうか。

一号戦車

 12月8日の戦闘で濱野氏を死亡させた中国軍戦車。おどろくなかれの1号戦車A型である。

 この戦車は日本に持ち帰られ、靖国神社かどこかに展示されていたそうである。

 日本の戦場カメラマンの服装は、これで見る限り自由のようである。カーキ色のスーツにゲートルあるいはハイソックスであるから、古典的登山者の服装に近いことがわかる。腕に腕章を巻いているのに注意。


戻る