中華民国軍化学戦装備について

−頼む!図版を入れてくれ!!−


 日本軍が中国本土において、化学戦を行った、やってない、と云う論争に加わろうと云う酔狂なマネをするわけではない。
 あるBBSでたまたま当時の中華民国軍使用の防毒面の話題が出ていたので、ちょいと(頼まれたわけでもないのにわざわざ中国語の書籍を自腹で購入して)調べてみただけの事である。

 以下の文章はそこに投稿したものであるが、今後の便宜を考えて、「兵器生活」上に一部改定の上、再録したものである。

「中国近代兵器工業−清末至民国的兵器工業」
<中国近代兵器工業>編審委員会

*私註:原文の表記通りにテキスト化するよう心懸けているが、原文が簡体字にて表記されているため、繁字体に改めてある。
 原文が中国語であるため、化学薬品等に中国語固有の文字が使用されている場合がある。本来であればその文字を使用するのがベストであるが、漢字変換辞書に存在しないものあるいは表示が出来ないものもあり、これらについては「■(部首、つくり、訳語)」と云う表記をとるものとする。したがって厳密な中国語での表記が出来ないことをお断りする。
 同本には個別の地名が頻出するが、繁字に変換できないものもある。それについては、語句の後に(?)を付けることで、以後の確認事項とする。

 本文83頁

 五、防化器材和化学戦剤

 第一次世界大戦中、1915年徳国軍隊在比利(イーブル)時前線噴放窒息性■(気の上に碌のつくり:塩素)気、最先将化学毒剤用於戦争。后来交戦双方競相研制更新的化学毒剤、大戦后期用於戦場上的就有31■(のぎへんに中:種)、已研制成功尚未使用的有17■(種)。
由於化学毒剤対人体的残酷傷害作用、1925年6月有関国家■(箋の異体字?署名するの意)署禁止在戦争中使用化学毒剤的<日内瓦(ジュネーブ)議定書>、但帝国主義各国仍暗中研制更新的化学毒剤、従未中止。
 化学毒剤用於戦争后、各国又先后研制出防毒面具、防毒蔽覆物等防毒器材及消毒器材、成為化学戦中進攻与防御両類主要工具。

 (一)防化器材制造
 為了対化学(毒剤)戦、中国従20世紀30年代初期開始、相継在各地建立了以制造防毒面具為主、兼制地下掩体用的濾毒装置及消毒器材的制造工廠(工場)、有地方政府建立的、有兵工署直轄的、主要工廠有:
 
 (1)東三省兵工廠防毒面具工場。於1931年建立、設備購自欧州、日本”九一八”事変后工場被毀、設備散失。

 (2)1931年初、広西科学研究所建立於南寧、后遷梧州、研制防毒面具。1937年11月並入兵工署広西兵工廠籌備(準備)処。

 (3)南京中央工業試験所。1932年該所曽制造防毒面■(よんがしらに卓:マントやカバーのような被せるもの)及濾毒罐、装配防毒面具1万具后結束生産。

 (4)金陵兵工廠防毒面具工場。於1932年建立、先生産23年式防毒面具、后改24年式。1937年生産規模拡大、年産防毒面具6.2万具。1938年西遷后該工場並入第二十三工廠。

 (5)■(恐の上に革:河南省の地名)縣兵工分廠防毒面具工場。由兵工署1933年籌建、設備購徳国、1936年建成、月産防毒面具3000〜6500具。該廠活性炭制造工場、因抗日戦争爆発、設備未能到斉。1938年■縣兵工分廠遷四川瀘縣、防毒面具率先回復生産、最高月産1万具、至1945年、累計生産24年式防毒面具64.5万具。

 (6)西北制造廠防毒面具工場。於1937年建立、抗戦爆発后、工廠西遷、
設備散失、生産状況不詳。

 (7)広州面具廠。1934年由広東、広西両省合弁、以広東化学廠名義向徳国訂購(とりきめて買う)設備、在広州建廠。1938年遷広西柳州、后遷貴州遵義、1939年改称第四十二工廠、生産的防毒面具称四二式防毒面具、日産100〜200具、1946年該廠並入第二十三工廠。

 (8)広東第一兵器制造廠於1935年設立活性炭試験工場、利用華僑損贈的椰子殻作原料制活性炭。

 (9)1937年兵工署組織上海強華実業股■(にんべんに分)有限公司、捷和鋼鉄製造廠等原制造砿井用防毒面具的民用工廠進行軍用防毒面具的制造。強華実業公司遷往香港后、於1940年将其制造防毒面具的模具和材料転譲(ゆずる)第二十三工廠。
 由上可知、中国近代防化器材生産的主要品■(のぎへんに中、種)是防毒面具、生産時間最長、産量最多的是第二十三工廠。生産設備、主要原材料如半硫化橡膠(ゴム)布、鉄皮(ブリキ、トタン)、金属絲網、濾毒活性炭等大部分購自外国。抗日戦争期中、為了対付日軍施放毒気、又曽在第二十三工廠新建口■(よんがしらに卓、口■でマスク)工場、油布工場和利用所属皮革分廠ー制大批簡易防毒口■(よんがしらに卓)、防毒手套、衣■(ころもへんに庫、スボン)、斗篷(とま、ほろ)和防毒靴等防毒蔽覆物応急。抗日戦争勝利后、各■(種)防毒器材先后停産。

 関於防毒面具的制造:先倣意大利型(称23年式)、后倣徳国型(称24年式)、再改進24年式面■(よんがしらに卓)的口部装置、部分改用国産材料、称為27年式。第四十二工廠生産的称四二式。以上型式中又以24式、27式両■(種)為主。

 此両式防毒面具均由面■(よんがしらに卓)、濾毒罐両大部組成。面■(よんがしらに卓)由硫化橡皮制成、内辺縁■(ころもへんに寸、裏当て布)有■(鹿に包、鹿の一種)皮密合框、使与人的面部緊貼、■(にすいに中、衝?面部に眼窩を空けてあることを意味するか?)有眼窩、装安全玻璃、雖遇撞撃、不致■(石に卒、砕ける)散。面■(よんがしらに卓)由6条有伸縮性的縛帯固於頭部。濾毒罐由鉄皮■(にすいに中、衝、突出していること)成、上部有螺紋与面■(よんがしらに卓)相接、底部装多孔板。罐内上下装有金属絲網、中層装濾■(火に因、煙)紙片及活性炭。平時用蓋封好上下口、使用時去蓋接於面■(よんがしらに卓)。該濾毒罐対濃厚之毒気可指示6小時(6時間)、対希薄之毒気、間断使用、可達数月。

 27年式面■(よんがしらに卓)眼框構造上有保明装置、使吸入空気吹過眼窩内面、可将呼気時凝於其上的水分吹干、鏡片不致模糊。■(口に力、分ける)配備有保明膏、可在外面気温太低時、干眼框内壁塗上少許、保持眼框鏡片透明。
 
 又27年式面■(よんがしらに卓)的口部接頭、将吸気和呼気上下排列連接一起、分上下両段、上段与濾毒罐連接、各有気門。吸気時、上段気門開放、下段気門関閉;呼気時下段気門開放、上段気門関閉、使呼出之水気不進入濾毒罐中、以保持其有効寿命。24年式呼気気門装在面向面■(よんがしらに卓)方向右側与吸気気門(濾毒罐接口)分別安装。24年式気門全由金属制造、27年式則用■(酉に分、フェノール)■(酉にくさかんむりの下に全、アルデヒド)塑料一次圧成、既筒化了工芸又節約了金属材料。

 23年式面■(よんがしらに卓)的濾毒罐形状与面■(よんがしらに卓)接口螺紋尺寸不同於24年式面具、不能互換、不久、23式也改為24年式、以達到互換的要求。

 四二式面■(よんがしらに卓)、■(よんがしらに卓)内無■(ころもへんに寸、裏当て布)布、工芸簡化。濾毒罐内使用国産的濾■(火に因、煙)紙片、初期過濾阻力過大、后経紙廠改進、阻力合格。四二式防毒面具在総体質量上次於24年式和27年式、因此産量不多。
 まだ本文は続くのだが、テキスト化が追いついていないので、ここで「次回に続く」のである。

 とまあ、中国語を初めてテキスト化してみたのだが、なかなか面倒である。俗に「同文同種」などと「文字が同じだから俺達仲間だよ」と云う話が云われるのだが、御存知の人は周知の事実なのだが、中華人民共和国においては、漢字の簡略表示が永年にわたって展開されており、まずこの文字を元の漢字に戻す必要がある。

 いわゆる漢和辞典は日本語の漢字利用に便宜を提供するためのものであるから、簡字体なぞ無い。そこで中国語辞書の出番となるのだが、今度は中国語としての漢字を調べる性格のものなので、漢字索引を使用しないと目指す文字にたどり着くことが出来ない。

 この索引と云うものがくせ者で、辞書によっては日本の漢和辞典が使っている部首索引が無いものがある!古い辞書の場合だと簡字体が無い!!などと云う有様で、苦労して調べた元の漢字がATOKで変換出来ない、中国だけで使用しているものだった、なんて事もある。


 上の文章は、

 1930年代から、中国国内で対化学戦装備の生産が始まった。
 主要な生産工場について
 主要装備である防毒面について(23年式、24年式、27年式、42式)

 と云うパートからなっており、防毒面については、イタリアのものをモデルにした23年式、ドイツ式の24年式、24式の改良型の27年式と四十二工廠モデルの42式があり、24年式と27年式が中心だった。と云うだけの話である(笑)。


 当時の防毒面は、戦利品として日本国内に持ち帰られ、民間防衛用品として頒布されたと云う話もあるようである。私が慣れない中国語の辞書なんぞを使ってみよう、と思ったのも、そういう背景があることによる。

 引用文の最後には、中国製防毒面の構造と特長について記述されているのだが、現物の写真、図面が本にまったく掲載されていないため、写した本人もなんだか良くわからないと云う情けない有様となっている(笑)。