『飛行少年』昭和20年1月号記事より
人間、何が不幸かと思うと、「云いたいことが云えない」に尽きる。
「ありがとう」の一言が云えず気まずくなる。「できません」と力不足を訴えられないから、言い訳だウソだと見なされる。「ごめんなさい」と過ちを認めなければ、人間関係と生活基盤が危うくなり、逃げ廻るしかなくなる。「助けて下さい」と口に出せないと、生きることにも行き詰まる。
口に出してみると、周りの人も同じ思いで安心したり、助け船を出してもらえる事もある。野党も鬼ではないから命までは取らない(笑)。結果がどうであれ、心の重荷が下りた感覚は清々しい。仕事のミスは早く報告した方が良い。
戦時中、とくに昭和19年末頃からの雑誌記事を読むと、国民を瞞しやがってと憤るよりも、業務上そう云う文章を書かざるを得ない、書き手の不幸を思うことが多くなった(この期に及んでまだ瞞そうとしているとしか思えぬ文章もありますが)。
東横デパートの古書市で『飛行少年』の20年1月号を買う。
薄い雑誌ひとつでこの値段か、と思ったものの、親のカタキと古本は出会った時が百年目なのだ。
『飛行少年』20年1月号
米艦を葬り去り、悠々空を行く「陸攻」が描かれている(画面後方には『彗星』も)。
前線・銃後がともに待ち望んでいる光景だ。それが稀なものになっている事を、今のわれわれは良く知っている(はずだ)。
19年7月 東條内閣総辞職
19年8月 テニアン、グアム陥落
19年10月 「決戦輿論指導方策」決定、台湾沖航空戦、レイテ沖海戦、神風特別攻撃隊出撃
19年11月 B29東京初空襲
印刷納本日付「19年12月25日」のこの号は、グラビア(もはや本紙同様ザラ紙)に「制魔のつばさわれに在り」と題された、陸海軍の新鋭・精鋭機の写真が―判別出来ないものもあるが―載り、山岡荘八が「神風特攻隊と少年たち」と云う、銃後少年に向けたアジ記事も書いていて、モトは取れたような気分にはなる。
今回ご紹介するのは、海軍航空本部/海軍中佐 三井謙二「見よ! 我が攻撃機の威力を」だ。
この記事、”我が攻撃機の威力”と云うタイトルなので、天山艦攻の話でも書いてあるのかと期待して読み始めたら、結びが
頑張りましょう。
大人に負けず頑張りましょう。
大日本永遠の隆昌のため、大人以上に若々しく頑張りましょう。
(改行は引用者による)
の、”業績不振企業経営者の社員向けメッセージ”も同然なので愕然となってしまう。しかし前半の記述は面白い。
と云うわけで、例のタテヨコ変換など施したものを掲載する。
見よ! 我が攻撃機の威力を
海軍航空本部
海軍中佐
三井謙二
敵米国は如何に戦って居るか
世界の大国米国は国土が広く、金は唸るほどあり、人口は世界の文明国の中で最大であり、戦争に必要な資源は、これ又世界一と言われています。その米国が、東亜の一島国―誰が見ても大人と子供の喧嘩としか見えない日本と、いま戦争をして居るのです。而かも、その大人には、次から次へと応援者が出て来て居ます。
今日の戦争を諸君は何と見ますか。ずるいひょろひょろのお年寄りと、脂肪太りのでぶちょのギャングが、桃太郎に目をむき、ピストルをつきつけて、宝物をよこせ、お猿を渡せ、犬を渡せという有様が、丁度、今から三年前の世界の姿でありました。
年少者向けに、改めて、今行われている戦争の背景を語っている。
”大人と子供”で表される国力の差を述べたところで、ルーズベルトとチャーチルが、桃太郎を”カツアゲ”する場面に移る。”宝物”は満洲か、仏印か、お猿は三国同盟か、では犬は何?
宝物は或る程度渡しました。これ以上渡したら、桃太郎はお爺さんやお婆さんと暮して行く事も出来ず、可愛い家来も動物園のお猿となり、白亜館の番犬となるばかりです。よし一さいを投げ出して、もう一度、鬼征伐をやろうと決心して、先ず向こうすねを蹴上げ、右の眼に一撃を呉れたのが、ハワイ海戦であり、マレー沖海戦となったのです。
開戦経緯を記した読み物の一つ二つを読んでいれば、何も手放せないと思ったから、一か八か戦争に打って出たことがわかる。”或る程度”でも譲歩していたら、アメリカと戦争なんか始めていないでしょう! 声を大にして云いたい。
「桃太郎 海の神兵」より
ちなみに「白亜館」はホワイトハウスのこと(犬がここの番犬にされるとは、歴史的皮肉が効きすぎてます)。
米英は眼をはらし、びっこを引きお医者に通って、身体を恢復させると、「おのれ、このちんぴら小僧奴」と、猛然と本性を現して来たのが、一昨年のガダルカナル反抗作戦です。それまでに桃太郎はあちこちと、ずいぶんぶんなぐって来たのですが、なかなか大男です、死にもせず、立ち直りました。
「立ち直りました」の一言が怖ろしい。記事冒頭の”大人と子供”の現実に立ち帰ると、先行きが不安にならずにはいられない。記事はさらに読者を不安に陥れるような事を云う。
日本人は昔から強い国民です。それだから、他の国民は弱いと思ったら間違いです。
今日の戦争は小規模な昔の戦争と違って、一国対一国の思想戦であり、資源戦であり、生産戦であり、武力戦であります。その何れに敗れても戦は負けです。
毛唐はどうも俺達より偉そうだ、戦争と言うものは惨酷だ、米国と仲直りをしてその召使い位になって生きていけないだろうか、美味しいものが喰べ度いなど考える事は、思想戦で既に負けです。
戦争に必要な資源を浪費し、暗(やみ)に流して他のものに使い、資源地を敵に取られる事は資源戦の負けです。
工場を休み、食糧の供出を怠り、戦争に使えない粗悪な兵器を作り、金だけ取って仕事を怠れば、生産戦は負けです。
まず今に云う「日本人スゴイ」にクギを刺す。国民が強いのは、それぞれ置かれた場所で力を存分にふるい、まっとうに生きていればこそである。そこに日も米もない。
総力戦を改めて定義し、そのどれに負けてもダメなのだと説く。その一つ一つは、読者(子供)の親たちが見えないところでコッソリ話し、職場で密かにやらかし、戦争の推移で遠からずそうなるだろう事を、ハッキリ語る。もちろん、日々の仕事に向かうしかない、大多数の国民は”そんな事は知らない”、”関係がない”と云うべきだろう。しかし、「決戦輿論指導方策要綱」に、「社会各界ノ指導者層ハ自ラ深ク反省シ大衆ヲシテ必勝ノ信念ニ疑惑ヲ生ゼシムルガ如キコトハ日常ノ言動ニ於テモ深ク戒心」するよう明記されているのだから、それが出来る人はやっていると考えるのが妥当なところだ。
「米国と仲直りをしてその召使い位になって生き」ようとしている、”日本国”で暮らす一人の目から見れば、戦争はもうダメだ、負けだと思わざるを得ない。
今米国は物凄い量の兵器と、人員を、戦争に注ぎ込んで、莫大な損害も顧みず、次から次へと土地を奪回し、資源を奪いかえし、空爆に依って、生産工場を壊滅させ、空襲被害に依る惨禍を目に物見せて、日本の戦争意力をにぶらし、武力戦に勝って、日本をして、大東亜をして彼等の奴隷たらしめんとし、物凄い消耗戦をやって居ます。
皇国将士の敢闘はよく敵船隊を次から次へとやっつけ、上陸して来た何万人と言う敵兵を砲弾爆弾の下に敢然とむかえ撃って、小数の兵力でよく敵大軍を撃退、孤島に万歳を三唱して玉砕し、銃後は老いも若きも女も、前線に血と汗の兵器を送って、真に挙国一致で戦って居ます。
ここで「真に挙国一致で戦って居ます」と軌道修正が入る。筆がすべった自覚はあるらしい。全力で戦っているはずなのに今の時局があるわけで、当時の読者は、なんでこうなるの? と思ってしまうだろう。
然し、あれだけの損害を受けながら、敵米国はなおも敢然と戦って居ります。敵ながら実に天晴れと言い度いところです。なぜでしょう。
日本の国力の何倍かの物量を注ぎ込めば、損害はあっても勝てると信じて居るからです。
戦争は負けたと思った方が結局負けなのです。最後の一兵になるまで負けたと思わなければ、必ず勝ちます。物量には限りがあります。魂は無限であり、敢闘精神は物量と比べることは出来ません。ところきらわず消耗して居る米国の物量や人命が、或る限度を越えれば、これはいかん、損だと言う事になって、国体が違い、考えの違う米国民は、戦意に於て到底我が日本の敵ではなくなるでしょう。
”負けたと思わなければ必ず勝つ” その通り! とツイ受け入れてしまう言葉だ。
しかし世の中、勝敗のルールも厳存する。野球なら9回ウラ終了時点で得点の多い方が勝つ。点数の低いチームがいくら「ウチは負けてない」と主張し、監督、主将が抗議をしたところで判定は覆らない。女子マネージャーが喉を突き、応援団が、球場前で揃って腹切りしても駄目だ(不正が行われていたら話は違ってくるが、それは考えない)。
そもそも自軍の得点が相手より低い状態を、試合中ずーっと見続けていて「負けてない」と”本当に”思っていたらバカです。それでも「あの試合は勝っていた」と云い続ける人は、当事者ではない外野の衆に過ぎない。
上の人は「そうは云っても負けは負け、次の大会に向けて今日くらい休め」くらいの事は云ってもらわないと、下はやってられない。
「魂は無限」も、額面通り受け取ってしまう言葉だが、魂を計測する手立ては(今のところ)無い。”ある”と”ない”の区分けが日本人の中だけで通用している話に過ぎぬ。その”魂の器”が、切れば血の出るナマ身の人間であり、無限に働き続けられるモノではない現実を見据えるべきだ。
「米国の物量や人命が、或る限度を越え」て、ヴェトナム戦争は終わったとは云える、しかしもう少し粘り抜いてアメリカから停戦を云い出した時、日本の誰もが”勝った”と思える条件をつける事は出来るのか? 南洋諸島を返還、東南アジアの占領地は仏印ともども放棄、支那大陸からは撤兵(あるいは『支那事変』だけは継続)、賠償金はもらうではなく”払う”。桃太郎が宝物、犬、猿を差し出しているのと同じだ。
それでも、国体が”護持”されていたら、”多くの日本人の血が、大東亜諸民族自立の礎となった”くらいの事は、平然と教科書に載るのだろう。
そうか、極端な”右寄り”の言説を書いている人達は、戦争に”負けたと思っていない”のだ。
【おことわり】記事後半はページを別にする。
内容が大きく変わるからだ。主筆が紹介したいと思ったのは前半なので、ここで終わりにした方がまとまりも良く、本人もラクなのだが、記事全部載せるのが「兵器生活」本来の姿なので、オマケ扱いで載せておく。