日本史への疑問


◎教科書や一般に言われている日本史上の常識。しかしそれらの中には、近年の研究の進展などにより、実は誤り
  だった、というようなものも少なからず含まれています。あるいは間違いとは言えないにしても、ちょっとそこで立ち
  止まって、「なるほど!そういう事情があった上でのことなのか!!」というようなこともあります。このサイトの根幹
  である「日本史」コーナーは、それらに関する説明を、質問を交えながら行っていくものでした。
  ここでは、「大人の事情」により、話をすべて展開することはできません
(汗)が、ともかく疑問だけでも示し、皆さん
  がお考えになるきっかけにしていただければ、と思います。

【原始・古代】
○縄文人
 
・弥生人のようにまだ稲作もできず、日々食料を求めてギリギリの生活を送っていた、という理解は正しいのか?
  ・縄文人の暮らし・文化は、これに続く弥生人の文化とどのようにつながっていくのか?→
拙著『日本史へのいざない』2をどうぞ。
   
○邪馬台国論争
 
・邪馬台国の位置に関しては、江戸時代以来の唯一の文献『魏志倭人伝』に基づく重厚な研究蓄積がある。さらに昭和30年代
   以降、全国各地で遺跡調査がさかんになり、今日までにいくつもの重大な発見があった。そしてその都度、同じ結果に基づいて
   畿内説と九州説の両方が主張されたりしている。これだけ科学技術が著しく進歩した現在においても、なおこの論争に決着が
   つかないのはなぜなのか?→
拙著『疑問に迫る日本の歴史』をどうぞ。

○邪馬台国とヤマト王権
  ・邪馬台国を一応畿内にあったと考え、その上で近年注目されている纒向遺跡と邪馬台国及びヤマト王権の関係、邪馬台国と
   ヤマト王権との関係、前方後円墳の特質から見たヤマト王権の性格とはどのようなものか?

○平城京遷都
  ・694年、長く使用するつもりで藤原京を造営したのに、なぜわずか十数年後にこれを廃し、平城京をつくったのか?これについては、
  藤原京の中央に位置した宮城が、南側の京域より低い地形だったため、汚水が宮城へ流れ込んでしまったから、とする説もあるが、
  はたしてそれは正しいのか?拙著『疑問に迫る日本の歴史』をどうぞ。

○桓武天皇
  ・古代では飛び抜けて長い25年もの間在位し、「軍事(蝦夷征討)と造作(長岡京・平安京の造営)」の二大事業を推し進めた桓武
  天皇。実は天皇になることが奇跡?に近い立場にあった。したがって即位当初は常に天皇としての正統性を問われ、反対派から
  の抵抗に悩まされたが、いったいどのようにして自らの権威を確立していったのか?  

○武士の成立
  ・武士の成立については、長い間、「平安時代の中頃、地方の有力農民が開発した土地を守るために武装したことに由来する」と
  説明されていた。しかし近年は、武士の成立にはむしろ朝廷や京都が深く関わっている、という見解も有力になっている。はたして
  どちらが正しいのか?拙著『疑問に迫る日本の歴史』をどうぞ。

○国風文化
  ・国風文化が形成されたのは、一般には894年遣唐使の廃止により唐風文化の影響が薄れたため、とされている。しかし実際には
  この後も唐からの民間商船が来ていたし、907年唐の滅亡後も宋の商船がさかんに来航し、その間中国からの文物の流入は、減る
  どころか、かえって増大していた。だとしたら、国風文化形成にはどのような背景があったのか?拙著『疑問に迫る日本の歴史』
                                                        
     をどうぞ。

【中世】
○院政成立のいきさつ
 ・上皇自体は奈良時代以降、何人も存在していたのに、なぜ白河以前は院政が実現しなかったのか。平安末期の社会情勢と何らか
  の関わりがあるのか。それにそもそも白河は、当初から何らかの政権構想をもって国政を担当しようとしたのか。

○四代以降の鎌倉将軍
 ・鎌倉幕府の将軍が何代続いたか、すぐに答えられる人は少ないだろう。実は、有名な源氏三代の後は、摂関家の子弟が二代、親王
  が四代続いた。しかし彼らのことがほとんど知られていないということは、はじめからまったく形式的で、意味のない存在だったのだろ
  うか?

○御家人窮乏の実態
  ・鎌倉後期、御家人たちの多くは、分割相続の繰り返しによる所領の細分化や、貨幣経済の発展に巻き込まれて窮乏化し、蒙古襲来
   がそれに拍車をかけた、とされている。しかしこれは一般的な説明に終始し、なかなか具体像がわからない。何かこうしたことがうかが
   い知れる具体的事例はないのか?拙著『疑問に迫る日本の歴史』をどうぞ。

○南北朝動乱期の一地方武士
 ・約60年に及ぶ全国的な戦乱が続いた南北朝時代を、日本各地の名も無き武士たちは、どのように生き抜いていったのか?足利尊氏や
  楠木正成などの総大将や、守護クラスの武将については、ある程度のことはわかっているが、こうした人々から命令を受けて、戦闘の最
  前線に立った国人
(こくじん)とか地侍と呼ばれる人たちの実態は、どうだったのか?拙著『疑問に迫る日本の歴史』をどうぞ。

○室町将軍と守護大名の関係
 ・室町幕府は守護大名の連合政権と言われる場合がある。では将軍の権威・権力は三代義満以降、常に弱いものだったのか?、また六
  代義教は、「万人恐怖」とも呼ばれた恐怖政治を行い、その結果1441年嘉吉の乱で守護大名赤松氏により暗殺されるが、将軍と守護大名
  は、政治の実権をめぐって常に対立していたのか?拙著『疑問に迫る日本の歴史』をどうぞ。

○戦国大名の権力
 ・戦国大名のイメージは、強いリーダーシップで家臣団を統率し、あくなき征服欲をもって領国支配をめざす権力者、というようなものであろう。
  しかし、彼らははじめから強大な権力をもっていたわけではなかった。いったい、どのようないきさつでそのような地位にまで上り詰めたの
  か?さらに、そもそも彼らは、自らの征服欲によってのみ戦争を起こし、領国を拡大しようとしていたのか?
  →
拙著『疑問に迫る日本の歴史』をどうぞ。

○喧嘩両成敗〜分国法を考える〜
  ・戦国大名が領国内を一元的に支配するために定めた分国法。その中の喧嘩両成敗の法は、大名の絶対的な権力にもとづく強力な家臣
   団統制のあらわれ、とする意見もある。しかし問題はそれほど単純ではない。分国法を全体的な特徴をとらえた上で、この法はどのように
   考えることができるのか?

【近世】
○織田信長の天下統一
 ・一般に信長は、はやくから天下統一の野望を抱き、その実現に向けてひた走りに走ったにもかかわらず、その中途で重臣明智光秀の謀叛
  により倒れた、とみなされている。しかしこれは結果にひきづられた見方ではないのか。本当に尾張国内でさえ諸勢力が乱立していた若い
  時期から天下統一をめざしたのか?そもそも天下って、日本全体をさすということでいいのか?拙著『疑問に迫る日本の歴史』をどうぞ。

○秀吉と情報
 ・信長の死後、わずか8年で全国統一ができたのはなぜか?このことを考える上で、秀吉と情報ということでは、どのようなことが言えるのか?
  →
拙著『疑問に迫る日本の歴史』をどうぞ。

○生類憐れみの令
 ・なぜ徳川綱吉がこの法令を出したかについては、一般に、信頼の厚い僧隆光が、「(綱吉の子が早世し、跡継ぎがいないのは)前世に殺生を
  多く行った報いで、子を得るためには生き物を愛し、殺さないことが大事である。ことに将軍は戌年生まれだから、犬を大事にするように」と説
  いたため、とされている。しかしこれが事実という確証はなく、しかもこれ以前から幕府は、動物愛護を内容とする法令を出していた。つまり、ど
  うやらこの法令発布の背景には、当時の幕府が直面していたもっと根の深い問題があったようだ。それはいったいどのようなことだったのか?
 拙著『疑問に迫る日本の歴史』をどうぞ。

○名主の立場
 ・江戸時代、武士は主に農民から年貢を取り立て、支配していた。しかしその武士は村ではなく城下町に集住しており、支配の実務は名主や庄
  屋、肝煎(きもいり)などと呼ばれる、各村の有力農民が幕府や藩から委任されていた。はたして名主は、領主の代官、それとも農民の代表、
  いずれの立場にあったのか?→
拙著『疑問に迫る日本の歴史』をどうぞ。

○江戸時代の庶民と読書
 ・江戸時代の庶民は、いろいろな作家の文芸作品を具体的にどのように受容していたのか。そもそもいつごろから彼らは読書に親しむようになっ
  たのか。そして、彼らを取り巻く読書環境は、どれくらい整えられていたのか?

【近現代】

○近代国家の胎動
 
・一般的には、日本は明治維新後に近代国家への歩みを始めたとされるが、はたしてこの理解は本当に正しいのか?もっと江戸後期に、既に
  国内独自に近代化の兆候が見られたことに注目すべきではないだろうか?拙著『疑問に迫る日本の歴史』をどうぞ。

○廃藩置県成功の背景
 ・廃藩置県は、旧支配者層から巨大な既得権益を奪い取る大改革であったにもかかわらず、これに対する反乱がまったくといっていいほど起き
  なかったのはなぜか?拙著『疑問に迫る日本の歴史』をどうぞ。

○地租改正
 ・地租改正の税率が、地価の3%と定められたのはなぜなのか?農民たちは負担の軽減を求めて各地で反対一揆を起こし、その結果税率は
  2.5%に下げられたが、それにしてもこのような大改革だから、その実現に際しては、もっと政府と農民たちとの間で、いろいろなやりとりがあ
  ったのではないか。そして、そうした難事業を実現させる上で、最も苦労したのは、どのような立場の人たちだったのか?

○日本国憲法の誕生
 ・現行憲法がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の作成した草案をもとにできたものであることは、よく知られている。しかし実は、そのための
  最終的な詰めが、GHQの担当グループに日本政府の官僚1名が加わり、わずか30時間で行われたのである。なぜGHQは、憲法草案の作成を
  そこまで急いだのか?そして画期的な戦争放棄条項が盛り込まれた背景は、いったい何だったのか?→
拙著『疑問に迫る日本の歴史』をどうぞ。

○東京オリンピック(1964年)を支えた新しい試み
 ・前回のオリンピック開催は、戦後日本の復興を世界にアピールし、またその約10年前から始まっていた高度経済成長の、さらなる拡大への大き
  な起爆剤となった。これにあわせて、東海道新幹線や首都高速道路などが整備されたことは、よく知られているが、これらの他にもこのオリンピッ
  クを契機として日本社会に定着していったものは少なくない。それらはどのようなものだったのか、またなぜ導入できたのか?

  
拙著『疑問に迫る日本の歴史』をどうぞ。

                        
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