【レッドバロン】
製作年 1971年、米
監督  ロジャー・コーマン
出演  ジョン・フィリップ・ロー 
【あらすじ】
 1916年、第1次世界大戦の中期、マンフレッド・フォン・リヒトホーフェン男爵(ジョン・フィリップ・ロー)はドイツ空軍のエース、オズワルド・ベルケ少佐率いる編隊に編入され、早くも敵を撃墜し手柄を立てた。ベルケ少佐の特訓でリヒトホーフェンはますます腕に磨きをかけ次代を担うエースへと育っていった。その頃、イギリス空軍のホーカー少佐の隊にカナダ人で農夫出身のロイ・ブラウンが着任した。粗野で気性が激しい彼は敵にも敬意を表する仲間たちにはなじめなかった。ベルケ率いる隊とホーカー隊が対戦した時、ゲーリングの機が誤って車輪でベルケ機の翼を傷つけてしまい墜落させてしまう。リヒトホーフェンはベルケ亡き後の編隊の指揮を任され、編隊に迷彩を施せとの命令を逆手に取り、極彩色に塗りたくったので”空飛ぶサーカス”と呼ばれるようになる。リヒトホーフェンも乗機を赤一色にしたので“赤い男爵”(レッドバロン)の異名をとるようになり、抜群の殊勲により最高栄誉ブルー・マックス勲章が授与され、皇帝への拝謁も許された。しかし、ある日の戦闘で頭部を負傷したため自邸で療養を強いられるが、その間に戦況はますます激化する。戦線に復帰すると、イギリス軍の空襲で基地は壊滅状態だった。届いたばかりの三葉機で出撃しイギリス軍の基地を報復攻撃するが、この戦闘でゲーリングが看護婦まで機銃掃射したため、リヒトホーフェンは卑劣な行為だと非難する。敗色が濃くなったドイツ上層部は国家的英雄のリヒトホーフェンに後方任務に就くように説得するが彼は拒絶し、ある日の戦闘でブラウンから銃撃され息絶えた。
【解説】
 飛行機が初めて登場した第一次世界大戦には、エースと呼ばれる撃墜王が何人も生まれたが、エース中のエースといわれたのがこの映画の主人公であるリヒトホーフェン男爵である。
監督のロジャー・コーマンは”B級映画の帝王”の名に恥じず怪奇SF映画を大量に監督していたが、この映画を最後にプロデューサー業に専念し才能がある若手を監督として起用するようになった。その中からは監督のフランシス・フォード・コッポラ、ジェームズ・キャメロン、ロン・ハワード、ジョナサン・デミ、俳優のジャック・ニコルソン、ロバート・デ・ニーロなど後に大成した映画人が数多く出た。また、「ゴッドファーザーPartU」(74年)「羊たちの沈黙」(91年)「アポロ13」(95年)など自分が育てた監督の作品にカメオ出演もしている。
 リヒトホーフェンはプロイセン貴族の息子として生まれ、第一次世界大戦が勃発すると騎兵少尉として出征した。しかし、騎兵が活躍する時代ではなくなっており、よく知られるような硬直した塹壕戦となった。血気にはやるリヒホーフェンは航空隊への転属願いを出し、最初は大型複葉機の偵察員となった。その後、操縦士試験に合格するとエースとして名を成していたベルケの隊に配属され、ベルケが戦死すると隊の指揮官となった。亡くなるまでに撃墜した敵機は前人未踏の80機で両軍を通してトップだった。彼の乗機として有名なのが翼が3枚あるフォッカーDrTだが、戦線に登場したのは遅く総生産数は約320機と少なかった。複葉機に比べスピードでは劣るものの運動性がよく、リヒトホーフェンのようなベテランが操縦すると抜群の性能を発揮した。
 ブラウンが乗っていたのはソッピース・キャメルで、機首部機銃の被いがらくだ(キャメル)のコブのようになっていたのでこのように呼ばれるようになった。操縦性に癖のある飛行機で、複座式の練習機が登場するまで訓練生の墜落事故が絶えなかったという。しかし、ドッグファイトでは右に出るものはなくフォッカーDrTの好敵手として英軍のエースを多数輩出した。フォッカーDrTとソッピース・キャメルの空中戦は「華麗なるヒコーキ野郎」でも見ることができる。リヒトホーフェンの死については、地上にいたオーストラリア軍の対空機関銃で撃墜されたという説もあり真相は今も謎のままである。
 本作品の中で残酷で人望がなくてと散々な描かれ方をしているゲーリングとは、後のナチスドイツのナンバー2で、国会議長、国家元帥、空軍総司令官と位人臣を極めるヘルマン・ゲーリングその人である。リヒトホーフェン亡き後、隊の指揮を任されておりブルーマックス勲章を授与されたエースでもあった。しかし、敗戦後は食うにも困る有様で、その怒りと屈辱が彼の足をヒトラーが勉強会を開いていたミューヘンのナチス党本部に向かわせたのだった。
 リヒトホーフェンのいとこにあたるヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンもレッドバロンが指揮する航空隊に所属していたが、第二次世界大戦では近接航空支援システムを確立させ空軍元帥にまでなっている。