【アフリカの女王】
製作年 1951年、米
監督  ジョン・ヒューストン
出演  ハンフリー・ボガード → ケイン号の叛乱
     キャサリン・ヘップバーン
【あらすじ】
 ドイツ領東アフリカで布教活動をおこなっている牧師とその妹ロージー(キャサリン・ヘップバーン)のもとに、チャーリー・オルナット(ハンフリー・ボバード)がポンコツの”アフリカの女王号”で郵便物を届けに来た。チャーリーはヨーロッパで第一次世界大戦が始まり、ドイツとイギリスは敵同士になったことを告げると帰っていった。イギリス人の2人は不安になったが、はたしてドイツ人将校が率いる原地人部隊が襲ってきて教会や村を焼き払うと信徒である住人を連行していった。牧師はそのショックでまもなく亡くなり、ロージー一人が残された。そこにチャーリーがやってきて、牧師を埋葬するとロージーに一緒に逃げるよう諭した。
 チャーリーはほとぼりが収まるまで隠れているつもりだったが、勝ち気なロージーは復讐に燃えており、川を下って湖で哨戒中の敵砲艦「ルイザ」と戦うように促す。飲んだくれのチャーリーは取り合わなかったが、ロージーが酒を全て捨てたため、しぶしぶ承諾する。
 ドイツ軍が守るショーナ砦の銃撃や激流が2人を襲ったがなんとか切り抜けることが出来た。2人はいつしか惹かれるようになっていた。その後も大激流に翻弄されて船が故障したり、葦の原に迷い込んで絶望しかけたが、めざす湖になんとかたどり着いた。酸素ボンベを改造した魚雷を作ってドイツ軍の砲艦に挑むが、嵐に遭いあえなく転覆。ドイツ軍に捕まり絞首刑が執行されそうになった時、漂っていた魚雷が砲艦に当たって、砲艦は沈没し、2人は命拾いする。
【解説】
 AFI(アメリカ映画協会)が選出した伝説のスター男優部門1位のハンフリー・ボガードと女優部門1位のキャサリン・ヘップバーンが唯一共演した作品である。原作は最近TVドラマ化された海洋冒険小説の傑作”ホーンブロワー”シリーズで知られるセシル・スコット・フォレスターである。本作品が製作された頃は、グレゴリー・ペック主演「キリマンジャロの雪」(52年)、クラーク・ゲーブル主演「モガンボ」(52年)などアフリカを題材にした作品が多く制作されたが、この頃のアメリカでは”赤狩り”が吹き荒れており、それを避けて海外で仕事をする映画人が多かったという裏事情もあった。
 監督のジョン・ヒューストンは芸能一家の出で、父親は無声映画時代から活躍していたウォルター・ヒューストンである。俳優兼脚本家としてスタートし、「マルタの鷹」(41年)で監督デビューした。この作品に主演したのが本作品にも出演しているハンフリー・ボガードで、なかなか目が出なかった彼も一躍トップスターになり、以後ヒューストン作品の常連となった。再びハンフリー・ボガード主演で製作した「黄金」(48年)では、アカデミー監督賞と脚本賞に輝き、出演していた父親も助演男優賞を受賞し、親子でのダブル受賞となった。以後も80年代まで監督業を続ける一方、俳優としても「チャイナタウン」(74年)、「風とライオン」(75年)など多数の映画に出演している。「アダムズ・ファミリー」(91年)での怪演が記憶に新しいアンジェリカ・ヒューストンは娘である。
 キャサリン・ヘップバーンは、20世紀最高の女優という評価を裏付けるようにアカデミー主演女優賞を4回も受賞しており、この記録は今後も破られそうもない。実生活でも恋仲でボガードとは親友でもあったスペンサー・トレイシーとの共演作は9本もあったが、妻子のあるトレイシーは離婚を許さないカトリックであったため結婚することはなく、最後の共演作となった「招かれざる客」(67年)の撮影後トレイシーは妻とヘップバーンに看取られながら亡くなっている。「黄昏」(81年)で4回目のアカデミー主演女優賞を受賞した後は、出演作も減り96歳の高齢で亡くなっている。
 本作品のロケは、まだベルギー領だったコンゴとウガンダで行われた。当時ボガードの妻だったローレン・バコールも同行し、スタッフの食事係として働いている。撮影は”アフリカの女王号”が沈没したり、突然のスコールで機材がびしょぬれになったり、ヒューストンとボガード以外の皆が病気でダウン(原因は水で、2人は酒ばっかり飲んでいたので罹患しなかった)したりと困難の連続だった。水中と葦の原でのシーンは原地で撮影すると住血吸虫症に感染するおそれがあったため、ロンドンのスタジオで撮影された。監督のジョン・ヒューストンはアフリカでのロケ中、撮影そっちのけで象狩りに夢中になっていたが、その様子は本作品の原地ロケを題材にしたクリント・イーストウッドの監督・主演作「ホワイトハンター ブラックハート」(90年)でも描かれている。