【オリエント急行殺人事件】
製作年 1974年、米
監督  シドニー・ルメット
出演  アルバート・フィニー リチャード・ウィンドマーク ローレン・バコール ショーン・コネリー イングリッド・バーグマン
【あらすじ】
 1930年、ニューヨークに住むアームストロング夫妻の愛娘が誘拐され、身代金を払ったにもかかわらず惨殺される事件が起きた。妊娠中の夫人はショックで亡くなり、夫も後追い自殺を遂げるなど誘拐事件の結末は不幸な事態を招いたが、事件の黒幕はとうとう捕まらなかった。
 5年後、トルコのイスタンブールからオリエント急行が発車しようとしていた。エルキュール・ポアロ(アルバート・フィニー)もこの列車でロンドンに帰るつもりでいたが、真冬にもかかわらず満席だという。しかし、知り合いの寝台会社の重役の計らいで乗車する事が出来た。2日目の夜ポアロが寝ていると隣のアメリカ人の貿易商ラチェット(リチャード・ウィンドマーク)のコンパートメントからうめき声が聞こえた。同時に車掌を呼ぶベルが鳴らされ、車掌がかけつけるが中からは「何でもない。間違いだ」と言う返事が返ってきた。翌朝、ラチェットが起きてこないのでドアを壊して中に押し入ると、全身に12ヶ所の傷を負って亡くなっていた。灰皿には手紙の燃えかすが残っており、5年前の誘拐事件を匂わす内容だった。つなぎ部屋になってる隣のハバート夫人(ローレン・バコール)は不審な人物を見かけたという。
 列車は雪のため立ち往生しており、雪の上には逃げた足跡もないので犯人は乗客の中にいるはずだが、彼らのアリバイは完璧だった。ポアロはひととおり彼らの尋問を終えると、いつものパターンで乗客全員をバー・サロン車に集め、灰色の脳細胞が解き明かした驚くべき真相を披露するのであった。
【解説】
 原作は言わずと知れた”ミステリーの女王”アガサ・クリスティである。女史は再婚した夫が考古学者だったため中近東の発掘現場に赴くのによくオリエント急行を利用していたので、そこからこの密室殺人の着想を得たといわれている。
冒頭の誘拐事件は、明らかに1932年に起きたリンドバーグ2世誘拐事件を元にしているが、オリエント急行が雪で立ち往生するのも実際にあった出来事である。1929年の冬、トルコでの豪雪で11日間も身動きできない状態に陥り、救援もなかなかこなかったため食料が不足し始め、近くの民家から大枚をはたいて調達したことがあるそうだ。
 オリエント急行は1883年10月4日、ワゴン・リ社が運営する寝台列車がパリの東駅からイスタンブールに向けて出発したのが始まりである。もっとも、まだ一本の鉄路で結ばれておらず、途中からは蒸気船やローカル列車を乗り継がなければならず、80時間余りもかかった。線路がつながるのは6年後の1889年のことで、1906年には当時世界最長のシンプロントンネルがスイス・イタリアの国境をまたいで開通したので、イタリア経由の最短ルートを走るようになった。二度の世界大戦ではオリエント急行も無縁ではなく、第一次世界大戦でのドイツ降伏の調印式は、パリ近郊のコンピエニューの森にあったワゴン・リ社の食堂車でおこなわれた。第二次世界大戦が始まりフランスが降伏すると、ヒトラーはこの食堂車を引っ張り出してきて、同じ場所に置き降伏文書の調印をさせた。その後この車両は、戦利品としてベルリンに送られたが、ドイツの戦局が怪しくなると、再々度の使用を恐れた親衛隊により爆破されてしまった。
 第二次世界大戦後も引き続き運用されていたが、航空機の発達により富裕層の利用が減って、ユーゴスラビアから西側に向かう人々の出稼ぎ列車に成り下がってしまい、1977年にはいったん打ち切られてしまった。しかし、ワゴン・リ社から競売に出された車両を買い取ったアメリカの実業家の手で、1982年から新たにロンドン〜パリ〜ベニスを結ぶ「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス」(VSOE)が運用を始め、現在に至っている。1988年には、シベリア鉄道経由で日本にもやってきて2ヶ月間全国を走り、健在ぶりをアピールした。
 監督のシドニー・ルメットは「12人の怒れる男」(57年)が監督デビュー作だが、それが図らずもこの映画のトリックを解く鍵にもなっている。 ショーン・コネリーは本作品を含め5本のルメット作品に出演しており常連といってよい。また、久しぶりの映画出演となったイングリッド・バーグマンは本作品でアカデミー助演女優賞を獲得し、都合3本のオスカーを手にすることになった。この映画は世界的に大ヒットし、以後「ナイル殺人事件」(78年)、「クリスタル殺人事件」(80年)、「地中海殺人事件 」(82年)、「ドーバー海峡殺人事件」(84年)と立て続けにクルスティ原作のオールスター・キャスト映画が製作された。