13 敦史の居住している家などがある住宅街からさらに奥へ入った山の方に真由美が勤め ている病院はある。すこし洋館風のアイボリーと煉瓦色が主に使われているわりと大き な建物。 時計の針が12を指す。廊下から一般の人の影が少なくなり、代わりに病院職員が昼食 を取りにいく流れが廊下に現れる。 そんな廊下を真由美は同僚と話をしながら歩いていた。中央のホールまで数メートル の所で、真由美の視界にホールにいるアイラの姿が目に入ると、相変わらずの頭の後ろ から出ているような声でアイラを呼んだ。 「あれー、アイラさん。どうしたのぉ?」 「あ、コンニチハ。あー、今日はちょっと真由美サンに聞きたいコトがあってネ」 声と同時ぐらいに真由美に気がついたアイラは、軽快に車輪を数回叩くよう漕ぐと、そ う言って応えた。 真由美の同僚は軽く手を上げて、言った。 「あ、先に行ってるね」 「あ、うん」 そう言って真由美は片手を上げ、謝るような素振りをすると、立ち去る彼女を手を振 って見送った。そして、彼女が階段を下りて、視界から消えると、真由美はアイラの方 に振り返り、興味津々といった感じの瞳で見つめ、いった。 「で、なーに?」 「ココじゃちょっと話しにくいんだけど、いいかな?」 「じゃあ、ちょっと隅に行こうか……」 アイラの言葉に真由美はそう言うと、二人は非常口近くに移動した。 そして、改めて真由美はアイラに訊ねた。 「で、アイラさん、なーに?」 「あ、その、真由美サンに彼氏がいるって話を聞いたんだけど……」 「話って……。あー、敦史くんでしょ!?」 「いやっ、まっ、ま、そうなんだけどネ」 ズバリ真由美に言い当てられ、アイラは苦笑した。 困ったような表情を真由美は一瞬浮かべると、一息ついて、真面目そうにアイラに説 明した。 「ココだけの話だけど、冗談のつもりだったんだよね。だぁーって、敦史くん、私のコ トからかってたみたいだからさ」 「いや、そのコトだけど、敦史は本気だったのヨ! たから、そんな話を聞いてしまっ た敦史はブルーになって、ベリィベリーダークね」 「えー、ウソでしょー! またアイラさんったら」 「いや、ホントヨ!それだけは信じて上げて!」 「ふ〜ん……」 真剣な顔で、一生懸命日本語を並び立てて手を振り身を振り話すアイラに、真由美は 急にまじめな顔になって、話を聞いていた。そして、にっこりと笑うと、いった。 「でも、そうみたいね」 「えっ?」 驚いた声を出すと、アイラは頭越しに遠くを見ている真由美の視線を追って、振り返っ た。 その視線の先、そこはさっきまでアイラのいたホール。その場所に他の三人の姿がア イラの目にも入った。アイラは大きく手を上げ、言った。 「キミ達、そんなトコでナニやってんのー」 その言葉に、隠れようと反対方向に歩き出す元下に、わざと話しかける渡辺。 「何してる言われても、ねぇ〜。元ちゃん」 「なんで、オレに言うんだよ」 元下は振り返って、苦笑いして、いった。 そんな二人に対して、聖子は深々と頭を下げ会釈をすると、呟いた。 「みんな考えてることは同じだったのね」 その夜の喫茶店。もう既に他の客は引けていて、香穂も後片付けにカウンターの奥に 消えていた。そんな中、聖子たちも帰り支度をしていた。敦史がテーブルの前から動け ないように、敦史の廻りを囲んだまま。 「なっ、なんで僕だけ残んなきゃいけないんですかっ!」 「ええやん、いつも最終までいるんやから」 「それは渡辺さんでしょ!!」 対面に座っている渡辺が慰めるように言った言葉に毅然と返した。 敦史の後ろの方でなにかを探していたように屈んでいた元下が立ち上がると、渡辺は 車椅子のブレーキを外して、テーブルを出た。その渡辺に追い打ちをかけるように、敦 史は言った。 「こないだ、渡辺さん、駅前にいたでしょ!?」 「君が駅の方まで出てくるやなんて珍しいな」 「僕、見ましたからね。女の人をナンパしてたでしょ!」 からかうように笑って去ろうとする渡辺に、敦史は詰め寄るように言った。 すると、車椅子をターンさせ、振り返ると、言った。 「ナンパぁ? なんのコトやろ?」 「トボケないで下さいっ!見たんですから。知らない女の人と駅前の居酒屋に入るのをっ!!」 「ああ。駅前の居酒屋なぁ。入り口に大きな段差があったからお願いしたんやわ」 「なんで女の人なんですかっ!?」 「たまたまや」 そう言い切ると、クルっと渡辺はまたターンすると、片手を上げた。 「それにしても、小鳥のようによー喋るなぁ。じゃあな」 そう言って、渡辺は入り口のドアを開けた。そして出ようとする前に敦史がなにか言 おうとした。その時、その敦史の声を遮るように、聖子の声とブレーキを外す音が響いた。 「ホント。よくしゃべるわよね」 「それで告白ができないのだから、不思議デスネー」 「それとこれは……。それに一度は一応……」 アイラにも突っ込まれた敦史は弱々しい口調で呟いた。 その呟きに怒ったように、元下か一喝した。 「やかましいっ!」 その言葉に急に敦史は黙り込んでしまった。 聖子とアイラは敦史をほっといて漕ぎだし、ドアの鈴の音が軽やかに鳴らせて、次々 に店を出ていった。元下も黙り込んでいる敦史にため息をつき、立ち上がると、店を出 ていった。 ドアの閉まる音が店中に響き、静かになった店内。しばらくすると、みんないなくな ったのに敦史は気づき、認識すると、あわてて動こうとした。ところがモーター音はす るが、全然動かなかった。電動車椅子のロックをかけられていたのだ。 困った敦史は仕方なく大きな声を出して、助けを呼んだ。 「すみませーんっ。香穂さーんっ。……あれ?」 しかし、いるはずの香穂の返事はなく、敦史は不思議そうに店内を見回した。だが、 店内の照明はいつの間にかライトダウンされていて、店内には人影一つなかった。敦史 は焦った。そして、堪忍したように背もたれに寄りかかるように座った。 その時、ドアが開き、人が入ってきた。敦史に不思議な緊張が走り、黙って欝向いた。 入ってきた人の足音が敦史の方に近づいてきて、対面に椅子を持ってきて、座った。 「こんばんは」 その声に敦史は少し顔を上げ、髪の間から対面の人を見た。と、同時に、敦史のボル テージは一気に急上昇し、心臓の鼓動も早くなった。そこに居たのは真由美だったのだ。 けれども、そこにいる真由美は、いつも敦史が見ている彼女と違っていた。眼鏡はか けておらず、いつもはすっぴんに近い感じなのに化粧をしていて、服もお洒落に着飾っ ているようで、別人とは言わないまでも、明らかに普段とは違う雰囲気がそこにはあっ た。 長い時間が過ぎていくように敦史には感じる中、一生懸命自らの精神状態を落ちつか せ、言葉を絞り出した。 「こっ、こんばんは……」 しかし、その後の言葉が続かない。なにを言ったら良いのか適当な言葉がなかなか思 い付かなかったのもあるが、それよりも、何故彼女がこんな時間にココにいるのか?と いう疑問で頭が混乱していたからなのかもしれない。 コップの中の崩れかけていた氷が静かになっている喫茶店の店内に音を響かせる。そ の音が二人の間に張りつめていたなにかをも少し崩したようで、敦史は肩の力が和らぐ のを感じた。その時。 「敦史くん。話って、なあに?」 「!」 毛穴が全て開くような衝撃が敦史を襲う。彼女がなにをしに、こんな時間に、この場 所に、来たのかを敦史は理解させられた。その言葉と、いつものおちゃらけた感じとは 違う彼女の声に。 遠慮がちに少しずつ敦史が顔を上げると、その敦史の瞳を捉えるように真由美は真剣 な眼差しを敦史に向け、口をゆっくりと開いた。 「今度は真剣に聞くから……」 夜の闇に包まれた街の中。喫茶店の薄明かりが外に洩れている。その空間を優しく撫 でるようにやわらかな風が吹いて、街路樹の葉や枝は音にならない囁きを奏でていた。 小さく響くウェディングベルのように……。 END
この物語は一応フィクションです。 物語中に登場する人物名などはすべて架空であり、 実在する人物名・人物などとは一切関係ありません。