4の章 (これまでのお話)  目次   TOPのページに戻る


                                                                               
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              まぶ
 街路樹の木漏れ日が眩しくなってきた休日のお昼の時間。にこにこ顔で敦史は歩道を走らせ
ていた。そして、いつものようにいつもの喫茶店に入ろうとしていた。
 喫茶店の扉を棒で押して、開けると、香穂が店の奥から急ぎ足で来て、中途半端に開
いた扉を全開に開き、閉まらないように抑えて、笑顔で言った。
「いらっしゃい」
「あ、ども」
 敦史はいつものように首だけを下げ、愛想笑いを浮かべた。すると、香穂がクスっと
微笑んで、言った。
「ココ数日、なんかうれしそうですね」
「そうっスか?」
 店内に入ると、賑やかに談笑している声が奥の方から聞こえた。電動車椅子を敦史が
奥に進めると、その敦史の視線の先で、元下とアイラと聖子が真由美と同じテーブルを
囲んでいて、和やかに会話しているのが見えた。
 敦史は一旦電動車椅子を止めると、大きく吐息をついた。そして再び、スティックを
倒して、電動車椅子を奥へと進めると、暗い声で挨拶をした。
「こんばんはー」
「オー、敦史ー。ナニ言ってんの?まだコンニチハの時間ヨ!」
陰気な敦史の声と姿に気がついたアイラが陽気に応えた。その言葉に敦史は暗く苦笑し
た。
 アイラの言葉にアイラの視線の先の店の入り口の方を真由美は覗き込むように見ると、
敦史の姿を見つけ、敦史の瞳に自分の姿が映ったのを確認するかのように微笑んで両
手を振り、いつものように元気な声で明るく言った。
「あっ、敦史くん、こんにちはー」
「あれっ? なんで湯島さんが?」
とっさに敦史は質した。
 敦史の内心は戸惑っていたのだが、真由美はさらりと返した。
「ちょっと彼らとは顔見知りなのよ」
「えっ、そうなんですか!?」
驚いたように敦史は言った。しかし、よく考えれば、真由美は病院に勤めていると言っ
ていたのだから、接点がないわけではないのだが……。
 敦史と真由美が応対している中、横から聖子の声が敦史の耳を突いた。
「珍しく遅いじゃないの」
「えっ、ええ……」
相変わらず冷たい言い方だなぁと敦史は思いながらも、応えた。
 すると今度は、含み笑いの入った元下の声が割ってきた。
「デートでもしてたんじゃねーのか?」
「オオー、敦史、やるね〜」
すかさずアイラは陽気な声で相づちを打った。
 それに対して、真由美は驚きの声を上げた。
「えーっ、敦史くんって、そんな相手いたのー!?」
「ちっ、ちがいますよー!! 元下さん、なに言ってるんですかー」
「わかってんよ」
 真由美の言葉に焦ったように敦史は否定して、元下に軽く抗議するように言うと、元
下は流すように軽く鼻で笑った。
 敦史はその元下の態度に内心ムっとしたが、それを表に出さずに、弁解するように言
った。
「ちょっと今日は用事があったんですよ」
 敦史は憮然とした顔をするが、すぐにゆるめ、話題の転換を謀った。
「そーいえば、今日は渡辺さんは……?」
「そおいやー、いねーな」
「ココしばらくきてないんじゃないかな」
 気がついたように周りを見回して言う元下と、落ち着いた声でそれに応えるアイラ。
まるで珍しいコトでないように。そんな彼らに対し、敦史は戸惑いを隠せなかった。
「なっ、なんでそんに落ち着いて言えるんですか!? 心配じゃないんですか!?」
「心配? なんのだよ!?」
元下は笑い飛ばした。
 そこに、聖子がカップから口を離して、落ち着いた声でなんでもないように言った。
「一昨日から京都に行ったみたいよ」
「なっ、なにしにですか!?」
 敦史は驚きの声を上げ、答えを求めた。しかし、それに対して聖子は驚きもなんにも
ないようで、淡々とした口調で答えた。
「ボーとしに行くとか言ってたわよ」
         な べ
「ハッハッハ。渡辺ちゃんらしいねー」
 アイラが聖子の言葉に大きく笑った。けれども、敦史にはそれは大きな驚きだった。
そして、敦史は更に疑問を問いかけた。
「ひっ、一人でですか?」
「そうなんじゃないの」
「もしくは、どっかの女でも使ってか」
平然と答える聖子に、笑いながら元下が追句した。
 その時。カウンターの方からお皿の割れる音が響いた。その音に一同はびっくりした
ようにカウンターの方に顔を向けた。
「あ、ごめんなさい」
カウンターにいた香穂がこっちに恐縮したように謝ると、屈んで床に散らばった皿の破
片を拾い始めた。
 敦史はテーブルの方に向き直ると、強い口調で言った。
「まっ、まさか!そんなコトあるわけないじゃないっスか!!」
「んー、どうでしょうねェー」
「ありえそうよね」
首をかしげるアイラの言葉に聖子はそう言って、頷いた。
 そこに元下が含み笑いと共に更に追句した。
「そーいうの巧いからな、あいつ」
「えーっ、そうなの!?」
そう言うと身を乗り出して、真由美は興味津々とした表情で次の言葉を待った。
 そんな真由美の様相に一瞬身を引く敦史。その時、香穂が運んできたコーヒーカップ
が敦史の足元へと落ちた。熱い……。
「あっ、ごめんなさいっ!」
香穂はその事態にあわてて大きな声を上げると、ペコペコと何回も敦史に頭を下げ、即
座にしゃがみ込んでカップを拾い上げ、カウンターへと持っていった。そしてすぐに、
戻ってきて、持ってきた雑巾で敦史の足元を拭き始めた。
 顔を上げ、悲痛そうな瞳を敦史に向けて、香穂は聞いた。
「熱くありませんでしたか?」
「あ、いや、大丈夫ですよ」
なんでもないような素振りで敦史は応えた。
 ホントは熱かった。それに、靴下にもすこしひっかかったようで、濡れていた。そん
な敦史に香穂はもう一度恐縮したように謝った。そこにアイラが驚いたように、言った。
「オー、香穂ちゃん、今日はどうしたのー?」
「あ。なんでもないですよ。すみませんっ」
苦笑いしてるような笑みを香穂は見せると、一礼して、カウンターへと足早に消えた。
 敦史はその光景を、その香穂の後ろ姿を、複雑そうな表情でただ見つめていた。そん
な敦史の様相に聖子が不思議そうに訊ねた。
「あっちゃん。そんなに香穂さんが気になるの?」
「こいつ、香穂ちゃんのコト好きなんじゃねーか」
冷やかすように元下は笑った。
 そんな二人に敦史はあわてて否定した。
「ちっ、ちがいますよー!」
 そして、ちらっと横目で真由美の方を敦史は見た。が、ちょうど視線が合ってしまい、
敦史は急いで視線を下に落とした。そんな敦史の行動を見逃してはくれず、アイラが
言った。
「敦史ー。ナニ、キョロキョロしてるんデスかぁ?」
「なっ、なんでもないっスよ」
 すこし上目でアイラを見て、敦史は応えた。それを呆れたような顔をして元下が言い
放った。
「はっきりしねー男だな」
「すみませんね」
敦史は苦笑してみせた。
 そして、誰にも気付かれないようにチラっと真由美に視線を向けた。真由美は微笑み
を浮かべて、こっちを見ていた。ただそれだけなのだが、敦史はなんとなく居心地の悪
さを感じた。

 すこし早めに店を出た敦史はそのまま帰途に着かず、反対方向にあるコンビニに向か
い、ジュースやスナックなどを買い込んでから、帰途に着いていた。あの日からずっと。
 敦史はコンビニの袋を膝の上に載せ、歩道を愛車を走らせていた。この時間、いつも
の習慣のように。
 帰り道、喫茶店から家路とは反対方向のコンビニに行ったのだから、当然喫茶店の前
をまた通る。その喫茶店から灯が洩れて、歩道を照らしているのが見えた。すでに喫茶
店の閉店時間をとうにまわってるはずだが……。
 敦史には思いつくコトがあった。敦史が喫茶店を出る時、香穂の様相が妙にそわそわ
しているようで気になっていたのだ。というか、心にひっかかっていた。
 敦史は止まることなく、スピードを変えることなく、そのまま電動車椅子を進めた。
そして、喫茶店から洩れる灯に包まれると、顔だけを横に向けてウィンドウから中を見
た。
 中には人影が二つ。カウンターを挟んで、カウンターに肘をついてなにか聴いている
格好の香穂と、カウンターの手前に車椅子に座っている男の姿。それは、昼にはいなか
った渡辺の姿だった。
 二人はなにか楽しそうに話をしているようであった。敦史には決して見せたことのな
い無邪気で無防備な笑みを二人は浮かべていた。外から見ている敦史の姿も、電動車椅
子のモーター音も、二人には関心事として存在せず、まったく気づかないようだった。
そして、やがて、二人の影が重なった。
 速度を緩め、それを見ていた敦史は、はにかんだように微笑むと、速度を上げて、そ
のまま走り去った。

 電動車椅子で歩道を更に走らせていくと、そこには、毎朝毎晩敦史がタバコを吸って
いる公園があった。その公園に差し掛かる頃、大きな明るい声が飛んできた。
「あれー? 敦史くんじゃないの?」
「あ、ども」
「どーしたの? こんな時間に」
「いや、ちょっと買い物に行ってたんで」
 驚いたように聞く真由美に対して、敦史は一見落ち着いた素振りで頭を下げ、応えた。
そして、今度は敦史が訊ねた。
「真由美さんは、今、お帰りですか?」
「うん、そうなのよー」
「たいへんっスね」
 敦史の労いの言葉に真由美は苦笑いすると、明るい声で言った。
「仕事だから仕方ないわよ」
「今日は休みだったんじゃなかったんですか!?」
「ちょっとね。んじゃ、またね」
「あ、おつかれさまでーす」
 少し離れて、真由美は大きく手を敦史に振って、帰途に着いた。その真由美の姿が暗
闇に消えていくまで敦史は見送った。そして、その姿が暗闇に埋もれ、見えなくなると、
車椅子を自分の帰る方へ向けた。すると、敦史の表情がすこし崩れた。





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