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すっかり暗くなった街。住宅街ということもあって、もう街路を通行している人の姿
はほとんどない。そして、車道を走る車の数も疎らだ。樹々の間から街灯の光がそんな
道を照らしている。そんな街中の歩道を一人寂しく敦史は電動車椅子を走行させていた。
「あーあ、もう真っ暗だな〜。ちょっと長居し過ぎたかな」
こんな遅くまであの喫茶店に敦史は居座っていたのだ。敦史が店を出る頃、香穂が妙
に時計を気にしていたのが引っかかっていた。自分のせいではないと否定してくれては
いたが……。
家路を心だけ急ぐ敦史の前方から、タイヤの転がるような音がした。それも近づいて
来るようだ。敦史は電動車椅子を止めて、その音の聞こえる方向を凝視した。
「あっ、渡辺さん!」
敦史は街灯の灯に映し出されたその姿を見て、声を上げた。だが、その声が聞こえない
かのように渡辺は黙々と車椅子を漕いでいる。
敦史は大きな声で渡辺に質問を投げかけた。
「渡辺さんっ。これからどこかに行くんですか!?」
けれども、なにも言わずに渡辺は敦史の横をすり抜けた。敦史は追うように電動車椅
子の方向を変えて、更になにげないように言葉を投げかけた。
「香穂さんの所に行くんですか?」
渡辺は急に止まった。そして、ターンして戻ってきて、敦史の電動車椅子に自分の車
椅子を突っ込まさせた。そして更に、自分の車椅子のストッパーをさっさとかけると、
敦史の電動車椅子のハンドグリップをつかみ、自分の身体を倒れ込ますように押したり、
起こす勢いで引っ張ったりと、激しく敦史の電動車椅子を揺らした。
「うわぁっあっ!わっ、渡辺さんっ!なっ、なにするんですか!?」
驚いて、後方に顔を向けて騒ぐ敦史に、渡辺は動きを止めて鋭そうな視線だけを敦史
に向けた。その厳しい視線を避けるように敦史は目を外らすべく前方に顔をそのまま向
け、渡辺に言った。
「聞きましたよ。高校の時の同級生なんですってね」
「…………。そうやけど、それがどうした?」
「それなのに、なんであんなに邪険にするんですか?」
「別に邪険にしてへんわ。ただ……」
「ただ……?」
敦史は言葉の途中で黙ってしまった渡辺に対して、真実を知りたい欲望にかられ、さ
らに続きを促すようにきいた。
「ただ、なんなんです?」
渡辺はうずくまったまま、しばらく黙っていた。そして、軽く流すように言った。
「ただ、昔の彼女にどんな態度取ればええのかわからんだけや」
「昔の彼女? えっ、つきあってたんっスか!?」
敦史は思わず驚きの声を上げた。
しかし、そんな敦史の驚きの声なぞ耳も貸しもせず、渡辺は屈んだまま敦史の電動車
椅子の後部をいじくっていた。そして、ハンドグリップから手を離すと、距離を取った。
離れた渡辺の方に敦史は電動車椅子を向けようとスティックを動かした。が、電動車
椅子のモーター音はするが、電動車椅子自体は動かなかった。それに対して、敦史はあ
わてたように言った。
「あーっ、渡辺さんっ!! 外さないで下さいよ〜」
「はははっ」
泣きそうな敦史の声に、渡辺は笑いながら戻ってきた。敦史の電動車椅子の後部には、
モーターと駆輪をつなぐレバー・・・・ちょうどクラッチレバーのようなレバーがあり、
人に車椅子を押してもらうさいには、そのレバーのロックを解除すると軽くなるので外すの
だが、同時に自走はできなくなるのだ。
渡辺はレバーを直しながら、静かな声で言った。
「事故って、こーなる前の話や。それに、事故る前にふられてるしな」
「えっ? えっ?」
すこし遅れて敦史が渡辺の言葉の意味を把握して、疑問の声を発した時には、渡辺は
既に敦史の近辺にはいなかった。
渡辺は車椅子をクルっとターンさせ、後ろを振り返ると、敦史に鋭い視線を突き刺し
て、低い声で言った。
「余計なコト、べらべらとしゃべるんやないで。じゃあな」
そう言うと、また渡辺は車椅子を反転させ、闇の中に消えていった。敦史が通ってき
た道の奥へと……。
敦史は電動車椅子を急反転させると、家に向かい、ゆっくりと電動車椅子を進ませた。
そして、複雑そうな表情を滲ませながら帰途に着いていると、前方の暗闇から明るく
抜けたような声が飛んできた。
「あれー、敦史くんだよねぇ?」
電動車椅子を停止させ、えっ?というような表情で声のした方を敦史は向いた。前方
の暗闇から靴音が近づいてくる。敦史に向かって、あの真由美が駆け寄ってきた。
敦史と目線が合うように真由美は中腰になって、自分を指さして、いった。
「私、私。わかんない?」
「あー。湯島さんでしたっけ」
とぼけたように敦史は応えた。
それに対し、真由美はうれしそうに言った。
「そうそう。今から帰るの?」
「えっ、ええ……」
目をまともに合わせて話しかけられ、敦史はちょっと顔を紅潮させた。夜の暗さでそ
れはあまりわからなかったのか、真由美は気にする素振りも見せず、元気な声で訊ねた。
「今まであそこにいたのぉ?」
「あそこって……?」
「あれ? 喫茶店にいたんじゃないの?」
「あっ、あー、そうですけど……」
「やっぱりそうでしょお!! そうなんじゃないかと思ったんだ」
「やっぱりって、なんですか……」
敦史は苦笑いした。
真由美はそのままその場にしゃがみ込むと、話を続けた。
「で、毎日行ってるって、ホントなのぉ?」
「あっ。聞いてたんですか!?」
すこし焦ったように敦史が言うと、真由美は軽く笑った。
「聞いてるもなにも聞こえちゃうよ」
敦史はその言葉に対して乾いた笑いをして、話題の切り替えを謀る。
「はははっ。それより、いま、お帰りなんですか?」
「うん。そう」
「そういえば、この辺にお勤めとか?」
「そうそう。山の手の方にある病院でね。敦史くんもたまにくるでしょ?」
「えっ!? 知ってたんスか〜」
うれしそうに敦史は話をしていた。知らず知らずのうちに緊張感は解れていた。樹木
の葉を風が揺らし、優しい葉音を奏でていた。
真由美はハっと気がついたように自分の腕の時計を見た。
「あっ、もうこんな時間!敦史くん、またねぇ!」
そう言って真由美は立ち上がり、手を振ると、敦史の家路と反対方向の闇に向かった。
敦史は真由美の姿が暗闇に消えるまで手を振って見送った。そして、完全にその姿が
見えなくなると、笑みを浮かべて呟いた。
「またね、か……」