7 「私、ちょっとトイレに行ってくるね」 そう言うと、聖子はすこし漕いで渡辺の側に行き、きいた。 「リュック、かけるぅ?」 「あ、悪い」 リュックを聖子は受け取り、渡辺の車椅子の背中にかけた。そして、少し離れて、軽 く頭を下げた。 「じゃあ、また後で」 「もうすっかり暗くなってるから気ぃつけや〜」 聖子の姿が店内から消えると、敦史は不思議そうに訊ねた。 「あれ? お嬢さん、どこに……?」 「公園のトイレやろ。車椅子用のがあるからなぁ。あそこのは綺麗やしな。おまえ、今 まで知らんかったんか?」 「そーいうわけじゃないですけど……」 敦史は苦笑いをして、言葉を濁した。 実は知らなかったのだ。公園の通りに妙な建物があったのは知っていたが……。しか し、それを知られると馬鹿にされるとも思っていたので、曖昧な言葉になったのだ。 ふと気がついたように敦史は訊ねた。 「そういえば、店にもトイレは・・・」 「あるけど、あそこほどは広くないでぇ」 「そうなんですか?」 「そりゃそうやろ。あんな広いスペース割いたら、店のスペースがその分削られるんや でぇ。もしかして、一度も使ったコトないんとちゃう?」 「そっ、そんなわけ……。なっ、なに言ってるんですか!!」 痛いところ突かれた敦史は言葉に困りながらも否定した。けれども、実際は使ったこ とがなかった。朝、昼、夕方、いつも用を済ませるのに自宅に帰っていたのだ。 話を外らそうと、敦史はふいに渡辺に質問した。 「そういえば、渡辺さんはアイラさんが病気でああなったって知ってました?」 「ああ、ギランバレー諸侯群だっけ……」 肩肘をついて表を見ていた渡辺は顔を向けると、応えた。 敦史は水を得た魚のように、積極的な敦史モードになり、さらに質問を続けた。 「そっ、そのなんとかバレーって、どんなもんなんですか?」 「そんなん聞いてどないすんねん?」 「いや……、なんとなく気になったもんで……」 「それに、そんな、バレーバレー言うてると、バレーボールじゃありませーんっ!とか 言わはって、怒り出すで」 「そっ、そうなんですか?」 軽く笑う渡辺に対して、敦史は冷や汗と共に苦笑した。 「ま、本人に聞くんやな」 「そんな脅しかけられて聞けるかいなっ!」 すこし焦ったような表情をして、敦史は突っ込みを入れるように言った。 渡辺は一笑にふし、トボけるように上を向くと、言った。 「しゃーないなぁ……。ま、アイラが言うには、だんだん筋肉が使えなくなる病気らし いな。それも、何万人に一人だかしかならないっていう」 「それって、筋ジス(筋肉ジストロフィー諸侯群)じゃ……」 「とはちゃう。原因不明、治療法不明なんは同じらしいけど、筋ジスと違って、マイナ ーなんやて」 「でも、どっちみち進行性なんですよねぇ?」 敦史は深刻そうな暗い表情になり、訊ねた。 渡辺は涼しい表情のまま、なんでもないように応えた。 「ん? 取り敢えず、病気の方は治ったらしいで。本人が言うには。理由はわからんみ たいやけど」 「えっ……? そっ、そうなんですか!? でも、車椅子に乗ってますよねぇ……?」 その敦史の言葉を聞いた渡辺はため息をついた。 「あんなぁ。病気が治ったからって、身体が元のように戻るの意味の「直る」になるとは 限らないのは知ってるやろ?」 「えっ、ええ。まぁ、知ってますけど……」 恐縮したように敦史はそう言うと、黙り込んだ。 ストローをくわえ、グラスの中のアイスコーヒーを敦史は飲んだ。氷が接触する音が グラスの中に響く。途中、何かを思い出したようにストローを離し、顔を上げて、せっ つくように質問した。 「そういえば、京都には一人で行かれたんですか?」 「そやけど」 「そーなんですか!スゴいっスね〜!!」 「そお?」 驚嘆の声を上げる敦史に対して、渡辺はなんでもないかのように応えた。 そんな渡辺に敦史は興奮したように更に質した。 「そうですよ!エレベーターとかあったんですか!?」 「東京駅とか京都駅とかはあったなぁ。けど、ない駅は駅員さんに仕事してもらえばい いことやし」 「なんていう……」 あっさりと答える渡辺に敦史は苦笑した。 その苦笑いに懸念を感じた渡辺はそれを払拭するよう言葉を連ねた。 「別に、公共機関使ってるだけけやしなぁ。付いてない所はそういうつもりで付いてな いんとちゃう」 軽く渡辺は笑った。それに対し、敦史は失笑した。 「そういうわけじゃないと思います」 「そーやろか?」 そして、すぐさま続けた。 「おまえはCP(先天性脳性麻痺)だからわからんやろけど…」 「CPじゃないですよ……」 言葉途中、敦史は口を挟んだ。不満げに、ぼそりと。 そんな敦史に渡辺は吐息をつくと、テーブルに肘をつき、顔をのせると、鋭い視線を 敦史に向け、言った。 「いずれにせよ、物心ついた時にはその状態やったんやろ? けど、俺らはちゃうからな」 「えっ……?」 自分とは違う?敦史はその言葉に対し、疑念の声をもらした。確かに、敦史は赤ん坊 の頃からなのだが、養護学校でなく普通の高校を出ているという自負もあり、その言葉 に戸惑った。なにが違う?早いか、遅いかの違いだけじゃないのか?と。 けれども、敦史の心の内なぞ気づくわけでもなく、渡辺は淡々と話を続けた。 「それまでやってたことを、なんでやったらあかんのやろ思ってるからな。犯罪犯して るわけやないしな」 「それまでって、事故する前ってコトですよねぇ? でも、そこまでして……」 敦史は不思議で仕方なかった。どこか行くというだけで大変なことを知っていたから だ。そんな大変な思いをするのに、そんな理由だけでとは思えなかったのだ。 そんな敦史の気持ちを察してか、それまでちゃらんほらんな様な素振りで話していた のだが、一息つくと、真剣そうな瞳で言った。 「未練を残したくないからな。多すぎて、この世に戻ってきたからなぁ。やらないで後 悔はしたくない」 ミートスパゲッティを渡辺はまるで飢えた獣のようにズルズルとすすり、食べ終わる と、口を紙でさっさと拭き、皿に載せると、その皿をテーブルの脇に移動させ、テーブ ルに身を乗り出して、敦史に質した。 「ところで、敦史は告白はもうしたん?」 「えっ? なっ、なっ、いきなりなんっスか〜」 食前までの真剣そうな口調と態度とはうってかわって、今度は軽そうに話す渡辺に敦 史は慌てた。どうすればここまで豹変できるんだ?という感じである。 しかし、そんな敦史の様子を気にするでもなし、まるでからかうかのように興味津々 と詰め寄ってきた。 「いきなりって、もう何日経ってると思ってんねん。ほらっ、一応お話はできるように なったんやから、さらにステップアップやろ?」 そんな明るく軽そうな渡辺に、敦史はぼそっと呟いた。 「自分が幸せだからって……」 「なんか言うた?」 それまで穏和だった渡辺の瞳が一瞬険しくて冷たい瞳に変わった。それを跳ね返すよ うに、敦史は目を外らしながらもきっぱりと言葉を並べた。 「なんでもないです。僕はいいんです。今のままで」 「好きなんやなかったの?」 敦史の言葉に渡辺は驚いたようで、不思議そうに聞き返した。 それに対して、敦史は口ごもりながらも、小さい声で言った。 「好きですけど……」 「しやったらぁ」 「いいんです!友達のままで!!」 渡辺の言葉をなにもかも突っ跳ねるように、敦史は言い切った。 そんな敦史の様相に、渡辺は呆れたような顔をすると、身を起こした。そして、カッ プに手を伸ばして、引き寄せると、そのコーヒーを無言のまま飲んだ。それから口を離 して、カップを置くと、また不思議そうに訊ねた。 「なんでや?」 「なんでって、僕なんか本気で相手してくれるわけないじゃないっスか」 「なんでそう思うん? 結婚してる障害者なんて結構いはるやん」 「それに……、それに、もう彼氏がいますよ。きっと……」 言い捨てるように敦史は暗い声で吐露した。 やれやれといった表情を渡辺は浮かべると、言葉を並べた。 「彼氏がいてるって確認したん?」 「そっ、それは……」 「そうやろと思った。けど、仮にいはったとしても、奪えばええやん」 「そっ、そんなコトできるわけないじゃないっスかぁ。そんな酷いこと……。それに、 別に、渡辺さんやアイラさんみたいに顔がいいわけじゃないし……。僕なんか……」 「あー、そうかもな」 「そこで納得しないで下さいっ!」 拳を叩いて、納得したような顔で笑う渡辺に、敦史は強くそう言い放った。 そんな興奮気味の敦史に対して、渡辺は落ち着き払ったような口調で語りかけた。 「けど、そないなこと言うてたら、不細工やデブや借金抱えてるのやら浮気症のやらマ ザコンの奴やら、そんなんでも結婚してはる健常者はなんなん? そんな人らでもして はんのやで」 敦史は珍しく力説する渡辺の言葉に、気押されたようにぐっと身体を反る。しかし、 今度は開き直ったように言い返した。 「そっ、そんなことより、自分はどうなんですか?」 ちらっと敦史はカウンターにいる香穂を指すように見た。 それに対し、渡辺は敦史の視線の先を見るわけでもなく、さっきまでの真面目そうな 表情は崩れ、いつもの軽い口調で応えた。 「俺はぁ、相手が「したい」って言うんやったらするんとちゃうかな」 「なっ、なんスか〜。それはヒドいですよ!男として卑怯ですよ!相手は待ってるのか もしれないじゃないですか!」 「しやったら、おまえはなんなん?」 ここぞとばかりに強気の反論をした敦史だったが、渡辺はさらりと返して、にやっと 笑った。すると、敦史はいじけたようにうつむいて言った。 「僕はそれ以前だから……。でも渡辺さんはっ」 敦史が顔を上げて、なにかを言おうとした時、渡辺は敦史にぶつけるように言葉を羅 列した。 「朝の出勤時間、昼の行動パターン、夜の帰宅時間・コースなどなど、さりげなくチェ ックして、偶然を装って会ってるくせに……。それほどまで気になってるくせに素直や ないなぁ〜」 「なっ、なんでそんなコトを……!!」 敦史は慌てた。 けれども、渡辺は軽く笑って、いった。 「ないしょ。で、それなのにしーひんのはなんで?」 「そっ、それはですね……」 焦って、口ごもる敦史に渡辺は呆れた顔をして、そっぽを向いた。が、その渡辺の顔 が驚きの顔に変わった。いつの間にか聖子が帰ってきて、目の前にいたのだ。 愛くるしい瞳でのぞき込むように渡辺を見て、聖子は訊ねた。 「なんの話をしてたんですか?」 「あー。結婚観の話やわ」 身体を起こすと、渡辺はそう応えた。 そこにすかさず敦史は興味津々といった態度で詰め寄り、質問した。 「そういえば、お嬢さんは結婚願望とかあるんですか?」 「私ねぇ……。あんまりないなぁ」 「そんな生涯一人なんて、さびしくありません!?」 そっけなさそうに応える聖子に敦史は不思議に思ったのか、答を追求するように、その 心情を聞いた。脇では渡辺が声を殺して笑っていた。 聖子はちゃんとテーブルに入り直すと、首を傾げて、いった。 「お茶飲み友達を作ればいいんじゃないの?」 「でっ、でも、年を取ったら……」 「別に、いま結婚しても、将来離婚してないとも限らないしぃ……」 「そっ、そっんな!してないかもしれないじゃないっスか!」 「そうねぇ。でも、無理してすることもないわよぇ……」 「無理に、ってわけじゃないですけど……」 必死に食い下がるように聞く敦史に対して、なんでもないかのように応える聖子。 その二人の姿に、ついに渡辺が声を出して笑い始めた。 「敦史の奴、さっきまで自分は結婚なんて!って言ってたんやで。それが……」 言葉途中、笑いの壷にはまったようで、笑いながらうずくまった。 「そうなの? それなのにそんなこと言ってるの?」 「いいじゃないっスか〜」 聖子が怒ったように敦史の方を向いて言うと、敦史はただひたすらに開き直ったかの ように苦笑いした。