8 入り口のドアの開く音がして、アイラが入ってきた。それに気付いた香穂は、いつも のように微笑みを浮かべながら、明るく声をかけた。 「いらっしゃいませ」 「はーい、こんにちはー。香穂ちゃん、今日も綺麗だよ」 「あ、いつもありがとうございます」 「あー、照明のおかげかもしれないけどねー。照明の位置変えた?」 「もうっ。アイラさんったらー」 アイラは元気よく軽やかな日本語で香穂に応対すると、テーブルの所までこいできて、 止まり、ブレーキをかけた。そのアイラが止まるのと同時に、渡辺はコーヒーカップ をすこし掲げて、いった。 「いらっしゃい」 「こんばんはー」 続くように聖子が会釈すると、敦史も頭を下げた。 アイラはそれに手を上げて応えると、テーブルの上に黄色の大きめの巾着袋を載せ、 その中から煙草を取り出した。そしてケースを両手で振って、すこし飛び出た煙草をく わえた。それで、煙草をくわえながら今度はライターを取り出しながら、いった。 「今日はまだ元下はきてナイの?」 「そういえば、まだきてないわねぇ」 アイラの質に店の時計を見て、気がついたように聖子は応えた。 すると、渡辺はカップから口を離して、代わりに答えるように言った。 「あー、そやそや。今日はあそこやわ」 「あそこっていうと、噂の……?」 「オー、あそこね!元下もがんばるね〜」 聖子とアイラはその言葉を聞いて納得したようだった。けれども、敦史にはあそこがど こなのかわからなかった。 敦史はその疑問をそのまま言葉にして、訊ねた。 「噂のって、なんっスか?」 「あっちゃん、知らないのぉ?」 「えっ、ええ……」 意外そうに聖子が聞き返すと、敦史は申し訳なさそうに応えた。 その敦史の目の前に渡辺は小指を突き出して、いった。 「コレや」 「えっ、えっ、えっ? そうなんですか!? 決まったヒトがいたんですか!?」 「ま、おまえもがんばるんやな」 にやっと渡辺は敦史の言葉にそう言って笑い、コーヒーを口にした。 すると、聖子がびっくりした顔をして、声を上げた。 「えっ!?? あっちゃんもそんな人がいるの?」 「いるもなにも……」 渡辺が意味ありげな笑いを浮かべると、アイラが手を叩いて声を上げた。 「あー、あの彼女でしょお!真由美サンっ!!」 「えーっ、あっちゃん、そうなの?」 アイラの言葉に、なんか楽しそうに聖子は両手を合わせ、敦史に言葉を投げかけた。 それに対して、渡辺は醒めたように言い放った。 「けど、あかん。まだ告白もできひんみたいやし」 「まだしてないのぉ?」 「オー、グズグズしてると他の人にとられてしまいますヨー」 「別に……。もう既にいるかもしれないし……」 渡辺以外の二人にも責められるように言われると、敦史は暗く呟いた。 すると、アイラがその敦史の毅然としない態度に苛立ったように、大きな声を上げた。 「オー、自分に自信持ちなさいナ!」 「でもですね……」 アイラの言葉を聞いても、その言葉に抗しようとする敦史に、ついにアイラは顔に手 を当て、天を見上げた。その横から聖子が冷めた声で言葉を敦史に突きつけた。 「あいかわらずね」 そして、顔を伏せたままの敦史に渡辺はきつい視線を向け、冷たく言い放った。 「根性なしめ」 翌朝の公園。朝もやがまだ残っている中、朝日が建物の脇から入り込み、敦史を照ら し出し、長い影を浮かばせている。その陽光の中、敦史は屈んでくわえている煙草に火 を着けた。そしてまた、前かがみになって煙草を手に取らせると、偉そうに煙を噴いた。 そこに、頭の後ろから抜けたような声が飛んできた。 「あれ〜」 敦史は煙草を灰皿に慎重に載せると、声のした方向に電動車椅子を向けた。そこには 敦史の方に近づいてくる真由美の姿があった。そして、敦史の目前にまで駆け寄って来 ると、明るく笑顔で言った。 「敦史くんじゃない。こんな朝早くからどーしたのぉ?」 「あっ、あ、おはようございます」 「おはよ。って、毎朝いるよね」 「ははは……」 にっこりと微笑む真由美とその言葉に敦史は苦笑いした。そんな敦史の様相に真由美 は不思議そうに声をかけた。 「どうしたの? 言葉がヘンだよ」 「いえっ、いや、別に……」 敦史は慌てた。いつもなら、なんとでも言葉を返せるのに、今日の敦史はその返す言 葉さえも出なかった。先日の一件のおかげで、妙に意識してしまうのだ。けれども、真 由美は納得したように軽く笑うと、言った。 「そっか。なら、いいけど」 「え、ええ……」 「じゃあ、私、これから仕事だから」 「あ、いってらっしゃい」 いつものように明るく大きく手を振って去る真由美を敦史は見送りながら、いつもと 違うぎこちなさに後味の悪さを感じていた。そして、深くため息をついた。 その日の夕刻。陽も西の方に沈み、天は藍色に深みを徐々に帯びていく。街のあちら こちらの街灯が明かりを灯す。その時間、敦史はいつものように公園の街灯の下で一人 煙草を吸っていた。 その敦史の目の前を真由美が近づいてくるのに気がついた。しかし、今日の敦史は戸 惑っていた。どうすればいいのか。焦りだけが先行して、考えがまとまらない。 そんなこんな敦史が考えている間、真由美は敦史の存在に気付かないかのように、目 の前の路をさっそうと通り過ぎていった。しばらくして、敦史はすこし不思議そうな表 情を浮かべて、考えた。いつもなら、こんなことないのに……。