児童相談所 北里大学病院精神科 ADHD
1学期が終わり夏休みに入って少したった頃、goriとの関係に疲れ果てた私は、自分だけで処理する事はもう出来ないと感じ、
児童相談所に電話をした。面談の日取りが決まり,今までの育てにくさを話した。

その後、定期的な相談という形で児童相談所に何回か通ったところで、
北里大学精神科の佐藤喜一郎先生に診てもらう事になる。
その時、告げられた障害、
注意欠陥多動障害(ADHD) 自閉傾向あり 何それ?聞いた事ない。やはり、当時【10年位い前】は今の様に本も出ていなければ、情報もほとんどなく、よく解らなかった。それに衝動性はあったが、多動はなかった。でも体のどこかを動かしていたり、何かに触っていなければいられない、非移動性の多動と言うのだそうだ。なにそれ?それから、”自閉傾向ありって言うのが、当時のポイントだ。今のように自閉症スペクトルという概念は浸透しておらず、古典的なカナータイプのみが自閉症と診断されていた。”

運動会の練習が日増しに激化されていくと、家に帰ってからのgoriは部屋の中を奇声をあげながら走り回った。運動会当日はジャンピングが止まらなくなったり、それらしき行動が多発していた。脳が刺激を処理出来ずに完全にオーバーヒートだ。
幼稚園の運動会は地域の未収園児に園をPRする絶好の行事なわけで、それそれは力が入り、練習も度をこしていると思うのだが・・・
幼稚園って大変な所なんだなぁ〜。年長になればもっと大変で毎年恒例の「組体操」が待っている。これは逆立ちしたって無理だ・・・・・。逆立ちできないっって・・・。

陽光園
発達障害を告げられてから、それなりの療育をしなければいけないとわかり、陽光園の相談室に定期的に通うようになる。普通の幼稚園に通いながら、定期的に行っている療育グループに通った。最初は知的な遅れはなく、運動面に問題がある子供のOT中心のグループだったが、だんだんランクが下がったような気がする。というより、やっぱりgori独特の過敏さが、他の子との違いを大きく感じさせた。
そこで、幼稚園の様子などを心理の先生に話すと、goriは保育園の方が良いと思いますよ。と言われ、相模原市の障害児受け入れ指定園になっている淵野辺保育園を紹介してくださった。
車を運転しない私は電車通園で自宅から園まで1時間ほどかかり、預けてから仕事に行き、帰りも電車&徒歩 忙しい毎日になった。
幼稚園

年少の3学期から、幼稚園に行かせてもらう事になる。心臓の事、目の事、環境に慣れにくい事などを話したら、幼稚園の方から3学期からいかかがですか?と言われた。みんなと一緒のスタートより、早く慣れておいた方が本人にも良いだろう。との配慮だった。ありがたくそのご好意をお受けして、2月半ば頃から通園を始めた。不安はあったものの行けば何とかなるだろう・・・・と。この頃私はまったくgoriの障害を理解していなかった。年少組は人数が少なく、先生にも余裕があったし、通った日にちも数えるほどで特に問題なく終わった。
年中になってから、本当にgoriの出来なさの現実を目の当たりにする事になった。出来ない 出来ない 出来ないづくし・・・。朝、園に着いてから体操服に着替えその上スモックを着るのだが、まずそこからつまずく。脱いだ制服をハンガーにかける。出来ない・・・。今でもそんな事はしないけど。
なんで、あんただけができないの??? というよりみんな出来てるからすごい。

なぜ出来ないのか?運動障害的に出来ない事も多かったと思うけど、精神的発達も遅くまだ、「集団の中の自分」というイメージがまったくなかったのだと思う。同年代の子に比べると幼すぎて、情緒レベルは1歳位だったんではなかろうか。「社会にはルールがある そのルールは守らなければいけない」って事を知らなかったし、よく「集団の中で揉まれ、見よう見まねで出来るようになっていく」と言われるが、それは健常児の場合なのだ。

goriはいつも先生に抱きついてぐずっていて、泣いたり怒ったりしていた。先生は可愛くて、優しい先生だったが、障害についてはまったく知識がなかったようだ。
園にも行きたがらないし、慣れるどころか、情緒はますます不安定になっていくし、指示は通らないし、やっぱりおかしい・・・変だ。でもちゃんとしゃべるし、そのうち追いつく?この頃私は、思うように育っていかないgoriにイライラしする毎日だった。