手術

3歳の夏に
心房中隔欠損症と肺動脈狭窄症の心臓の手術をうけた。
この年の夏は、とても暑くて辛い夏だった。
心臓の病気の意味もまだ理解できてなかっただろうし、完全看護だから、親がそばにいられる時間も決まっている。この事はgoriのココロにどんな風に残ったか創造もできない。発達障害の事を私がもっときちんと理解していたら、この時期に手術したかどうか・・・・・
goriは面会終了の音楽が流れると、狂った様に泣き叫びながら長い廊下を走り、終いにローリングした。それがあまりに激しかったので、先生に「まず性格直せ」ときつーい一言を言われる。

手術の前日の夜はgoriの横に朝まで付き添えた。台風が近ずいていて、風が強く、雨が降ったりやんだりの不安定な日だった。手術当日の朝、青空に台風の飛ばした雲が、急ぎ足で通り過ぎる様子が、待合室の窓からよく見えた。湿気のある蒸し暑い日だったが、私は寒くて震えが止まらなかった。
朝8時頃から手術の準備に入り、全部で4〜5時間と言われていた手術だったが、終わった知らせを聞いたのは、もう夕方だった。先生の話では、輸血をしないでするつもりだったが、出血が予想以上だったため、急きょ輸血をする事になったのだと言う。開胸手術は、エネルギーの消耗を最小限にするために、肺の機能を停止させ人口心肺をつけ、体温を35度に保つのだそうだが、goriが手術している間、私も異常に寒気がした。まだつながってるんだ目には見えない何かで・・・・・そう思った。

手術後、ICUに入ったgoriは、裸で紙おむつだけ。口にはまだ麻酔の太い管がガムテープで止められたままで、体中に線がついていた。心臓からは数本の管が出ていて、その一つから赤黒い血が吹き出て、チューブを回りベットの下においてあった試験管のような入れ物にドクドクと溜まっていた。
それは衝撃的に私の目に焼きついた。
「まだ麻酔が効いてますから、話しかけても聞こえませんよ。」
と言われたが、私がそばにいるのが解ったのか突然「ママ!!」とgoriが言った。目は閉じていたし、起きたわけではなかったが、叫ぶ様な大きな声だった。看護士さんも私もびっくりした。でも、きっとgoriには私の声が聞こえたんだと思う。そう、やっぱり目に見えない何かでつながっていると思った。

手術後、2日目位でICUを出て手足が動かせるようになると、両手両足がベットの柵にひもで結ばれていた。面会に行った私はまたもその光景にショックをうけた。「ママ、見て見て助けて」とgoriが言う。
私がいる間はひも解いてくれた。私はづっとgoriのッ両手を握り続けた。
退院が近づくにつれ病室も出口に近づいていった。最初、なぜ病室が日々変わっていくのか不思議だったが、だんだん理解した。退院のめどがつかない人はづっと同じ部屋だった。病院で生まれ、1度も外にでていない女の子もいた。小児がんの女の子と同じ部屋になった時もあった。
手術直後のイタイタシイgoeiを見て、その子の母親が「胸を切り開いて手術するなんて、どんなに辛かったでしょう。」と涙ぐまれた。こんな状況でも人を思いやれるのか・・・?こんな経験をしてるから、思いやれるのか・・・?感じる事、考えさせられる事。たくさんあった夏だった。
今でも時々思い出す。あの子はどうしているだろうか?きっと良くなっていると信じている。

手術後、1週間位たったある日の事、面会に行くと病室のベットにgoriがいない。眼科に行っているから、呼ばれたら向かえに来るように言われ病室で一人待つ事1時間・・・。眼科・・・?
迎えに行くと、ストレッチャーにちょこんと座ったgoriがいた。又縛られてる。今度はおなかだ。病院って本当によく縛る所だと思う。
診察室に呼ばれて入ると、いきなり左目が
斜視で見えてない事を告げられた。
goriを乗せたストレッチャーを押しながら、病棟に戻る途中私のココロはパンクした。腰が抜けたように歩けなくなり、座り込んで泣いた。
退院後から、見える方の目を眼帯で隠し、斜視で見えない方の目で生活するという訓練が始まった。少しでも視力を出すためだ・・・