バイクの今日まで そして明日から 2 |
かわって販売台数を伸ばしたのがハーレーである。ハーレーは、日本メーカーが相変わらず若者を主な顧客として想定しているのに対し、およそバイクなど買わないだろうと思われた年配の人を顧客とした。高価なハーレーを買うためにはそれなりに経済的に裕福でなければ買えない。しかしもしハーレーが以前のままハーレーだったらここまで販売を伸ばすことは出来なかっただろう。 その転機は1984年のエヴォリューションエンジンに行き着く。それまでハーレーの経営は思わしくなく、品質も悪かった。これはアメリカの政治経済的な事情によるが、単純化すれば労働者を優遇し、労働者の権利を必要以上に擁護した結果、自動車やバイクの組立工の質が落ちた。それに伴ってアメ車の品質も落ちた。経営者は長期的な戦略ではなく短期的な利益を確保することを優先した結果、時代遅れのエンジンを化粧直しして新型モデルを出す様な戦略を取ることになった。排ガス規制が強化されていた時代であるが、日本メーカーが排ガス規制をクリアするのに死にものぐるいで取り組んだのに対し(これがまさにH-Y戦争の原因になったのだが)、アメリカのメーカーは政治的な取引を選んだ。そしてその結果、技術力において決定的な差が付いてしまい、アメリカにおける製造業は事実上死んだ。ハーレーもご多分に漏れず、この時代は買ったら一回バラして組み直さなければ乗り物にならないと言われていた。オイル漏れは当たり前、走行中に部品がぼろぼろ落ちる様なシロモノだった。これでは日本どころか、愛国心に富むアメリカ人でも買えない。実際、ハーレー・ダヴィットソン社は業績が悪化しAMFに身売りされてしまった。 しかしその状況もエヴォリューションエンジンの頃にかなり改善された。ハーレーの経営もやや上向き、AMFから株式を買い戻し(バイバック)独立を取り戻していた。 「ハーレーダビッドソンは、ハーレーダビッドソンを愛する者で作る」というのがこの当時の経営理念であった。 しかしこのエヴォエンジンは古くからのハーレーユーザーには必ずしも評判が良くなかった。それ以前のショベルヘッドに比べカタチが悪いという理由である。しかし品質が上がったことによってマニアでなくても、一般人も手を出すことができるようになった。これはハーレーを拡販していく上での必要条件である。一方でハーレーは製品の品質を上げるためにハーレーの伝統であり、代名詞ともいうべき狭角Vツインのレイアウトを捨てることはなかった。ここが同じ頃、製品の転換を迫られ、伝統のフラットツインを捨てて一気に水冷直列4気筒エンジンを採用したBMWとの大きな違いである。 狭角Vツインエンジンというのは古典的なエンジンレイアウトであり、ベーシックな単気筒エンジンを手軽に出力アップするための最も単純な方法である。単純には単気筒エンジンを2個くっつければ良い。2気筒にするなら並列にすれば良いと思われるかも知れないが、並列ではシリンダーが左右で形状が異なるため造り直さなければならなくなる。 しかし並列では左右のシリンダーは均等に冷却されるが、V型のレイアウトでは後ろのシリンダーの冷却が問題となる。V型エンジンはあまり熱量の大きくない低性能エンジンには良いが、高性能エンジンにはあまり適しているとは言えない。もし純粋に技術的な見地からハーレーの技術者が新型エンジンの開発に関わっていたらおそらくこの形式は採用しなかったであろう。BMWのようにモダンな形式を選んだのではなかろうか。しかし「ハーレーダビッドソンを愛する」技術者はハーレーの伝統であるVツインエンジンを守った。BMWも結局一度捨てたフラットツインエンジンを市場の声によって復活させなければならなかったし、フラットツインとして近代化しなければならなくなった。80年頃まではBMWと言えば「フラットツイン」であったが、現在は必ずしもフラットツインでは無い。フラットツインもあるが、並列4気筒も6気筒もある。単気筒も並列2気筒もあるという、ある意味フルラインナップメーカーになった。それに伴ってエンジンレイアウトだけ見ればメーカーのアイデンティティは薄らいだものになってしまった。 ともあれハーレーは伝統のVツインエンジンを抱いたまま安定した品質を手に入れた。ハーレーにすれば革新的に進化したエンジンとなったが、市場はショベルやナックルと同じと見なした。そしてショベルやナックルが作った伝説をそのまま継承することができた。その中には前に書いたように「強大なアメリカ帝国」を象徴するイメージはいささかも崩れることなく受け継がれた。もしBMWがフラットツインを作り続けていたとしても、それ自体はメーカーの伝統となっていたかもしれないが、マニアックな戦車オタクでもない限り、ドイツ文化への憧憬を呼び起こすことは無い。ここがアメリカを背景に持つハーレーの強みである。そしてハーレーはこの強みを生かす市場を見つけることができた。 ハーレーが幸運だったもう一つの要因は大型免許を教習所で取得できるようになったことにある。これは1996年の免許制度改定で改定された。もっともこれは日米通商摩擦にからんでハーレー社がアメリカ政府と一体になって日本に外圧をかけた結果であるため、目論見通りとも言える。これにより中型免許があれば12,3万円払えば大型免許が「買える」事になった。 しかし免許制度の改定はどのメーカーに等しくメリットがある。問題は12,3万円払って約1ヶ月間の土日をフイにしてまでも買いたいバイクがあるかという点にある。結局、そこまで消費者を揺り動かしたのはハーレーだったということである。 国産メーカーにもハーレーを模した車種がある。かつてはアメリカンと言っていたが、現在はクルーザーと呼んでいる。概ねハーレーを模したVツインエンジンを積んでいる。これもそれなりは売れている様だが、ハーレーほどは売れていない。ハーレーがモデルを持たない中型クラスではそこそこ見るが、大型ではほとんど見ない。ハーレーがいかに品質が上がったからと言って国産車ほどの品質ではなかろうが、それでも売れない。 もし消費者がクルーザーのようなデザインのバイクが欲しいのであればドラッグスターはもっと売れてたであろう。またハーレーの品質がショベル時代のままであれば、あるいは国産クルーザーはもう少し注目されていたかもしれない。 これは結局、ブランド力の問題である。 「ばくおん!!」の中に「バイクに乗らない理由ならいくらでもある。だからこそ乗る理由が一つでもあるなら乗るべきなんだ。(by恩沙)」という台詞があるが、乗る理由とは、憧れであろう。スピードかもしれないし、力強さかもしれない、爆音かもしれない、人それぞれ乗るべき理由があるわけだが、その基本が憧憬である限り、憧憬たるべき理由が無ければならない。それがメーカー、モデルが作るブランドである。 ハーレーは経営資源の多くの部分をブランド戦略に注いできた。その結果が90年代以降の躍進にある。 翻って国産メーカーはブランドを構築する企業努力を行ってきただろうか? ブランド戦略どころか、メーカー名を外すとどこのメーカーかすらわからないようなバイクしか作ってきていないのが現状である。あるときはレーサーレプリカ、あるときはスクーター、あるときはネイキッドと、時代時代で主力となる機種は変わってきたが、しかし4メーカーとも似たり寄ったりのバイクしか作っていない。 またカワサキを除き原付からリッターバイクまで、場合によっては実用車まで生産するフルラインメーカーであることによる悲劇とも言えるかも知れない。ハーレーのようにV型エンジンしかつくらないとか、BMWのようにロングツアラーしか作らない、というような明確な線引きは、日本メーカーには出来ない。それがハーレーのようなある種わかりやすいブランド戦略を取ることが出来なかった原因である。 なぜそんなことになったのか。 それを知るためには時間をもう少し巻き戻して見る必要がある。現在のバイクメーカーの原点は戦後復興期にある。ホンダもスズキも自転車にエンジンをくっつけた通称バタバタと呼ばれる原動機付き自転車から出発している。その後、1950年代の戦後復興期を通して庶民の足としての実用車を提供してきた。この頃バイクメーカーはそれこそ雨後の筍ほどもあった。その中でヤマハのみやや毛色が異なり、元々実用車ではない(荷台を持たない!)YA-1から出発している。これは当時の母体が日本楽器製造であったことも影響しているだろう。ただしその思いがどこまで通用したかは不明である。また前身のメグロが戦前から大型バイクを作っていたカワサキもやや位置づけが異なる。 いずれにしてもこの時代、バイクとは日常の足であり、いわば農耕馬として使われた。 実用車において最も重視されることは丈夫であるということである。劣悪な環境の中で酷使されても故障の少ないバイクを作ることができたメーカーだけが生き残る事が出来た。当たり前と思うかも知れないが、欧米では異なっている。早くからモータリゼーションが発達していた欧米では戦後、実用車は既に自動車であり、バイクは専らスポーツ用の道具となっていた。スポーツ用の道具であればこそ、故障しても許された。手を真っ黒にして故障を直して乗る「オイリーボーイ」だけがバイクに乗る事を許された特権階級だった。バイクとはそういうものであった。そしてメーカーもそういう客だけを相手に商売をしていた。 実用車を出発点に持つ日本メーカーとはその基本において大きな差がある。 当時本田宗一郎が巨大な設備投資を行うに当たって「うちの会社が潰れたって、この工作機械が残れば、何処かの企業が使うだろう。それならそれで日本のためになるからいいじゃないか」といったというエピソードがあるが、このような巨額投資が曲がりなりにもできたのは、日本のバイクメーカーが実用車メーカーであり、量産メーカーであるからに他ならない。 (例えばドゥカティはスポーツバイクメーカーとして有名な会社であるが、その実態は中小企業であり、ホンダのような投資はできない。ドゥカティと言えばL型ツインエンジンとともにバードゲージフレームと呼ばれるトラス状のフレームが有名であるが、あれもアルミフレームなどを作るための設備投資が出来ないための苦肉の策であるという。) その実用車メーカーである日本メーカーが1960年代に入ってバイクが実用車としての地位を失うのに対応してスポーツバイクメーカーとしての脱皮を模索し始めることになる。 それに伴って国内においては浅間火山レース、そして海外ではマン島TTレースがその目標となった。 一方で市販車もかつての実用車をベースとしたものから、純粋にスポーツ用途のものとなった。その転換点はホンダCB72あたりにある。それまでのCB92までは実用車をベースに持ち、ベンリィを名乗っていた。実用車を脱し、純粋なスポーツバイクとなったのがCB72あたりからであり、このピュアスポーツ車はドリームを名乗った(本当は単に排気量による区分の様だが)。ドリームを名乗るバイクとして最も有名なのがCB750Fourであろう。 ここで日本メーカーが市場をイノベーションしたことは注目する必要がある。 すなわち、修理を自分でしなければならないような人しか買わなかったバイクをメンテナンスフリーとして、誰でも乗れるものにしたのである。これは実用車量産メーカーとしての日本メーカーにとっては当たり前の当たり前の事でしかなかった。もし不良品を作ってしまったらそのクレーム処理だけで会社が倒産する可能性がある。ホンダにしろヤマハにしろ過去にそのような経験を身をもって知っている。日本では「バイクとは少々の故障は自分で直すべきものである」などという理屈は通用しない。そしてそれは全世界で劇的にバイク人口を増やすことに繋がった。 日本製バイクが世界を席巻した70年代後半に、あるバイク雑誌で読んだイギリスのバイク事情の記事にこんなことが書いてあった。 なるほど日本製バイクはイギリスのトライアンフやノートンを倒産に追い込んだ。しかしバイクユーザーを増やし、多くのディーラーで雇用を生み出したではないか。仮にトライアンフやノートンが存在していたとしても、バイクユーザーはこれほど増加していなかっただろう。 日本製バイクがあの時出てこなければ、もしかしたら21世紀に入る頃にはバイクというものは消滅していたかもしれない。80年代のバイクブームも無かったろう。「壊れないバイク」というのはそれくらいインパクトがあるのである。この点は見過ごされがちだが、重要な点である。 そして60年代から日本メーカーは積極的にレースに取り組む。アサマで勝てばセールスに直結する時代もあった。そして当然の帰結として日本メーカーは量産車メーカーのままスポーツバイクビルダーに変貌していった。メーカーの数は淘汰されたとはいえ、そのようなメーカーが4つも生き残ったのは奇跡である。 量産メーカーの考えることはどの業界でも同じだが、薄利多売してでも工場の操業率を上げれば利益は出る、という戦略と取る。そのためには自分たちがどんなバイクを造りたいかよりも、どんなバイクが売れるかが優先される。徹底したマーケッティングイン戦略となる。 これがどのような結果を生むかは明白であろう。レーサーレプリカが売れるとなればレーサーレプリカを造り、アメリカンだと言えばアメリカンを造り、ネイキッドだと言えばネイキッドを作る。売れるとなれば何でも作る。それも4メーカー揃って同じようなものを作る。 そこにはメーカーのポリシーであるとか、「ハーレーダビッドソンは、ハーレーダビッドソンを愛する者で作る」などというような感傷は無い。感傷が無いところにメーカーブランドなどというものは存在し得ない。 ホンダはカブもCBR1000RRも同じようにホンダブランドで売らなければならない。そこにかつての「Nicest People on a HONDA」のような統一したコーポレートブランドの構築は難しいであろう。 これが歴史的経緯を踏まえて考えられる日本メーカーの問題点である。つまり市場が縮小していく中で量産メーカーとしての成功体験は使えないどころか、個性が生み出せないという意味で悪い方に作用している。バイクが自己表現のための道具となった時代においてはブランド力のないメーカーは致命的であるとも言える。 これから先、バイクメーカーやあるいはバイクというものがどうなって行くのか、答えは私にはわからない。市場に合わせて事業規模を縮小し、ドゥカティのようなガレージビルダーになる道もあるだろう。儲かりもしない2輪部門を切り捨てて身売りしてしまうかも知れない。これまで通りノーブランドの安売り実用品メーカーという道も無くはない。スズキ Bandit1200はあまり特徴のない、安いだけが取り柄のバイクだが、実用本位のヨーロッパではツアラーとして人気がある。幸か不幸か発展途上国もあまり儲からないバイクには本気で手を出さないので日本メーカーの地位はある意味安定している、今後バイクも電気化されるだろうから、その時はまた全く別のものが出てくる可能性もある。これから市場が立ち上がることが予想される発展途上国をターゲットにおいて、60年代の様に実用車ビジネスをもう一度やるというのもあるだろう。 最近、ホンダがCBR250Rというバイクを出した。ネーミングからすればかつてのレーサーレプリカの様だが、カウルこそ装備しているものの、エンジンはおそらくオフロード系の水冷単気筒である。およそかつてのレーサーレプリカとは言えるようなシロモノでは無い。馬力もたったの20馬力しかない。1982年のVT250Fは35馬力もあったのにである。このバイクはホンダの世界戦略車と位置づけられている。日本や欧米などでは手軽な入門車として、そして東南アジア各国でスポーツバイクとして受け入れられるように設計され、しかも世界1モデルで販売されるという。その分余分なコストを落している。これは量産メーカーとしての生き残り戦略であろう。この戦略が成功するかどうかはわからない。どこにも通用するということは逆にどこででも通用しないということになるからだ。 ただ、これからのバイク作りを考える時、これまでのように「バイク」という範疇ではモノを考えない方が良い。ハーレーに乗ろうと企んでいる人は、バイクに乗りたい訳ではない。アメリカのハーレーというブランドを身につけることを目的としている。それがたまたまバイクという分野に属している乗り物だったというだけのことだ。 市場をセグメント化して考えると、ここ10年の間、50歳以上男性という層にハーレーに対する需要があり、ハーレーはそれに乗って業績を伸ばした。他のセグメント、他の時期においてはきっと別の需要があるはずだ。 例えば我々の世代は1980年代にバイクブームの洗礼を受けている。そして当時憧れだったバイクに乗りたいという願望がある。その願望がレストアブームを起こしている様だ。それは必ずしもメーカーのメリットにはならないし、それほどインパクトがある動きでもないので表沙汰にはなっていないが、それも一つの需要であることに間違いない。しかしこれもハーレーブームと同様、バイクを巡る周辺で起きているニーズであることに間違いはない。 バイクとは性能を追い求めるもの、という常識も実は既に意味をなさない。 2000年に放送された「Beautiful Life」で主演の木村拓哉が乗っていたバイク、ヤマハ TW200(改)が評判になって結構売れた。TW200は1987年に発売されたオフロード系のバイクである。砂地走行用をイメージしているのかリアタイヤが極太であるのが特徴であるが、どちらかといえばレジャーバイクとして受け取られ、当初はあまり人気はなかった。90年代に入るとその特異な形状が若者にうけ、いわゆるストリート系のベースマシンとして人気が出てきた。そして一般にブレイクしたのが2000年の「Beautiful Life」であった。理由もわからずに「キムタクと同じの」というような注文もあったらしい。これなどももはやバイクを売っているわけでは無くなっている。ハーレーによく似た現象であると言える。 TW人気はそのうちに飽和し、TWも2008年には生産中止になったが、もっと普遍的な価値を表す事が出来れば、もっと長続きしていたかもしれないと思う。 これまでバイクとはかけ離れたもの、例えば「萌え」といった要素も検討してみる価値はあるのではないかと、半ば本気で考えている。いやむしろ、そのようなアプローチをしなければ、バイクというものに明日は来ない様な気がする。 かつて日本車がメンテナンスフリーという革命を起こしたように、あるいはホンダがスクーターという言葉で革命を起こしたように、イノベーションを起こさなければ、いずれバイクという文化は消えてしまうであろう。そのためには単純なマーケットインから本来のマーケッティングに変えなければならないと思う。 この項、終わり |
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