7.「新聞の公正さ」について 2014/09/20 |
このところ(2014年9月)朝日新聞が慰安婦報道、福島第1原発事故における吉田調書報道における誤報で叩かれています。身から出た錆であり、ザマミロってなもんです。ドブに落ちたイヌは死ぬまで叩かれる、それも、これまで社会の木鐸と称して偉そうなことを言ってきた新聞であればなおさらでしょう。 しかしながら、その批判の中に間違ったものがあるので、その点について指摘しておきたいと思います。ドブに落ちたイヌであっても、叩くにはそれなりの礼儀は必要であるということです。 ■各閣僚、公正報道求める=朝日新聞誤報問題 朝日新聞が東京電力福島第1原発事故の「吉田調書」をめぐる記事を取り消し、従軍慰安婦報道を謝罪したの受け、各閣僚から12日の閣議後の記者会見で、公正な報道や検証の徹底を求める発言が相次いだ。 太田昭宏国土交通相も「誤報のないよう細心の注意を払うのは当然だ。社会的責任の大きさに鑑み、公正で正確な報道を心掛けてほしい」と指摘。 太田先生はご存じないようですが、新聞は「公正」である必要は全くありません。 もっとも何をもって公正というかというのは難しい問題であり、簡単に答えが出せるものではありませんが、ここでは大多数の国民が概ね正しいと思っている価値観に合致していること、としておきます。 もし新聞が公正でなければならないなら、「赤旗」も、それから太田先生が毎朝読んでおられるであろう「聖教新聞」も発行できなくなってしまいます。何故なら「赤旗」は共産主義思想という、今日の日本においてはほぼ否定された価値観に拠って編集されており、「聖教新聞」も同様に何かよくわからない価値観によって編集されており(たぶん、、、)、「大多数の国民が概ね正しいと思っている価値観」に拠って記事を書いているわけではないからです。 従って例えば「赤旗」が「労働者が立ち上がり、今こそ世界同時共産革命を達成すべきだ」という記事を書いても全く構いません。いやむしろそう書かなければならないのであります。書く責任があるのです。共産主義が今の世の中ではウケないなどと考えて、世論に迎合した腰の抜けた記事を書くことがむしろジャーナリズムとしては間違っているわけであります。 聖教新聞がどのような価値観で記事を書いておられるのか、不勉強なために知らないのでありますが、ともあれ新聞は公正でなければならないわけではないのです。 そうであれば「公正ではない」という理由で、「朝日新聞」を叩くのは間違っているということになります。 太田先生が「朝日新聞」には公正でなければならないと言い、方や「聖教新聞」には何も言わないというのは、甚だ不公平な態度ではなかろうかと思うわけです。太田先生が新聞は公正でなければならないとお考えであるのであれば、毎日隅から隅まで読んでおられると思う「聖教新聞」が公正な記事を書いていなければ、断固抗議すべきではありますまいか。 もしそうではないと言うのであれば、多くのマスメディアが「朝日新聞」叩きなどという、些末的なゲームに熱中しているわけですが、大臣という権力者のこのような二重規範こそ問題にしなければならない。それがマスメディアの、「第4の権力」としての存在意義ではないかと思うわけです。 しかし、上記の記事を配信した時事通信も他のメディアも、産経新聞さえも自らの存在意義を放棄している様なので、不肖私のようなものがしゃしゃり出て、こうして指摘しているわけであります。 一方、テレビは公正でなければなりません。 これは放送事業が放送法に基づく認可事業であるためです。 国民の共有財産である電波周波数帯を使う以上、好き勝手な放送を垂れ流すことは許されないということです。 中田先生が「NHKバラエティは低俗」だと指弾されたのは、全くもって正しい態度であるわけです。公正であるべきテレビ報道が、しかも国民が受信料を支払っているNHKが「ケータイ大喜利」とか「伝えてピカッチ」といった、国民をバカにしたような低俗な番組を垂れ流して良いわけがないのであります。 民法においても、古館なんぞが眉をひそめて「日本は戦争が出来る国になった。」などと自分の浅はかな考えを国民に押し付けるようなことは放送法違反であるので、即刻クビにすべきであると考えるわけであります。もし古館がそのような主張をどうしてもしたいというのであれば、彼はテレビではなく、新聞というメディアに活躍の場を移さなければならない。そこで堂々と論陣を張ったら良いのであります。 あの櫻井よしこ先生でも、ニュースキャスターをやられていた頃は、露骨な主義主張は控えておられていたように思います。 ただいくら新聞が公正でなくても良いと言っても、何を書き飛ばして良いということではありません。ちなみに新聞用語で「飛ばし」とは根拠もなく書き飛ばした記事の事です。 新聞報道にはルールが2つあります。 まず一つは「事実の正確性」です。 ネットの普及によって新聞メディアの存在意義が取りざたされていますが、新聞の存在意義はまさに事実の正確性が担保されているという一点にあります。 ネットの記事は便所の落書きと一緒で、どんな人が、どんな意図を持って書いたものかわからない。その点、新聞は裏付け取材を行った上で、事実関係における正確さは保障されていることになっている、少なくともネットの落書きよりはマシなはずだという点こそが新聞の、メディアとしての存在意義なのであります。 この信用を失ってしまうと、「新聞」では無くなってしまいます。 これには一つ例があります。 ロス疑惑関連で、梨元勝レポーターと東スポが名誉棄損で三浦和義氏に訴えられたのですが、その時の判決文がすごかった。 東京スポーツの本件記事欄もそのような記事を掲載するものであるとの世人の評価が定着しているものであって、読者は右欄の記事を真実であるかどうかなどには関心がなく、専ら通俗的な興味をそそる娯楽記事として一読しているのが衆人の認めるところである。 記事内容が真実であるかどうかを検討するまでもなく、原告の社会的地位、名誉を毀損し、あるいは低下させるようなものと認めることは到底できないものというべきである。 (wikipediaより引用) 簡単に言えば「東スポに真実が書いてあるわけねーじゃん」ということですかね。 まあ「マドンナ痔だった」、「落合家チンポ丸出し放送」、「人面魚重体」、「阪神次期監督上岡龍太郎」、「宇宙人化石発掘」、「ネッシー出産」、「電線に止まったUFO」、「SMAP解散」、(以上、wikipediaより引用)(当然ならが末尾に小さく「か?」とか書いてあるわけですが)などという数々の飛ばし記事が書いてきた「新聞」なので、大多数の国民が東スポとはそういうもの、というコンセンサスがあっても不思議はないということなんでしょう。 こうして東スポは堂々と飛ばし記事が書ける地位を手に入れ、しかも裁判所のお墨付きをもらったわけですが、その代償に、当然ではありますが、誰も「新聞」とは思ってくれない。 東スポだってタマには特ダネを流すことはあるにはあるのですが、誰もそれがまともな記事だとは思っておらず、いつもの飛ばしだろと思われているだけだということです。 こうなってしまうと、ネットの落書きと同レベルであって、新聞としての存在意義はない。 東スポはネット記事の作者よりも面白いお話を書かなければ存在意義がなくなるという状態になってしまっています。 まあかく言う私もかつて「宇宙人の撲殺死体が見つかった!」という見出しで思わず買ってしまったことがあります。見事でした。 朝日新聞の問題は事実の誤報にあるのであって、公正さにあるわけではないということです。特に吉田調書に関しては、発言の一部だけを切り取って主旨を捻じ曲げるというジャーナリストとしては最もやってはいけないことをやっています。 これは断罪すべきである。 新聞報道の二つ目のルールは、主義主張に忠実でなければならないという事です。 これはすなわち新聞は公正である必要はない、という事の裏返しです。但し、主義主張を変えることは通常許されません。もし主義主張を変えるのであれば、転向の理由を示さなければならない。 「赤旗」や「聖教新聞」はこの点、主義主張に忠実であると思われていますが(聖教新聞はどのような主義主張があるのか不明ですが)、実際は世論におもねってこっそり転向している場合があります。 例えば「赤旗」(というか日本共産党は)は現在、護憲を主張をしていますが、実際は改憲勢力です。共産主義と天皇制は相いれないのは明白ですが、憲法を一字一句変えてはならんと主張するのであれば、当然、第一条も変えてはならないということであり、であれば共産主義に背信していることになってしまいます。天皇制は廃止し、第一条は変えるというのであれば、護憲を名乗ってはいけない。正々堂々改憲を主張しなければならないのであります。この矛盾を「赤旗」がどう落とし前をつけているのか知りませんが、新聞としては許されない。太田先生は言論の自由を守るという意味において、政治家生命を賭けてでもこのような不誠実な新聞こそ叩かなければならないのであります。 (「聖教新聞」についてもこのような矛盾を指摘したいのだが、そもそもどのような主義主張をされているのかよくわからないので、できないのが残念であります。) 「赤旗」のみならず新聞とはすべからずこのように自らの主義主張に忠実でなければならない。しかしながら、残念ながら日本の新聞でこの点が明確なものはない。 新聞だけにその責任を押し付けることは「公正」ではない。実は最も主義主張が明確なはずの政党においても、明確になっていないのである。 そもそも政党名は自らの主義主張を示すべきであるが、全くそうなっていない。 自由主義、民主主義、社会主義、民主社会主義、共産主義、このあたりは政治的主義を表している。 しかし、「公明」とはどのような政治的主義を表しているのかさっぱりわからない。「公明正大」の省略形なのかもしれないが、そうであっても公明正大は政治的主義ではない。「公明正大」の意味は「私心をさしはさまず、公正に事を行うこと。また、そのさま。」であるが(太田先生が公正さを重視されるのは理解できる)、私心をさしはざまずに政治をやる政党としても、何をするのかはわからない。ある特定個人への崇拝を絶対化するような政治体制を「私心をさしはさまず、公正に」行なわれても、国民は困るのであります。政党であるからには、まずは何をするのかを明確にされなければならない。これは他の弱小政党も同様でありますが、並べてみると涙を誘います。 日本維新の会、次世代の党、みんなの党、結いの党、生活の党、新党大地、新党改革。 みなさん、何がしたいのかさっぱりわかりません。 こんなものが政党として認められ、税金から政党助成金をせしめているのは詐欺ではないか。そして「日本維新の会」と「結いの党」が統合して新党を作る段になって、党名を巡てもめにもめて、橋下代表は「党名などなんでもいいじゃないか」などと極めて不謹慎なことを言い出し、結局「維新の党」という、妥協の産物に落ち着いたらしい。 しかしこれは改悪である。「○○維新」という言葉は「○○、これ新たなり」で「○○を新しくする」という意味で「日本維新」であれば「日本を新しくする」という意味になるが、単に「維新」では目的語がなくなってしまい、意味を成さない。後になって「実は飛田新地を新しくする党である」などと言われても困るのである。 不動産業界では広告に書いてはいけない言葉が多いため、その制約を逃れるため勢い広告がポエムになる(あなただけの私邸席 みたいな)らしいのだが、現在の日本の政党名はそのレベルにすらなっていない。ボキャブラリーが貧困すぎるのである。 さらに卑怯なのは一見政治的主張を看板に掲げていながら、議員さんがその看板の意味をご存じないと思われることが多々ある。 例えば自由主義とは、通常、減税、低福祉のいわゆる小さい政府を目指す政治主義を指すが、現在の自由民主党は増税、高福祉政策という自由主義を名乗る政党としては、ありうべからざることを平気でやっています。安倍首相はアベノミクス政策の善し悪しではなく、自由主義からみた正当性を、ぜひとも説明しなければならない。 ちなみに政党名はともかく、小さい政府を目指すと明確に言っていたのは「みんなの党」である。しかし本当にその政策を実行したら弱者切り捨て政策になるので、「みんなの党」というのはやはり羊を装うためのポエム政党名である。もっとも「みんなの党」もその政治的主張を議員が共有していたわけではなく、四分五裂してしまった。本来、政党が主義主張を同じくする者の集まりであれば、人間の好き嫌いなどで党を割るなどということはあり得ない。党を抜けるという事は、すなわちその党が主張する主義主張を否定し、放棄するということである。すなわち思想的転向である。相当な自己批判が必要だと思うが、そんな話を聞いたことがない。 新聞もそれぞれの主義主張があるのだと思いますが、政党以上に曖昧模糊としている。しかし、事実の正確性と同様、主義主張への裏切りによっても新聞は信用を失います。「赤旗」が「護憲」だなんて言ってはいけないのであります。 「朝日新聞」は偏向していると言われるが、偏向してるもなにも、本来のスタンスが明確ではないので、偏向してるのかどうかさえ分からないという困りものなんですが、私が見るに「朝日新聞」は意図的に偏向しているわけではなくて、大衆世論におもねって、その場その場で反政府的な立場で記事を書く癖があるだけだと思います。すなわち、世論迎合。 「新聞はインテリが作ってヤクザが売る」という言葉があるようですが、インテリの方はあてにならないな、と思いますね。有象無象の世論を当て推量してるだけなんだから。 世論は変わるので、主張も変わるわけです。飛ばしの「東スポ」よりタチが悪いかもしれない。しかもそれを読者に対して説教する。全くもって怪しからん。 そういうわけで、「朝日新聞」を「公正ではない」という理由で批判するのは間違っています。新聞は公正である必要は無いのです。しかし、事実を書かなければならないし、主義主張を明確にして、それに忠実に記事を書かなければならない。朝日はこの2点を踏み外したということにおいて、批判されなければなりません。 聞くところによると、販売店でイヤミを言う読者の方がおられる様ですが、そんなところでイヤミを言っても、本社には全く伝わりません。批判のハガキを書いても無駄です。それを集めて号外を出す程度で、熱心に読むのは読者で、朝日新聞のお偉いさんじゃない。全く無断な行為です。そんな無駄なことをする前に、きっぱり購読を辞めましょう。 そして、大臣という権力者が新聞に公正さを求めるようなことをすれば、それは言論の自由を踏みにじる行為であります。 太田先生には、その点、ぜひとも自覚してもらいたいものであります。 |
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