9.的な、、 2017/03/12 |
ここの所、国会は学校法人「森友学園」への国有地売却や小学校の設置認可をめぐる問題でモメている。安倍首相夫妻に国有地を安く売る口利きがあったのではないか、という疑惑である。なにせ安倍人気は衰え知らずで、攻め手を欠いていた民進党を始め、野党各党が飛びついた格好だ。 一国の宰相を追及するネタとしては、いささかみみっちい話であるが、その是非はここでは触れない。 問題は森友学園と籠池泰典理事長の言動である。 週刊文春が籠池氏を日本会議大阪「代表」と報じると、「日本会議」は「同氏は本会の『運営委員』として名前は連ねておりますが、『代表』ではありません」と反論したという。代表かどうかは知らんが、「日本会議」の関係者であることは確かなようだ。 「日本会議」とは“美しい日本の再建と誇りある国づくり”を掲げ、政策提言と国民運動を行う民間団体だという。良くは知らないが保守的というか、右翼的というか、国粋的な団体、であろうと思われる。 はっきりはしないが、会員の皆様は皇室を尊崇することにおいては人後に落ちるものではないと自負されているものと思われます。戦前のゴリゴリの天皇中心国家にでも戻そうと企んでいる、そんな思想信条を持たれているものと推察します。 野党や朝日新聞の論調では、その思想信条そのものが怪しからんということになっているが、それも特に悪いとは思わない。集団で暴力行為を働くといった犯罪行為が無ければ、誰がどのような思想信条を持とうが、個人の自由である。野党や朝日新聞が大好きな憲法にもはっきり書いてある。これに反して、個人が特定の思想信条を持つことは怪しからんというのはダブルスタンダードであり、お前の方が怪しからん。 さらに「森友学園」が運営する塚本幼稚園では園児に「教育勅語」を暗唱させていることも問題にされている。偏向教育だという。しかし、私立の学校というものはすべからく偏向教育である。私が通った幼稚園は田舎のミッション系幼稚園だったが、卒園式で「キリストの誕生」という劇をやることが「偏向」だとは言わないだろう。父系が納得していればそれで良いのである。 教育勅語『教育ニ関スル勅語』とは、山縣内閣の下で起草され、明治天皇の名によって山縣有朋内閣総理大臣と芳川顕正文部大臣に下され、1890年(明治23年)に発布された教育に関する勅語である。ちなみに「「勅語」とは天皇が国民に対して発する意思表示の言葉である。最近では譲位(生前退位)の「お気持ち」を示されたことも勅語と言えるが、今日ではこのような大時代的な用語は使わないだけのことである。 2017年3月9日の報道によると、報道陣に囲まれた籠池氏は、教育勅語についてこんなことを言ったらしい。(朝日新聞デジタルより引用) 「何かことがあったとき、自分の身を捨ててでも人のために頑張んなさい。そういう教育勅語のどこが悪い。まったく悪くない」 私はこの言葉を問題視したい。 なぜかというと、この言葉は「勅語」の良し悪しを「評価」しているわけです。 先に書いた様に「勅語」とは恐れ多くも畏くも天皇が国民に対して発する意思表示の言葉、であるわけで、臣民としてはただ承るべきものでなければならない。その「勅語」に対して良し悪しを論ずるなどということは不敬極まりない。およそ皇室尊崇者を自称する者が口にしてはならない言葉だろう。 籠池、語るに落ちたり。 ちなみに籠池氏の幼稚園では園児に教育勅語を暗唱させているそうだが、これも戦前の、ゴリゴリの天皇中心主義時代ではたぶん不敬罪でしょっ引かれることになります。 戦前、教育勅語は校長が奉読するものでした。教育勅語を読むという行為は、天皇に成り代わって代読する、ということであり、その場の最高責任者の役目だということです。それ以外の者が読むことは許されない。ましてやワケもわからないガキがワーワー読むようなものではない。あたかも天皇がそこに臨席されているがごとき厳粛な雰囲気の中で奉読されなければならない。 それが保守的というか、右翼的というか、国粋的な人の本来の言動でなければならないわけであります。 そういう意味からすれば、籠池氏も、また幼稚園児に教育勅語を読ませることを是とするその他自称天皇尊崇者の大半は、全く天皇を尊崇していない。むしろ、天皇を自分の箔付に利用しようとする、まことに不敬な輩に過ぎない。 天皇の神格化をむしろ否定しているわけです。 ちなみに日本人はキリスト教徒でも、絶対神というものを誤解している場合があるという。例えば「神にお願いする。」というのは神を自分の使役にしているということであり、涜神的な行為になります。捨てる神あれば拾う神ありで生きてきた日本人には絶対神というものが、体質的に合わないんでしょうね。天皇に対しても、そのようなボロが出てしまっているように思います。 さて、それに続けて朝日新聞デジタルの記事は、こんなことが書いてあります。 『教育勅語は明治天皇が1890年、教育の根本理念を示すものとして授けた「教え」だ。中には、夫婦が仲良くする、父母に孝行する、友達を大事にする、といった一般的な道徳を表す項目もある。 しかし、教育勅語の本質は別のところにある。 君主に従い、奉仕する人民という意味で、国民を「臣民」と記している。さらに、臣民は国家の一大事には、勇気をふるって身を捧げ、「皇室国家」(戦前の文部省訳)のために尽くすとも書かれている。籠池氏の発言は、この部分を念頭に置いたものと受け止められる可能性もある。』 籠池氏はまさにそのつもりで言ったものと思うが、あたかもそれが悪いかのごとき書き方である。しかし、先に書いたように、個人がどのような思想信条を持つかは、個人の自由であり、それを否定することは朝日新聞が大好きな憲法を真っ向から否定することになってしまう。 しかし、先に述べたように、籠池氏の発言は、実は天皇の神性をむしろ貶めているものである。「君主に従い、奉仕する人民」どころか、籠池氏はその君主を己の使役に使っているわけで、それを朝日新聞が否定するというのは、もはや喜劇ではなかろうか。 実はこの問題の真の問題はここにあると思っているわけです。 言論の貧困。 キーワードだけで議論が上滑りしていて、もはや自分が何を言っているのかわからなくなっている。 籠池氏は自らを保守的な、右翼的な、国粋的なものと考えておられる様だが、それがどのようなものかその本質を考えることもなく、それに関連したキーワードだけをまき散らす。そしてキーワードだけを形式的に批判する。それも大新聞がである。 もはや大新聞も、世論の木鐸足りえない。 これはもはや喜劇ではあるまいか。 |
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