国の起源と紀元

はじめに

世界のカレンダーの多くは、西暦を基本とし、あるいは西暦を参考に記入しています。曜日の名前と同じく、次第に西暦が世界標準になっているようです。
しかし、イスラム教、ユダヤ教をはじめとして、宗教に根付くカレンダーは、しっかりその伝統を守っています。また特にアジアの国々では、古くからの紀元が残っています。世界の各国の紀元と、その根拠を調査して行くと、その国の起源についての考え方がおぼろげながらわかってきます。
一年を数える方法に、ある年を起点として直線的に数えて行く方法と、ある周期で元に戻る数え方があります。
直線的な数え方は、西暦、平成などで、周期的に戻る方法は、干支の甲子、乙丑など、中国、韓国で今でも一般的に利用されているものがあります。

周期的に戻る数え方は、主に宗教や占い関係していて、その世界観を表すものになっています。
それに対して、直線的な数え方は、その時の権力者、王朝などの設立されてからの年を数えるものが多く、割合頻繁に元に戻ります。
ただ、ユダヤ教、あるいはキリスト教のように、超長期の予言を含むものは、その予言の時を数えるために、長期に直線的な数え方になっています。(その予言の時の後はどうするかはわかりませんが。)

現在の科学的にいろいろな現象を解析するためには、直線的な考え方が尤も合理的に使えるため、キリスト教からの西暦を使うことが多くなっていますが、これもキリストが誕生する前の時代を想定していなかったのに、BCBefore Christ)を使うようになっていて、もう宗教の範囲を超えています。 
各国のカレンダーを見てみると、この西暦を世界標準として記しながら、各国の独自の紀年法も併記しているものも多く、ここではその起源を探ってみたいと思います。


日本の紀元


日本では、昭和、平成という元号が法律的には正式な紀年法となっていますが、一般的に西暦も用いられています。
また、干支による年の数え方も、生まれた年を認識する方法として、広く使われています。
神社庁の伊勢暦などに記されている神武天皇即位紀元は、ほとんど使われていないようですが、法律の上では、閏年を決めるために使われています。

元号

中国から伝わってきたもので、日本では645年に「大化」という元号が建てられましたが、元号制度が定着したのは701年の「大宝」からで、以後1300年にわたり続いています。

神武天皇即位紀元

真珠湾の日米開戦の前年昭和15年には、神武天皇即位紀元2600年として大々的に祝賀会が開かれ、その年に開発された戦闘機がゼロ戦と命名(00年より)されるのに使われたり、昭和16年生まれの人に礼一(01)という名前がつけられたりしています。

この神武天皇即位紀元は、聖徳太子が中国から伝わった讖緯説(シンイセツ)を利用して日本の建国の年を定めたとされています。

讖緯説は、年の干支によって吉凶を占うもので、辛酉は「天が命を改め、王朝を立てる」年であり、21回(1260年)ごとに大変革が起きるとされています。

聖徳太子が斑鳩の里に、宮殿を建てた601年が辛酉の年であったので、その1260年前(紀元前660年)を、神武天皇の即位の年すなわち日本の建国の年として、国史の編纂にしたとされています。

この神武天皇即位紀元は、明治6年に太陽暦を採用した時に、元号と同時に利用することが定められ、第二次世界大戦終了まで公式に使われました。

閏年を定める明治31年の勅令の中に使われ、現在もこの法律が生きているので、閏年の算定には、神武天皇即位紀元が用いられています。

勅令 第九十号(明治三十一年五月十一日)

朕閏年ニ関スル件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム
神武天皇即位紀元年数ノ四ヲ以テ整除シ得へキ年ヲ閏年トス但シ紀元年数ヨリ六百六十ヲ滅シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス

 

 


  干支

干支は、中国から伝わってきたもので、十二支と十干を組み合わせて、60通りの組み合わせがあり、60年で循環する循環年法です。

人の平均寿命50〜60年の時代には、特に通常の生活では問題なく使用できる範囲の年法です。

  西暦

西洋の暦、グレゴリオ暦を日本が採用したのは、旧暦明治5年12月3日を新暦明治6年1月1日とした時ですが、この時は西洋の紀年法は採用せず、神武天皇即位紀元を用いました。

第二次世界大戦後、正式には元号が持ちられていますが、西暦も併記されて、現在は西暦と元号が併用されています。



統治者の名前などで年を記述

アッシリア

毎年一人の最高官職者を選出して、その官職者の名前の年と記述し、王名表を作っていた

エジプトの王名表

歴代王朝の在位期間が記録され、王名表として残されていた

ギリシャ

スパルタでは、王の在位何年目と表記
アテネなどは、最高官職アルコンの名前を記録

ローマ

共和制の時代は、2名の執政官を選び、その執政官名の年とした

オリンピア紀元

伝説上は、紀元前776年に第一回が開催され、その後4年ごとに開かれたが、第何回オリンピア紀の何年目などは、ほとんど用いられていなかった。


西洋の紀元

エジプト

太陽暦が作られ、毎年同じような季節が繰り返されることとは別に、昨年、今年、来年と繰り返すことが無い事柄があることを認識し、年次と呼ぶ概念を確立しました。そしてピラミットが何時出来上がったかを数えるのに、最初に王朝が確立された年を基準に、年次を考え、紀年法を創設しました。

ローマ紀年

ローマでは、ローマの建国の年を1年目として紀元を計算していました。このローマ建国は、紀元前753年とされていました。

ディオクレティアヌス紀年

ローマ皇帝のディオクレティアヌスは、この紀年法を改め、自分の即位の年、西暦284年を起点とするディオクレティアヌス紀年を制定しました。

この紀年法は、6世紀に見直されるまで使用され、またコプト暦や、エチオピア暦に受け継がれて、現在に至っています。

キリスト紀年(西暦)

6世紀になって、ディオクレティアヌスが、キリスト教を迫害した皇帝であり、その即位を起点とする紀年法に疑問が呈され、キリスト生誕の年を1年目とする紀年法が提案されました。

西暦525年にディオニシウス・エクシギウスという進学者が提唱した計算法を用いて、西暦が定められました。

ただしイエス・キリストの誕生は、現在の解析では紀元前4年とされており、この時代の解析は間違っていたようです。

紀元前の考え方

キリスト紀年法ではキリスト生誕以前は存在しないものでしたが、ルネッサンス以降、西洋文明の祖であるギリシャ・ローマ時代の研究が進んできて、そのような時代の年代をいかにあらわすかが問題となり、18世紀に紀元前という概念が確立されました。

しかし旧約聖書にある、天地創造以前については、キリスト教徒にとっては存在してはならないもので、エジプト、ギリシャなどの歴史も天地創造以降に生じたものとしていましたが、中国の歴史に接し、天地創造以前にも歴史が存在することが明確になったため、ついにこの紀年法がキリスト教にとらわれない形で使われるようになったのです。

しかし、それでもBC(Before Christ)という記述を嫌い、BCE(Before Common Era)と表示する考え方もあります。

キリスト教国間の年の定義の差異

1582年にローマ教皇グレゴリウス13世は、ユリウス暦による春分の日と復活祭の関係の誤差を修整するために、10日の日付を飛ばしたグレゴリウス暦を定めました。

しかし、キリスト教もカトリックだけではなく、プロテスタント、あるいはギリシャ正教、ロシア正教などは、17世紀から19世紀まで従来のユリウス暦を用いたりしていましたので、国際協定などでも別々の日付、年などが使われていました。例えばイングランドは、3月に新年が始まっていたので、1〜2月は前の年に属していたりしました。

世紀末、ミレニアム(千年)

西暦で数えて、100年単位を世紀、千年単位をミレニアムといって特別な意味を持つかのように喧伝されることもあります。

ラテン語で、連続した一塊の時間を意味するサエクルム(saeculum)という言葉を、13世紀に100年を単位とする方式に当てはめられました。

それが18世紀にイエス紀年法と連動して、世紀が序数かされて使われるようになり、それが世紀末など特別な意味を持つかのように扱われるようになしました。

また、ミレニアムは、ヨハネの黙示録による世界動乱の到来を表すため、西暦1000年には、エルサレム巡礼が奨励されたりしました。

今回の西暦2000年も、世界各国で、カウントダウンや花火などで祝う催しなどが見られました。

ちなみにエチオピア暦では、西暦2007年が2000年に当たるため、ミレニアムは西暦2007年で、いろいろ騒がれているようです。

フランス共和紀元

フランス革命を基準とするフランス共和暦で用いられたもので、1792年を紀元としていますが、1806年にナポレオン3世によって廃止されました。

世界創造紀元

旧約聖書の天地創造を基準とするもので、東方正教会で使われていました。
紀元前5508年を元年とします。



中国の紀元

中国の紀年法は、現在は西暦と干支が使われています。またそのほかに、元号が利用されていましたが、清朝が滅亡してからは、利用されていません。

干支

尤も古くから使われているのは、干支によるもので、日本にも伝わり、現在も太陰太陽暦とあいまって、一般によく使われています。

元号

前漢の武帝
(BC156-BC87)が、即位した年を「建元元年」としたのが始まりといわれます。

西暦

日本より遅く、1913年に辛亥革命が起きて、清朝が滅亡した段階で、西洋の太陽暦を採用しました。

孔子紀元

孔子の没年を基準とするもので、清朝末期の変法派が主張しました。

中華民国紀元

中華民国紀元は、中国の辛亥革命で清王朝がほろび、中華民国が成立した1912年を元年とします。太陽暦もこのとき採用されました。日本で太陽暦が採用されて40年後のことです。


朝鮮の紀元

西暦

1896年に太陽暦が採用され、現在の正式な紀元となっています。

檀君紀元

現在の韓国は、西暦を正式としていますが、そのほかに檀君紀元があります。

これは次のような神話の中に出てくる檀君が朝鮮を建国した紀元前2333年を紀元としています。

太古の昔、桓因という天帝の庶子に桓雄がいた。桓因は桓雄に天符印三個を与えて天降りさせ、人間世界を治めさせた。太伯山上の神檀樹下に下りたかれは、風伯、雨師、雲師をしたがえて穀・命・病・刑・善・悪をつかさどり、人間の三百六十余事を治めさせた。

このとき一匹の熊と一匹の虎が洞穴に同居していて、人間に化生することを念願していた。桓雄は一束のヨモギと二十個のニンニクを与えて、百日間日光を見ないように告げた。熊は三七日目に熊女に化生したが、虎は物忌みできず、人間になれなかった。桓雄が熊女と結ばれて生まれた檀君王倹は、中国の尭帝即位の五十年に、平壌を都として朝鮮と称した。

干支

中国、日本と同様、干支が昔から使用されてきています。

主体(チェチュ)紀元

北朝鮮では、1997年に、金日成が生まれた1913年を元年とする紀年法を制定しました。


ユダヤ教の紀元

BC3761年

創世紀元(ユダヤ暦):ユダヤ教の「神が天地を創造したとき」の紀元前3761年を元年とした暦で、新年は9月ごろに始まります。


イスラム教の紀元

ヒジュラ紀元

イスラム教の開祖マホメットが、迫害を逃れてメディナに移住した
(聖遷・ヒジュラ)年を起点とします。イスラム暦は、1年が季節の1年より短いため西暦2000年に1421年を迎えますが

ジャラリー紀元

イランのイスラム太陽暦で、西暦2000年
3月の春分の日から1379年となります。



東南アジア各国の紀元

ネパール/ヴィグラマ暦

太陰太陽暦を用いていて、西暦2007年はネパール暦2064年となります。

すなわち起源は紀元前58年から始まります。

紀元前2世紀末から紀元前1世紀にかけて、中欧アジア系遊牧民族のシャカ族が南下して、アフガニスタンに入り、そこからさらに移動してインドに入りました(インド・スキタイ族)。この民族は、紀元前1世紀半ばにでたマウエスとアゼスのもとで強力となり、インド・ギリシャ人勢力に代わって西インド・西北インドの広大な地を支配下に置きました。

一説によると、紀元前58年に始まるヴィグラマ暦は、アゼスの即位に始まるといい、また別の説によると、西インドの王ヴィグラマーディティがシャカ族に勝利したことを記念して始めたといわれます。

サカ暦

サカ紀元は、西暦1957322日をサカ暦1879年カイトラ(1)1日として実施されたインドの紀年法です。(AD78年紀元)

1世紀にインドで成立したクシャーナ王朝の王、カニシュカが即位した西暦78年を元年とするといわれています。(ただし即位した年は、西暦128年ごろあるいは西暦144年ごろと推定する説もあります。)

カニシュカの父ウィマ・カドフィセース王は、それまでの銀貨に代えて金貨を大量に発行し、カニシュカもまたさまざまな意匠の金貨を発行しました。

紀元(バングラデシュ)  

西暦594を元年とする紀元

紀元(ミャンマー)     

西暦639を元年とする紀元

共載紀元

モンゴルのボグド・ハーン政権樹立の年を元年にするものです。




アフリカ各国の紀元

エチオピア暦

エチオピアでは、キリスト教の一派であるエチオピア正教会がありますが、ここでは、イエス・キリストの誕生したのが、西暦7年であるという見解にたっており、この年を元年とした太陽暦(ユリウス暦)を用いています。

そのためエチオピアでは、西暦2007年はエチオピア暦2000年に当たり、ミレニアムとして祝われています。

ちなみにクリスマスもユリウス暦により、12月25日ではなく1月7日です。

コプト暦

コプト教会は、イスラム教徒と共有しているヒドゥシュラ暦(西暦622年を元年としている)のほか、AD284年を始まりとする独自の暦を使っています。
ディオクレティアヌス帝の治下、キリスト教徒迫害は強まり、もっとも殉教者を出したのがエジプトでした。その80万人を超えたという殉教者の記念のため、ディオクレティアヌス帝が帝位についた西暦284年を元年としています。

日付は、古代エジプトの暦の構成にしたがって、9月11日に始まります。各30日の12ヶ月と、5日(うるう年は6日)だけの短い月があります。

アレクサンドリアでの暦

キリスト教紀元は出来るだけ正確に復活祭の日を決めたいという暦算家により、アレクサンドリアで決められ、ディオクレティアヌス帝の即位年(西暦284年)を起点としていました。暦算家の考えでは、天地創造の年は、新月とともに始まったはずであり、ディオクレティアヌス帝即位の年は、ちょうど新月から始まっていたからでした。

参考文献

1)こよみ;東京大学公開講座;東京大学出版会

2)暦の歴史;ジャクリーヌ・ド・ブルゴワン著 池上俊一監修;創元社

3)歴史物語 朝鮮半島;姜在彦(カン・ジュオン);朝日新聞社

4)(暦のからくり;岡田芳朗;はまの出版)

5)暦――月日を奏でる世界 月光天文台監修;財団法人 国際文化交流会

6)インターネット フリー百科事典 Wikipedia


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