プルトニウムと半世紀

 50年前高校を卒業する時点では何に進むか考えてはいなかったのですが、できたばかりの原子力工学科に進み、茨城県東海村に赴任してプルトニウム燃料研究室の立ち上げにかかわってから今まで、ずっとプルトニウム(Puと略称)にまつわる仕事をしてきました。

 Puというのは、自然界では半減期が短いのですでに消滅してしまっていますが、原子炉の中でウラン(Uと略称)に中性子が当たることにより継続的に生成され、Uと同じように燃えてエネルギーを発生します。このため原子炉の燃料では初めはUが燃焼しますがUが消費されるとともにPuによる発熱が多くなり、燃料の寿命が来るころにはPuのほうが多く燃えています。寿命がきた燃料の中にはまだ多くのPuがあるため、それを再処理して取り出して新しい燃料に作り直すことによってリサイクルするのが燃料サイクルです。すなわち原子力は当初からリサイクルを念頭に置きそれによって成り立つシステムで、その根幹に位置するのがPuです。

 昭和40年建屋ができたばかりの日本で初めてのプルトニウム燃料研究室内は、奇麗に塗装された広い部屋がいくつもあるだけでその稼働開始にかかわりました。私の担当は燃料ペレットを焼き固める製造ラインの安全作業基準を整備することで、U燃料製造経験を勉強しながらPuの特性を加えて基準を作成していきました。休日出勤で靴底に汚染した時に除染しやすいように、通常仕様で凹凸のある安全靴の底をグラインダで削ったのも創立の雑務のひとつです〈写真〉。この製造ラインの試験運転で最初のU燃料を電気炉で焼き上げも担当し、一晩中電気炉の温度を測定しては電流を調節したのを記憶しています。

 Pu燃料集合体の設計を担当し、最近やっと九州電力の玄海発電所で実施されるプルサーマル燃料の試作や海外での照射試験燃料設計を行ったので、45年後にやっと日の目を見るプルサーマルには特別な感慨があります。このプルサーマルは、現在世界中で40年前から合計57基の軽水炉で使用実績があり、グリーンピースの影響の強いドイツでさえ、フランスで再処理したPu15基の原子炉に入れて燃やしています。

 70年には1年間米国シカゴのアルゴンヌ国立研究所に留学し、高速炉燃料の照射挙動の勉強をしましたが、帰国後すぐに日米再処理交渉の事務局に組み込まれました。核兵器拡散を恐れる米国政府が日本の再処理を認めたくないのに対し、米国の技術者は原子力にPuのリサイクルは不可欠であるとの信念から日本側と協力し、何とか政治的に容認できる利用法を編み出したのがUPuを一緒に抽出する混合抽出法で、世界で唯一非核兵器保有国の日本が再処理を公認されることとなりました。この工程は、現在青森県六ヶ所村の再処理工場に採用されています。この時米国側で一緒に作業した研究者と、84年からの米国赴任を含み現在もクリスマスメールをやり取りする付き合いが続いています。これ以降、私も何かにつけ国際的な交渉の場に駆り出され、国際原子力機関(IAEA),経済協力開発機構原子力部(OECD/NEA)、米英仏などの会議に出席することとなります。

 この騒動の後しばらくは平穏な時期が経過し、Pu燃料を国内外の原子炉で照射するための設計、および常陽やもんじゅなどの原子炉燃料の設計に従事しています。海外照射を行った国は、フランス、ノルウェー、英国、米国(最後まで解放されなかった)などで、7080年代が最も協力が活発な時期でした。この東海村で設計し海外に送り出した照射燃料の多くに、90年代に赴任した大洗の照射後試験施設で試験に向き合うこととなります。すなわち設計から製造、照射、照射後試験を一つ完成させるためには15年以上の年月が必要です。原子力は最先端技術のようですが、最も重要なのが十分な知識と使用実績がある安定性の高い技術を、高い信頼度を持って組み合わせることが重要で、このような15年にわたる実験を数多く積み重ねることが要求されます。橋本改革あるいは事業仕分けなどで短期的な成果が要求されてきていますが、本当の原子力開発は地道な実績の積み上げでしか達成できないことを知っていただきたいと思います。

 転機が来たのは84年で、Puをフランスから日本に船で輸送する計画が本格化し、米国籍のPuを扱うために米国政府と密接な連携をとる必要があり、ワシントン事務所長としてウォーターゲートホテルの一室に赴任しました。東海で最初にPuをイギリスから輸送した時は航空機輸送で、隣同士積み込んだ核物質が近接して臨界になるのを防ぐために鳥かごのような籠の中心に缶詰のPuをつってきましたが、80年代には航空機の墜落事故を想定して、船舶輸送しか認められなくなっていました。

 赴任して最初の半年はPuの輸送にかかりきり、日本大使館の指導のもとで米国政府のエネルギー省、原子力安全省、国務省など関係省庁との連絡に忙殺されましたが、この中で米国のPuに対する警戒心など、多くの勉強をしました。また議会での議論なども常時傍聴し、米国の政策形成過程なども理解しました。

 米国駐在は3年半ですが、この間に国内各原子力研究所をくまなく回り、エネルギー省とも連携して日米の原子力協力の中継ぎを行いました。中でも印象に残るのがオークリッジ国立研究所で行っていた高速炉燃料再処理の研究が政策変更により継続できなくなり、如何にその技術を存続させるかで悩んでいたものを、日本で動燃事業団の高速炉再処理研究に反映させて技術継承しようという計画を日米の関係者を説得して成功させたもので、現在の東海村の高速炉再処理研究の中には多くの米国の研究成果が反映されています。先の再処理交渉と同じく、政策立案とは別に技術者の連携がとても大切であることを実感しました。このような時に日米再処理交渉時の米国技術者、その後の国際会議や日米協力の担当者など知人に本当に助けられました。

 帰国後に担当したのは保障措置で、これはIAEAを中心に世界の核物質を平和利用に限定するためにすべての核物質を把握しようとする試みをサポートするもので、それに加えてテロリストなどからの妨害を防止するための核物質防護条約が批准されたのに伴う現場の各施設の防護体制を整備することです。これもPuが核兵器に利用可能であることからくるものですが、とくに防護体制などは民間人が兵器を所有することが認められている米国などと、空気銃でさえ許可のいる日本とではそのシステムなども違うはずで、常に世界標準と日本の実情のマッチングに神経をすり減らした時期です。米国からの査察団を案内する時もワシントン時代の人脈を生かして、日本の社会情勢の理解などでかなり支援してもらいました。

 90年からの4年間は一転して大洗の研究施設の部長として十数年ぶりに本来の技術屋に戻り、楽しい日々を過ごしました。ここで先に述べた東海で設計した照射燃料の照射後試験に立ち会ったのですが、現場で改めて設計屋の要望である信頼性の高い、統計処理ができる多量のデータの取得を指導したことが最も重要なことと思います。その成果として、常陽(高速実験炉)のドライバー燃料(運転だけに使われる燃料)を試験対象として、できるだけ多くのデータを集めることを行った結果、米国原子力学会賞を2回受賞する成果を上げてくれました。燃料というのは、そのデータを集めるには普通の機械部品のように数年で実験が完了するものではないということをこれからの開発計画に勘案する必要があると痛感しています。

 大洗から国際部に転勤になり、再び世界各国の原子力関係者と接するようになりました。95年にもんじゅがナトリウム漏えい事故を起こした際も海外の原子力関係者に情報を流していましたが、ある程度情報を流した段階で、海外の反応は「これは技術的問題ではなく、日本特有の社会問題である」とのもので、日本での原子力の開発の問題点を突き付けられました。

 原子力に携わって思うことは、「ペンは剣よりも強し」という福沢諭吉の言葉にある通り、今の世の中では言論は最大の武器となっています。しかしその武器を利用している言論界に、環境影響評価という概念が欠如していることに危惧を覚えます。

 今風力発電の低周波やバードストライキングなどの公害について、設置前に事前に環境影響評価を求めようという機運が広がっています。原子力では最初からこのような評価が義務付けられ、その評価が認められて初めて計画が進行します。しかし何よりも強いペン「マスコミ」は特に現在の社会では非常に大きな影響力を持っています。このマスコミにおいて地球温暖化の切り札と考えられている原子力について、意識的に無視した論調がほとんどです。先に述べたプルサーマルのニュースでは、Puがどのような毒性があるかなどということは紹介されますが、世界の多くの国でプルサーマルは普通のものであることには一切触れられていません。

 もしこのような意識的な無視により、地球温暖化が10年・20年早まるとしたらその被害はどの程度のものになるか一度検証してみてはいかがでしょうか。今自分が「ペン」をとって行っている仕業が、この世の中をどのように動かし、その影響がどのようなものになるものなのか、「ペン」を振り回す前に「影響評価」をしてみてはいかがかと思います。

私の半世紀は以上のようなことで終わりましたが、娘が原子力やとして後を継いでくれています。あと50年、本当の高速炉時代が来るのは孫の時代でしょうが、多くの世代を通じて開発していくべきものがPuの利用だと思います。


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