コラム<ハワード・ヒューズ>
 映画と飛行機を語る上でこの億万長者に触れないわけにはいかない。ハワード・ヒューズは1905年12月24日にテキサス州ヒューストンで生まれた。当時のテキサスは石油の採掘で賑わっていたが、父親が発明した回転式の掘削ドリルは深部の油層まで掘り進むことが出来るため評判となり、設立したヒューズ工作機械会社には大金が転がり込んできた。そのため、ハワード・ヒューズは何不自由ない少年時代を送っていたが、16歳の時に母親が病死、18歳で父親も亡くなり孤児となってしまった。まだ成人していないこともあり父親の親戚たちが会社の経営権を奪おうとしたが、ヒューズは裁判に訴え正当な相続者として認められた。
 会社の実権を握ったものの、会社の経営は求人募集で採用した有能な人間に任せ、彼自身は結婚したばかりの花嫁と一緒にハリウッドに向かった。製作会社を設立すると、後に「戦艦バウンティ」を撮るルイス・マイルストンを監督として雇い、「美人国二人行脚」(27年)などの作品を製作しヒットさせた。自信を持ったヒューズは、今度は監督業にも乗り出し第一次世界大戦の西部戦線を舞台にした「地獄の天使」(30年)を撮ることにした。迫真の空中戦を撮るため本物の戦闘機や爆撃機を購入し、撮影に適した場所を求めてヒューズ自身も操縦桿を握ってカルフォルニア中を編隊を組んで探し回った。当初サイレント映画として製作していたがトーキー映画が幅を利かせ始めたため、急きょトーキーで取り直すこととなり、ヒロインも伝説的なセックス・シンボルとなるプラチナブロンド(染めていたらしいが)のジーン・ハーローに変更になった。膨大な製作期間とそれまで作られたどの映画の製作費もしのぐ当時として空前絶後の400万ドルの予算がかけられ、撮影したフィルムの99%が切り捨てられて完成した作品は誰もが金持ちの道楽と揶揄したが、公開されると大ヒットし元が取れてしまった。しかし、映画製作に夢中の夫に愛想を尽かした妻はテキサスに帰り離婚となり、以後ヒューズは数々の有名女優と浮き名を流すことになる。ヒューズは続けて何本かの似たような映画を製作したが失敗作となった。そのためこれまでの路線を変更して社会派リアリズム作品を手掛けることしてルイス・マイルストーンに「犯罪都市」(31年)、ハワード・ホークスに「暗黒街の顔役」(32年)を監督させ高い評価を得た。脚本は2作品とも当時の売れっ子脚本家だったベン・ヘクトで、「犯罪都市」は後にビリー・ワイルダー監督、ジャック・レモン&ウォルター・マッソーの名コンビで「フロント・ページ」(74年)として、また、「暗黒街の顔役」はブライアン・デ・パルマ監督、アル・パチーノ主演で「スカーフェイス」(83年)としてそれぞれリメイクされている。
 ヒューズの興味は映画から飛行機に移り、スピード競技用の飛行機の製作に乗り出した。そのためにヒューズ・エアクラフトを設立するが、この会社は後にヘリコプターや人工衛星などを開発する巨大軍需企業へと成長した。ジェラルミンと合板で出来た単葉機が完成すると、周囲の反対を押し切って自らパイロットとして乗り込み1935年9月に世界速度記録をあっさり更新したが、記録更新後エンジンが停止して畑に不時着した。ヒューズは怪我もなく、飛行機の損傷も軽微だったため翌年には同じ機で北米大陸横断の最短記録を更新した。ヒューズの野望は留まるところを知らず、1938年には大幅に改造したロッキード・スーパーエレクトラで世界一周飛行を敢行し、それまでの記録の半分以下となる3日と19時間17分で一周し、空の英雄となったヒューズを讃えてニューヨークでは凱旋パレードまで行われた。ヒューズは来るべき定期航空時代を見越して、創立に大西洋無着陸横断のチャールズ・リンドバーグも参加していた後のトランス&ワールド(TWA)航空を買収し、ロッキード社に旅客機の発注を行った。設計段階からヒューズの希望を大きく取り入れて完成した旅客機はコンステレーションと名付けられ、4発プロペラ旅客機の傑作機として500機あまりが製造され世界中の航空会社が採用した。
 第二次世界大戦が始まったため、ヒューズの航空機会社も飛行機部品や大砲などを製造することになったが、空撮用偵察機と巨大な水上輸送機を作る計画を軍に提案し許可を受けると製造に着手した。休むことを知らないヒューズは、映画の製作も再開し、ハワード・ホークスに「ならず者」(43年)を監督させるが気に入らず、自分で監督することにした。主演のジェーン・ラッセルの豊満ボディを強調しすぎたため教会や婦人団体から上映禁止の運動が起こったが、それがよけいに評判となり戦時中にもかかわらず映画館は大入りとなった。ヒューズの航空機会社で製造するはずだった飛行機は結局戦争に間に合わず、戦後ヒューズは自ら空撮用偵察機のテスト飛行を行うが、墜落し瀕死の重傷を負う。回復すると、上院調査委員会から不正受注契約のやり玉に挙がっていた史上最大の水上機をたったの1.6qだが自ら操縦して飛ばすことに成功した。このハーキュリーズと呼ばれた巨大機の全幅は100m近くもありジャンボ機より30mも長い。このけた外れの巨体を離水させるために1基3000馬力のエンジンが8基も搭載されていた。しかし、この後この巨大機は二度と飛ぶことはなく、現在も博物館に保管されている。(「タッカー」でその雄姿の一部を見ることが出来る)
 1948年には赤字で苦しむ映画製作会社RKOを買収するが、一度も黒字になることもなく5年後には売却している。以後映画事業からは手を引くが、他の事業は好調でますます資産は増える一方だった。ヒューズの航空会社らしく世界で初めて機内で映画を上映したTWA航空を1966年には売却し、その金でラスベガスに進出した。この頃から病的な潔癖性となりホテルの一室から一歩も出ることなくラスベガス中のホテルや航空会社を買いあさったが、このことがギャンブルの町に巣くっていたマフィアを追放するきっかけともなった。4年近くこの町に滞在していたが裁判やマスコミから逃れるため外国を転々とし、飛行家として名をはせたヒューズらしく1976年4月5日、移動中の飛行機の中で息を引き取った。
 ヒューズと浮き名を流した大物女優にはジンジャー・ロジャース、キャサリン・ヘップバーン、オリビア・デ・ハビランド、ラナ・ターナー、ジーン・ピータース、エバ・ガードナーなど錚々たる顔ぶれが並ぶが、この内ジーン・ピータースとは再婚しており彼女は女優を引退している。
 「007/ダイヤモンドは永遠に」(71年)のウィラード・ホワイトや「コンタクト」(97年)のハデンなどは明らかにヒューズをモデルにした謎の資産家である。昼夜関係なく働き、無精ひげによれよれのシャツという金持ちらしからぬ風体、現金は持ち歩かず電話するにも人から金を借りたとか、晩年の極端な韜晦、などなど多くの逸話と伝説を残したが、2004年にマーチン・スコセッシ監督がレオナルド・デカプリオ主演でヒューズの伝記映画「アビエイター」を製作するので、この謎の人物にあらためて注目が集まりそうである。